第四章①記憶
【二〇六〇/十/二十七】
『嘘だ、そんなのっ!』
血のように赤い夕日が差し込む病院の廊下を、一人の少女が駆けていた。
地元中学のセーラー服、黒い癖っ毛気味のショートカット、三白眼ぎみの涙目、顔そのもののパーツは整っているがそれらが玉に瑕。
そしてそのまま、とある病室の扉を乱暴に開く。
『……お姉ちゃん、お姉ちゃん!』
むせ返るような薬臭さの病室のベッド、物々しい器具に繋がれた身体、包帯と呼吸器で綺麗な顔を隠した姉がそこにはいた。
『ねえ、答えてよ! 無視しないでよ!』
彼女は看護婦たちの静止を振り切って詰め寄り、ひどく冷たいその手を握る。
『ずっと一緒にいるって、お母さんたちみたいにいなくならないって、約束したじゃない!』
半狂乱で叫び散らし、その視界はぼやけてよく見えない。
『……ごめんね、のんちゃん』
それに対して彼女はただそう言って、手を握り返した。包帯から垣間見える、サファイアのような瞳がこちらをすまなそうに見つめる。
“のんちゃん”、いつの間にか呼ばれなくなった、小さい頃のあだ名。
冷たいはずの手が、やけに暖かく感じたことだけは、よく覚えている。
その直後、姉さんの傍らにあった機械が不愉快に高い音を奏でて、それから先の記憶は曖昧だった。
気がつけば葬式は終わっていて、そこで彼女は悟ったのだ。
『……そうか姉さんは、死んでしまったんだ』
《――うわああああっ》
唐突な絶叫。カナエがその鈍色の不定形をぐんにょりと蠢かせて、横たわった身体をダイナミックに飛び跳ねさせた。それこそ、天井にくっつきそうなくらいの勢い。
「……どうしたの、リヴァーサス」
そのまま身体をたわませて着地したカナエに、ヒスイが心配そうな、それでいて驚いたような視線をよこす。外は闇に包まれていて、光源は家から持ってきた懐中電灯だけ。
(ああ、まだこんな時間か)
敵が行動を起こすのに時間など関係ないのだが、ついついそんなことを考えてしまう。
しかしそんな緊張感の欠如も致し方ないと言えばそうだ。あの六本腕が襲来してから今日で三日が経っているが、しかし何も動きがないのだから。
あるいは、それが嵐の前の静けさでなければいいのだが。
《な、なんでもない、悪い夢を見ただけだから》
「……夢? ええっと、眠っている間に記憶を整理するっていうあの?」
ヒスイは少し自信なさげにそう言う。
(ああそうか、ヒスイは眠らないから)
そうだ、ヒスイは眠らない。だからこそ、カナエは惰眠を堂々と貪ることが出来るのだ。
「……『姉さん』とかそんなことをぶつぶつ言っていた。怖い人だったの?」
《……ぷっ》
真剣な顔で的はずれな事を言うヒスイに、思わず笑みが溢れる。
《全然そんなことなかったわ。姉さんはいつも優しかったし、すごい美人だった。それこそ、今の姿になる前のわたしより》
カナエのどこか憂いを帯びたそんな言葉に、ヒスイは少しうつむいて黙った後、こんな事を言った。
「……思い出というものは、記憶というものは、いいものだけじゃない?」
ひどく哀しげな表情。
(……そうね。だけど、思い出は良いも悪いも全て欠けちゃ駄目なのよ。すべてが自分の構成物なんだから、少しでも無くなってしまえば、全く別の人間が生まれてしまう)
カナエは心の中でそう答えたが、しかし“すべて欠けちゃ駄目”などと記憶喪失の彼女に言えるはずもなく、実際はこう答える。
《そうかもしれないわね。だから、嫌な記憶は無理に思い出す必要はないかも》
たとえどんな記憶であろうとも思い出してもらわないといけないのに、カナエはそんなことを言った。
(……嫌な記憶は無理に思い出す必要はない、か)
どう考えても自分に気を使ってそう言っただけだと、嫌でもわかる。
ヒスイはそんなことを、何やら思索している様子のカナエを見つめながら思った。
(……私は嫌な記憶でも思い出したい。思い出さなければならない。リヴァーサスのために、ミヤコのために、カオルのために……私のために)
過去の記憶というのは決して家族や友人との素晴らしき日々だけではないのだろう。むしろ、今こうして戦いに至っているのだ、辛い思い出のほうが多いに決まっている。
しかしそれでも、たとえそれがどんなに辛い記憶であろうとも、思い出さねばならない。
『そうだ、私はっ、カオル・タチバナはっ、まだ生きたいんだっ!』
『絶対、絶対、ぜええっっったいッ! 帰ってこい! 嫌味はあとで一億でも一兆でも言ってあげるから! あの超絶美少女フェイスで私のところに戻ってきなさい!』
『……うん、絶対戻って、そう言ってやる』
『私も、私のために、自分の過去を思い出したい』
そうだ、彼女たちに誓って、そして私のために。
しかし現実はあまりにも停滞していた。
『――、キミは、キミたちシータ・ロイドは人類を守護し、その敵を討滅するために生み出されたんだ』
『そして、その中でもキミたち第三世代だけに与えられた、特別な能力があるんだ――』
