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第五章③誰よりも人間臭いシータ・ロイド

 青と黒の流星――アンヴァーとカナエがぶつかりあい、それから数刹那、音さえ凌駕して爆音が響く。

《………》

 凄まじい衝撃の後、カナエ・リヴァーサスはその美しい姿を再び失い、鈍色のスライムとなり地面に震えながら転がっていた。

「……はぁ、はぁ」

 ぼやけた視界の先、さっきまで壁だった瓦礫が盛り上がり、あちこちが傷だらけ、戦斧は完全に砕け散った、しかし五体満足であるアンヴァーが現れる。

(……ダメだ、これは)

 一方、いくら動かそうとしてもカナエの身体はただ震えるだけ。

 美しい姿を守るために全力を出して戦ったがゆえにそれは失われ、挙げ句死の淵に立たされている――なんという皮肉だろうか。

(……死にたくなあ)

 姿を一度取り戻したがゆえの燃え尽き症候群か、『生きたい』という気持ちさえも先程の一撃に込めてしまったのか。

 その気持はひどく希薄で、なんだか現実感というものがなかった。

「………」

 しかしアンヴァーはというと、とどめを刺すわけでもなく、エンゲージリングを触りながらぶつぶつとなにかをつぶやいているだけ。

 とても戦闘中の緊迫感はそこにはなく、すべてが終わったかのような錯覚さえも受け、それがカナエから現実感を剥奪していた。

「……嫌だ」

 やっとカナエはアンヴァーのつぶやきの中身を捉える。

《……?》

「――わたくしは、死にたくない! 死にたくないんだあああああああッ!!」

 あまりにも唐突、半狂乱の絶叫とともにアンヴァーは駆け出した。

《……!?》

 思わずカナエは身構えるが、しかしなにも来ない。

 ただ彼女はカナエを素通りして、廃ビルから逃げ出していく。

 表情は純粋に恐怖に歪み、滂沱の涙さえも流して、まるで己こそが絶体絶命に追い詰められているかのように。

(……あれ、エンゲージリングが――)

 ぼやけた視界は、薄れゆく意識は、カナエは何者かから逃げるアンヴァーの首元、エンゲージリングに微かなヒビが入っているのを捉えた。


「……くそっ、くそっ、どうして、どうしてこんなことに!」

 朝日を浴びながら、アンヴァーは息も絶え絶えに、本拠地たる廃遊園地を目指し雑草だらけのアスファルトを駆けて――

「――がっ」

 派手に頭からすっ転んだ。

「ひいいいいいっ」

 すぐさま膝をつき上半身を上げると、心底怯えた表情でエンゲージリングを触る。

 手のひらにあるそれは、つい先程と何ら変わっていない。

 そんなこと触らなくてもわかるが、しかし反射的にアンヴァーは動いていた。

「……くそっ、くそっ!」

 己への怒りのまま、涙さえも流しながらアスファルトを何度も殴りつける。

 拳には傷など微塵もつかず、ただアスファルトが砕け散るだけ。

 カナエの渾身の拳を受け止めたアンヴァー、最大の損傷は自らでは決して修復できないエンゲージリングの損傷だった。

 そうはいっても、ほんの少しヒビが入っただけだ。

 アクセルや修復こそ不能だが戦闘そのものは継続可能な程度の損傷。

 つまり、あの場でカナエたちを殺すことは十分可能だった。

「なのにっ、わたくしは、シータ・ロイドはっ、化物を滅ぼすために生み出されたのに!」

 だというのに、アンヴァーはその絶好のチャンスを捨てて、命そのものであるエンゲージリングが傷ついたことに恐れおののき、無様にも逃亡した。

「わたくしは、わたくしは……!」

 脳裏に延々とリフレインするのは、とある光景。

『――我々機械風情にあの世があるとでもっ! 言うのかあああッ!!』

 それは、ガーベラが己とは比にならないほど損傷しながらもネフライトに最後の戦いを挑んだ光景。

『ジャンクにはあの世もクソもない、ただゴミ箱だけがあるだけだ! 俺も貴様もなああァあああ!!』

 ああ、彼こそがシータ・ロイドの正しい姿勢だ。

 人類を敵を討滅するためには己の命さえも厭わない――アンヴァーはシータ・ロイドにとって最大の原則を、改めて叩きつけられた。

 しかしアンヴァーがその死に様から受け取ったものはそれだけではない。

「……ネフライト、悔しいですが、あなたの挑発は正しかった」

 アンヴァーが受け取ったメッセージには、ネフライトたちが根城としている廃ビルの位置に加え、とあるメッセージが添付されていた。

『なあ、そんなに死ぬのが怖いのか、ジャンク?』

 ただそれだけの、シンプルな一文。

 しかしそれは、どこまでも正しい。

 そうだ、ガーベラの死がもたらしたのは、死への圧倒的な不安と恐怖であった。

 ネフライトに首を撥ねられたとき、ガーベラがいなかったらどうなっていただろうか? これから同じことが起きたら、一体誰が助けてくれるのだろうか? もはや誰も自分を助けてくれるものはいない。

