第四章③ノゾミ・リヴァーサスとネフライト
朽ちてもなお朝焼けに照らされ威光を放つ観覧車を背に、凄まじい異臭を背後から放ち、それはヒスイに言葉をかける。
「……どうやら私が見せたかったものは、ちゃんと見たみたいだな」
それは、黒い艶めく髪をポニーテイルで結っていた。
「どう、この世界はおかしいと思わないか?」
それは、季節はずれの半袖のカッターシャツに紺色のベストとプリーツスカート、黒い腕輪に黒いブーツを履いていた。
「この世界には女しかいない。どこにも男はなく、しかし生殖は成立している」
それは、首元に輝く青い宝石の嵌められた首輪をつけていた。
「この世界には突然に化物になる人間がいる。……いや、突然人間が化物になるなんてありえないんだ」
それは、翡翠の双眸をたたえ、こちらを見つめていた。
「女同士で生殖するのも、突然化物になるのも、それは人間じゃないからだと、そうは思わないか?」
そう、それは、どこまでもヒスイにそっくりだった。
しかしそれはあくまでも客観。
ヒスイの目には、全く別の相手が目の前にいると、そう感じる。
アンヴァーよりも邪悪に、おぞましく、それは映った。
アンヴァーには確かにあったはずのタガのようなものが、完全にはずれている。
「……ここに来るまで置いてあった抜け殻。中身はどうした?」
しかしそう言うヒスイの視線は、少女には向けられていない。
視線の先は、少女の真後ろ。
そこには、うず高く積み重ねられた何か、血の赤と肌の白、腕や足が山から飛び出ている、すなわち異臭の原因。
凄まじくリアルな血糊とマネキンか何かだ、人であるはずがないという希望的観測は、しかし目の前の少女の皮を被った化物の前ではあまりにも無為。
「殺した。だって人間じゃない――」
訊ねるまでもない質問。答えるまでもない質問。
ゆえに言い終えるよりも早く、ヒスイはナイフで己そっくりな彼女に斬りかかっていた。
「おや、いきなり何を」
エンゲージリングに向かって放たれたナイフは、しかし受け止められる。
その右手に握られるのは、甲高い音とともに回転する、彼女の半身ほどの長大なチェーンソー。
ナイフと比べてあまりにも巨大で無骨な黒鉄の刀身はピクリともせずに、
「――!」
少女が力を込めるとともにナイフを切断した。
折れるのではなく、切断。つまり斬られたのだ。
ヒスイはかなりの速度で後ずさり、同時に敵に分解・吸収されていくナイフを捨て、袖からさらにナイフを取り出す。指に挟み三本。
「なんで怒ってるの? 言っただろう、人間じゃないって」
本当に何もわかっていないという呆けた表情で、化物はこちらを見つめた。
対話不可能――ヒスイはナイフたちを放射線状に投擲する。
「シータ・ロイドは人類の敵を討滅するべく生み出された」
ひとりごちるように言って、ナイフを刃で斬り落とす。
「いいや違う、私たちは何よりも人類を守護するために生み出されたっ!」
ナイフたちに気を取られている間にもヒスイは左側――チェーンソーを持っていない側に踏み込み、エンゲージリングに向かって斬りかかった。
「なるほど。記憶喪失のくせに偉そうだ」
しかしてその刃をたたえた腕は、化物の華奢な左手に絡め取られ、届かない。
ぐちゃり。そのまま手のひらに万力のようなすさまじい力がかけられ、ヒスイの腕が青の液体を撒き散らしながら砕け散る。
そうだ、その手はあまりにも短く、誰一人として救えない。
記憶はなくとも、この手が取りこぼした命が幾千幾万、あるいはそれ以上存在すると直感的に理解する。
「だが、守るものがなければ結局は同じこと」
「――ッ!」
カウンター。
その無防備な背筋に向かってチェンソーの回転刃が無慈悲にも襲いかかった。
ノゾミ・リヴァーサスという少女が確かに二年前の春まではこの世に存在していた。
姉のふわふわした栗色の長髪とは違い、癖っ毛でどうやっても伸ばせない黒髪。
姉のサファイアのように輝かしい青く大きな瞳と違い、鋭い眼光がキツい小さな三白眼。
姉の人形のように整った顔立ちと違い、鼻が低くて丸い顔。
おまけに性格も劣等感の塊で、姉のように気配りもできなければ、誰かに優しく出来るわけでもない。