思えばこの数日間、ヒスイはただひたすらに、己の記憶の欠片を噛み締めていた。
そこから読み取れる情報は主に三つ。
まずは文面通り、己は人類を守護しその敵を討滅するために作り出されたこと、特別な機能――おそらくはスライムを探知する能力が自分にはあること。
この言葉を紡いだ白髪頭の初老の男性が、おそらくはヒスイの創造者であり、背景の実験室のような場所で己が生み出されたであること。
そして、これが何かを呼びかけた後に放たれた言葉であろうこと。
(……例えば、名前とか)
窓ガラスを見つめると、そこには確かに翡翠色の瞳を持つ己がいる。しかし、この名前は少し違う気がするのだ。けれども同時に懐かしい感覚にも包まれるのだから、本当によくわからない。
なにはともあれ、その三つしか彼女には推察できなかった。
(本当に、それだけ)
この記憶が連鎖反応を起こすように他の記憶を思い起こす――なんてこともなく、なに一つ進捗はない。
記憶も、敵の動きも、何もかもが停滞していた。
そんな停滞が、ヒスイを泥沼に足を取られたかのような気持ちにさせている。
人類を守るために生まれたはずの自分が、何ひとつその役目を果たせていない。
そうでなければ、カナエの過去に露骨に突っ込むようなことをするものか。
カナエとその姉の間に何があったかはわからないが、確実に何らかの不幸なことがあったことだけはわかる。
しかしそれさえも今のヒスイにはひどくうらやましいものに見えて、そんな自分が心底嫌だった。
「―――ッ!」
そんなヒスイの元に、とあるメッセージが届いた。
夜の廃遊園地、古びて薄汚れたプレハブ小屋の内部。
巨大なガラス筒がいくつも鎮座した、アンヴァーにとっての本拠地。
ひとつに一体、円形に並べられた筒を埋め尽くすデルタ・ロイドたち、そのうちの建造途中のものを見つめて、アンヴァーはつぶやいた。
「……これで、最後ですか」
ガーベラが残した亡骸――多量のデルタ・グラフェンにて製造されるのは、七体のデルタ・ロイド。
それでもガーベラ一体と比べれば足りないくらいだが、いないより遥かにマシだろう。
そう、彼女がこの三日の間あまりにも静かだったのは、彼らを建造するためである。
デルタ・ロイドは本来いくら束になったところでシータ・ロイドに敵わないが、しかし今の記憶喪失のジャンクを相手にならば、十二分に勝機はある。
そこにアンヴァーがいれば、勝利は確実と言ってもいいだろう。
「……拙速は巧遅に勝る、ともいいますがね」
そうだ、アンヴァー一人で攻めるほうが遥かに速い。この三日の間にジャンクの記憶が戻っていたら、それこそ無意味な行いだ。
「……そのときはそのとき、それでもこちらのほうが戦力が上なのは間違いないです」
そうだ、今の自分は敗北が許されない。
己こそは最後のまともに稼働しているシータ・ロイドであり、その敗北はすなわち人類の敗北さえも意味するのだから。
「……ええ、わたくしは間違ってなんて――」
その言葉を遮って、とあるメッセージがアンヴァーに届いた。
《……寝てた》
いろいろ考えていたら、カナエは二度寝していた。
隙間風が差し込む窓から見えるのは、夜と朝の狭間、薄明。
《……って、あれ。ヒスイは?》
見渡す限り、荒廃したなにもない部屋には、翡翠の瞳の少女の姿はない。
代わりに、とあるメモ用紙をカナエは見つけた。
『すぐ帰るから心配しないで待っていて』
《………》
その汚い文字列を見て、カナエはどうしようもない胸騒ぎに襲われる。
責任感の強いヒスイが、果たしてこんな書き置き一つでどこかに行ってしまうだろうか。彼女の性格上、書き置きなどという迂遠な手など取らずに、普通に起こすだろう。
仮にトイレなどのほんの一時的な――
《いや、あの子はそもそもトイレなんてしないじゃない》
そうだ、そもそもヒスイはここ数日ずっとここに詰めていて、一度も外に出ていない。
《……もしかしてこれって》
不安が加速度的に膨張していく。
今のヒスイは度重なる激闘であちこちを欠損し、それでいて向こう見ずで自分のことを省みないところがある。その上、己の記憶のことで思い悩んでいた様子さえもあった。
要素を挙げていけば挙げていくほど、現状の危険性がサイレンのようにうなりを上げている。
(だったら何を呑気に寝てたのよ、わたし!)
そんなことを考えながら、カナエは廊下に出る。やはり部屋と同じくらい荒廃している、無人のリノリウム。
見やれば、ここ数日にヒスイとカナエが作ったもの以外に、埃にまみれた廊下に足跡が点々と階段に向かって続いている。
《ねえ、ヒスイ! いるなら返事をして!》
叫びながら足跡をたどって廊下を進むが、全く反応はない。
《わたしがなにかしたなら謝るから、出てきなさいよ!》
ついに階段までたどり着き、カナエはそのまま足跡に従って廊下を降ろうとしたが、
「――はい、ここにいますよお」
上からの声で動きを止めた。
不吉な、耳を舐め回されたような、不愉快な、しかし聞き覚えのある声だった。