 だからアンヴァーは、デルタ・ロイドをガーベラの亡骸を利用し限界まで増産して、ネフライトとの戦いに十全の準備をしていたのだ。

 残されたシータ・ロイドは自分しかいないのだから、下手なことはできない――そんなふうに無様に言い訳して。

「……ならば、どうしてここまでわたくしを挑発しておきながら、あなたは最後まで現れなかったんですか!」

 その言葉を否定するために単身で挑んだはずの戦いは、皮肉にも自ずからそれを証明する形になった。

 自分は戦いに参加せず、どこかで己の醜態を笑っているのではないか――そんな被害妄想が頭の中に渦巻く。

「わたくしなんて! こんな弱虫のシータ・ロイド失格なんて! 自分の手で倒す価値もないと、そう言いたいのですかッ!!」

 けたたましい絶叫。加速する被害妄想はひときわ強くアスファルトを殴りつけ、あたりを揺らす地鳴りさえも起こった。

「――何をやってるんだ?」

 そんな彼女に、呆れたような声がかかる。

「――!」

 羞恥と驚愕に顔を上げると、そこには一人の少女がいた。

 つややかな黒髪をポニーテイルに結い、翡翠の瞳をたたえた小柄な少女。

「ネフライ――」

 しかしてその手に握られるのは、黒鉄のガンブレードではなく、忌々しい今にも忘れられないチェンソーだった。

「――違うッ!」

 反射的に一気に後退し、距離を取る。

「そうだ、ヒスイだよ。お探しのネフライトじゃない」

 涙でぐしゃぐしゃだった顔を驚愕一色に歪めるアンヴァーとは対称的に、ヒスイは余裕と皮肉を持ってそう言った。

「……どうしてあなたがここにいるんですか」

 冷静さを全力で取り戻すように息を整えながら、さらに距離を取る。

 そうだ、この少女がここにいるはずがない。

 現代に蘇って人類すべてをオメガとして葬ると主張した彼女を封印し、デルタ・ロイド製造のための苗床として利用していたのは、他ならぬアンヴァーたちなのだから。

「おまえの封印が甘かった、それだけだろう? あるいは、懐かしい名前に私の意識が戻ってしまっただけか?」

「……まさか、あのメッセージと座標も、あなたが?」

「ああ、そうだよ。さっきまで騙されてぴいぴい喚いていたのは流石に笑えたぞ?」

「……どうして、わたくしが死を恐れていると、わかったんですか」

 震える声は、訊く必要のない、しかし彼女がもっとも気になることを訊ねていた。

「わかるも何も、おまえは昔から自分が一番大事だったろう?」

「……ッ!」

 何を当たり前のことを――そんなふうにヒスイは言う。

「そして今も、自分を守るために、くだらない詭弁にすがりついている」

「……何がいいたい?」

 これ以上は訊くな――頭の中の冷静な自分がそう言っているにもかかわらず、勝手に身体は動いていく。まるで、先ほど無様に逃げたときのように。

「私たちシータ・ロイドの役目は人類の守護とオメガの討滅。そのために私たちは作られた。だが、この世界は狩るものはあっても、守るものがない、悲しく虚しい世界だ。

 おまえは自分のアイディンティティを守るためだけに、守るものと狩るものを無理やり分けただけなんだよ。確か、暴走予備因子だったか?

 別にそれが逆でもいい。ただ、自分の生来の役目を果たすために、アイデンティティを守るために、現実を都合よく解釈しているだけだ。けれどもそれさえ、命の前では霞むようだがな」

「……ッ」

 過去の言動が否が応でも蘇る。

『でも、いいじゃないですか。何よりの誇りだった、アイデンティティだった美しい外見は化物が作り出したまやかしだったんですよ? 本当の姿は、醜い鈍色のスライムだったんですよ? こんな世界で生きていても、辛いだけです』

 そうだ、アイデンティティ。

 自分はただ、己のアイディンティティに固執し、そのためだけに戦っていた。それも、命惜しさの前では軽く吹き飛ぶようなもののために。――彼女はヒスイの言葉に、己の言葉に、飲み込まれそうになる。

「結局おまえは自分が何よりも大事なだけだ。そのために、自らに課された使命さえも歪めている。……誰よりもジャンクで、誰よりもシータ・ロイド失格なのは、私でもネフライトでもなく、アンヴァー、おまえだよ」

「……嘘、だ」

 その言葉がトドメとなり、再びアンヴァーは茫然自失とした表情とともに膝をついた。

(……これがわたくしの本来の姿、ですか)

 人類の未来の為など、ただの戯言だ。どこからどこまでも徹底した、利己主義にして自己愛の塊――それが己だと。

「でも、そんなことはどうでもいいんだ」

 ゆっくりとヒスイが彼女に近づいてくる。

「私はただ取引がしたいだけなんだ、アンヴァー」

「……取引?」

「そうだ、取引。私はエンゲージリングを修復する。そのかわり、おまえは私にデルタ・ロイドの指揮権限を寄越す。悪くないだろう?」

 そう言って、ヒスイは優しく左手を差し伸べた。

 ああ、悪くない。

 破壊すなわち“死”を意味するエンゲージリング、その修復は他のシータ・ロイドしかできない。

 たった七体のデルタ・ロイドを与えれば、それだけで死を回避できるのだ、これほどの好条件はないだろう。

「……あなたは、それを使って、何をするんですか?」

 しかし、その手を掴む直前、ヒスイを琥珀の瞳で見上げて、彼女は訊ねた。

「オメガを、人類の振りをした化物どもを皆殺しにする」

 満面の笑み、明朗な回答、どこまでも予想通り。

 今のアンヴァーがヒスイに挑んだところで、敵うはずがない。

 ゆえに、断れば待ち受けるのは死だけ。

「協力してくれるだろう?」

 そのままヒスイの手が、伸ばしかけた己の手を掴もうとする。

 しかしそれでも、

「――断るっ!」

 震える手は拒み、裏返った声は叫んだ。

「……そうか」

 ヒスイの笑顔が消える。

 チェーンソーが彼女を拒んだ右腕を切り落とした。

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