何もかもが姉に劣った、つまらない嫌な女――それがノゾミ・リヴァーサスの自己評価だった。
姉が亡くなった三年前までは。
親代わりにして最愛の姉を失ったノゾミは、人形のように生気を失い、死んだ目で日々を過ごしていた。
死んだ目に映るのは、現実ではなく、姉と過ごした素晴らしき日々。
ゆえに少女は栄養失調で入院し、食事さえもろくに取らずに点滴だけで日々の栄養をまかなっていた。
過去をかえりみるだけの生きた屍にさえ劣る存在だった彼女に転機が訪れるのは、姉の死後から三ヶ月が経った日のことだった。
『先生、ノゾミさんの髪が!』
ある日のこと、ノゾミの髪が栗色に染まっていたのだ。
誰が染めたわけでもない。なにせ彼女は生ける屍以下だったのだから。
医師の診断は栄養失調による色素欠損というものだったが、しかしノゾミはそんなふうには解釈しなかった。
『姉さん、姉さんだ!』
そう、ノゾミの髪の色は姉の栗色のそれとそっくりだったのだから、彼女はただ歓喜するだけだった。それが栄養失調が原因だったのか、それともノゾミの想いが伝わったが故なのかはわからないが、しかしそれでも彼女は点滴ではなく食事を取るようになった。
それからしばらく経って、ノゾミがそろそろ退院出来る頃、また異変が起きた。
『お姉ちゃん、お姉ちゃん!』
ノゾミは狂ったように恍惚の表情で鏡を見つめ、己の髪の毛を触っている。
それはこわごわとした癖っ毛などではなく、ふわふわとしたストレート。長さだって背中にかかるくらいに伸びている。
『よしよし、のんちゃんは偉いね』
子供の頃、そしていまわのきわに姉が呼んだあだ名を連呼しながら、己の頭を撫でる。
不思議とその声は姉によく似ている気がして、そうしているだけでひどく落ち着いた感覚がした。
『えへへへへー、お姉ちゃんすきー』
『わたしものんちゃん大好きー』
そうだ、ノゾミは急激に姉に似てきた己を、あろうことか姉に重ねるようになったのだ。
医師いわく原因不明、現代の医学では全く解明不可能な現象。しかしノゾミはこう信じた。
『わたしの姉さんへの想いが神様に通じたんだ』
それからもノゾミの外見の変化は延々と続き、もはや骨格レベルで姉そっくりの見た目になっていく。
『……これ、完全に姉さんだ』
そして、高校に入学する前の春休み、ノゾミの外見は完全に姉と同一になった。
『……そうだ、これならば』
ノゾミの脳裏にとあるアイディアが浮かぶ。
それは彼女にとっては天啓であり、それ以外の他人にとっては狂気めいたもの。しかしそれでもノゾミ・リヴァーサスはそのアイディアを強行せしめた。
『そうよ、わたしはノゾミ・リヴァーサスじゃない。カナエ・リヴァーサスよ』
生前の姉――カナエ・リヴァーサスに似せた口調で、ノゾミ――否、カナエは鏡に向かって、姉にして己に向かって、姉そっくりを超えて姉そのものな声音で、高らかと宣言せしめた。
『望むだけじゃ駄目。叶えないと駄目なのよ。望むだけだったわたしは、姉さんを失った。もう二度とわたしは姉さんを失わない。姉さんとの永遠を叶える』
そうだ、この日、ノゾミ・リヴァーサスは消えて、カナエ・リヴァーサスになった。
しかし、今現在、カナエ・リヴァーサスはどこにもいなかった。
《――――――――》
どのような文字でも表現しがたい、聞いた者の耳を通り越し、脳までも犯し狂気に浸すような絶叫が廊下を通り越してあたりに響き渡っている。
それは慟哭と呼ぶにはあまりにも人がましさ、否、生物らしさに欠けていた。
それは自然現象めいて、感情などというものは一片も感じられなかった。
絶叫の主は、鈍色の不定形、その片割れ。
もはや液体にも似た状態になり黒い血液と混じり合った、微動だにしない一方とは真逆。
痛みに全身を悶えさせ、ぐねぐねと上下左右に激しく身体を動かす、醜い物体。
そうだ、これこそが、アンヴァーによってまるで“ついで”かのように両断された、鈍色の化物の末路だった。
(……何よ、これ)
カナエ・リヴァーサス、あるいはノゾミ・リヴァーサス、あるいは化物はまるで幽体離脱したかのように、そんな惨状を第三者のごとく俯瞰している。
(嫌だ、これが、わたしなんて……)
「………」
アンヴァーが、戦斧を”それ”に振りかぶる。しかし瞳に浮かんでいるのは、先程までの憎悪でも怒りでもなく、ただ、害虫を駆除するような、冷たい、無感情だけ。
それさえも見えていないかのように依然として醜くも叫び散らし続ける”それ”に、紛れもないカナエ・リヴァーサスに戦斧が――
(いや、これは、こんなのは――)
殺されることなど、もうどうでもよかった。
ただ、こんな醜い、もはや生き物と呼ぶのもおこがましい物体を己であるなどと、断じて認めたくなかった。
カナエ・リヴァーサスは、カナエ・リヴァーサスである限り、最愛の姉の名前を名乗るならば、天下一の美少女でなければならない。森羅万象が恥じらい花は腐り落ち宝石は砕け散り星は堕ちる乙女でなければならない。
一兆歩譲って目つきと性格の悪い過去の女、ノゾミ・リヴァーサスでもいいだろう。
一垓歩譲って鈍色のスライムの化物だったとしてもいいだろう。
だが、これはあまりにも、あんまりだ。
《――わたしじゃないっ!》
ゆえに少女は魂のあらん限り、そう叫んだ。
「―――!?」
それはただの現実逃避のはずだった。
同時、痛みが止む。
次いで、絶叫が、痙攣が止む。
最後に、明瞭な意識が戻った。
「何が起きてっ!?」
アンヴァーが驚愕にわずかな怯えを含ませて、思わず後退りする。
幻肢痛というものがある。
失われた手足があるはずもない痛みを感じるという現象。在りし日の手足がまだあると脳が錯覚する現象。己の姿をアップデートできない者が陥る現象。
シータ・ロイドにはなく、しかし彼女にはある生理現象。
ならば、これは現象こそ真逆だが、その同類だ。
俯瞰する視界に映る化物が己だと認識できないならば、痛みなど感じない。己のものでない痛みを感じるはずもなく、故にカナエ・リヴァーサスは無痛となる。
メチャクチャな暴論は、しかしカナエ・リヴァーサスに適応された。
形成される意識は、この不定形の鈍色をカナエ・リヴァーサスそのものではなく、彼女が操る一種のインターフェースであるという認識。
その認識はスライムに革新をもたらし、
「がっ」
アンヴァーは青い液体を撒き散らしながら串刺しになった。
彼女の腹に突き刺さる鈍色の槍を放つは、その背後ですでに事切れていたはずの、液体状だったスライム。
《そうだ、わたしはこんな醜い化物じゃない! わたしは、わたしはっ!》
叫ぶ。そのままスライムたちはお互いに吸収しあい、一切の負傷をなかったことにする。
同時、アンヴァーはしたたかに背を床に叩きつけられた。
《――わたしはっ!》
それだけではなく、これは己であって己でないという認識が少女の無意識下にあったリミッターを完全に取り払い、その姿をぐにょりぐにょりと変貌を遂げさせる。
「……化物」
そうだ、化物。アンヴァーが戦慄に揺らす琥珀の瞳には、まごうことなき異形の化物。
背からは真っ黒な死神のごとき鎌が四対、鋭い牙をたたえた巨大な口が両頬と中央に三つ、表皮は昆虫めいた鎧のように硬化、その隙間からは小さな瞳が幾つも蠢き、さらには巨大な黄金の単眼が舐めるように少女を見つめている。
《わたしの本当の姿をっ! カナエ・リヴァーサスを! 姉さんを返せッ!》
絶叫。死神の鎌の群れがアンヴァーに向かって襲いかかった。
「――速いッ!?」
つい先程まで驚愕に目を丸くさせていたアンヴァーが即応。避けることだけを考え、大きく弾かれるように左に避けた。避けたはずだったのだ。
「――なっ」
しかし、気がついたときには右腕が欠けていた。
そうだ、右腕がない。確かに避けたはずだというのに、まるでヒスイのように右腕がまるまる吹き飛んでいる。
《おかしいでしょうっ!? あなたが余計なことをしなければこうはならなかった!》
しかして己の欠損に反応している間にも、カナエの癇癪は肥大化していく。
ゆえに刃は無防備な右側――ひいてはエンゲージリングに向かって襲いかかった。それも、一撃目を凌ぐ速度で。
「この、化物がっ!」
アンヴァーはギリギリでそれを左の戦斧で防ぐが、圧倒的な威力を受けた刃は砕け散り、流れ弾たちにより身体中に穴を開けられ両足をもぎ取られると、そのまま壁に叩きつけられた。
「……あのジャンク、こんな化物をよりにもよって残しやがって」
《答えなさい。どうすればもとに戻れる?》
言葉を無視して、怒りをぶちかけてスッキリした頭でカナエはエンゲージリングに刃を突きつけながら訊ねる。
「……もとに戻る? 化物はどうやっても人間にはなれないですよ」
《ふざけるな、早く答えろ。死にたいの?》
「ふざけてないですよ。化物は化物です」
にっこりと、こちらを心底憐れむような口調。
「それとも、あなた、そのナリで人間のつもりだったんですか?」
《――ッ!》
そのナリ――少女は今さらにガラスの窓に映る己の姿を見て、そのあまりのおぞましさに絶句した。
(いいや違う、違うんだ、これはわたしじゃない。わたしの本当の身体はきっとどこかに隠されていて、わたしはこれを遠くから操ってるだけなんだ。だから痛くない、だから醜い、だからおぞましい)
しかしてそんな言い訳は、次の言葉で傾ぐ。
「――いきなり外見が変わったことはありませんか? 例えば、いきなりものすごい美少女になったり、とか」
あまりの威力。それはアンヴァーに浴びせかけられたどんな攻撃よりも重い。身体的に無痛であっても、精神的には無痛ではいられない。
《……なぜ、それをあなたが》
カナエは何かから逃げるように後退りし、ひどく怯えた視線をアンヴァーへ向けた。それこそ、つい先程触手をもがれたときよりも遥かに恐ろしげな視線を。
「図星ですか。ちょっと考えれば、自分がおかしいことくらいわかるでしょう?」
そうだ、図星だった。
「いくら強く願ったところで、骨格レベルで別の人間になる人間にいますか? あなたはそれを人間扱いできますか?」
いるはずが、ない。できるはずが、ない。
「そうです、最初から最期まであなたは悲しいほどに化物なんですよ。もともと、人間なんて上等なものじゃあないんです」
そうだ、カナエ・リヴァーサス――否、ノゾミ・リヴァーサスはもとより人間ではないのだ。
少女はついにその事実に気づいてしまい、その身体が熱を放ち激痛とともに、ひどく攻撃的な異形からのっぺりした鈍色に戻る。
《……いやだ、やめて》
アンヴァーからはひどく嗜虐的な笑みがこちらに向けられていて、、彼女にはそれが己とはまた別種の化物に感じられた。
「それがわかったなら、さっさと死にましょう?」
そのエンゲージリングが青く輝き、斬り落とした右腕が、砕け散った戦斧が、ありとあらゆるダメージがあっという間に元に戻っていく。
「化物――暴走予備因子のあなたに生きる価値はありませんから」
そんな言葉とともにゆっくりと歩を進め、ついには戦斧が少女に振り下ろされた。
「………」
夜明けの空、ヒスイの上半身と下半身は容赦なく分断されていた。
腹の断面からは疑似血液の青が垂れ流され、幾つもの電線が火花をちらし、金属の脊髄がその銀色をさらしている。
視線の先にはピクピクと跳ねる下半身が見え、しかしそれに手を伸ばす術さえもない。
右腕は切り落とされ、左腕は潰され、下半身に至っては存在しない。すぐ近くに積み上げられた死体たちとまるで同類、そんな達磨にさえ劣る状態のヒスイは化物に頭をがしりと掴まれて、そのまま宙吊りにされる。
その手にはやはりチェンソー。
「……殺すのか」
もはや身体の中で動くことが出来るのは口と目だけ、それ以外は微動だにしない。それでもなおヒスイは化物を睨みつける。
「大丈夫。すぐ直してあげる。身体も、記憶も、ジャンクな考えも」
予想に反して化物はチェーンソーを青の粒子に還元すると、優しく手を伸ばした。
ちかちかと点灯するエンゲージリングに向かって。
それは、どこまでも母性に満ち溢れた聖母のごとき手つき。
あるいは、妹の頭を撫でる姉のような手つき。
「大丈夫。あなたはすべてを思い出すだけ。何も心配することはないんだ――」
「やっ、やめろ」
ヒスイは怯えを含んだ声で暴れようとするが、やはり身体はピクリとも動かない。
そのまま無防備な彼女のエンゲージリングにその手が触れられ、
「――ネフライト」
少女はすべてを思い出した。
第四章・完 《人類の黄昏と少女たちの蜜月Ⅳ》へ続く




