第三章⑤ミヤコとカナエ
《………》
動けないヒスイ、襲いかかるガーベラ。カナエの触手は届かない。
ああ、それからどれくらい経っただろうか。
実際は数秒にさえ満たないだろうが、カナエには何分にも何時間にも感じられた、時間感覚を犯す異常な緊張感。
《……ヒスイ?》
しかしいくら待っても、少女の断末魔も、宝石の砕ける音も聞こえない。
代わりに、暗闇のカナエの耳はとある低いつぶやきを捉えた。
「……くそ、が」
ありもしない目を開く。
立ち上がり油断なく構えるヒスイの目前、ナイフを構えたままマネキンめいて微動だにしないガーベラ。
単眼はちかちかと、かすかに、夜闇でなければ分からないほどに点滅する。
ひどく対称的に、そのエンゲージリングはバチバチとスパークを上げて、今にも砕け散りそうだった。
「……とどめを刺せよ、ジャンク」
「断る。これがあなたにとって一番屈辱的な死に方なら、まさしく報いだ」
振り絞った最後の願いを、ヒスイはぴしゃりと一刀に伏せる。それがカナエにはあまりにも非道に見えた。
「……は、ずいぶんと手厳しい。……ああ、くそが、どうして俺が、……こんな、ジャンク風情、に」
ばん、エンゲージリングがついに小さな破裂音とともに砕け散る。
ばたり、小さな断末魔を静かに残して、ガーベラが倒れ、単眼は光を失った。
「……ずいぶんと、無茶をする。私のことなんて見捨ててくれてよかったのに」
ヒスイは、もはやぴくりとも動かないガーベラの残骸を見つめながら、そんなことを言った。その目は、己もまたこうなると理解しながらもなお、しかし冷たい。
(私は人類を守るために生み出されたのに、これでは逆だ)
思えば、そんなふうに助けられてばかりな気がする。
《……ヒスイが死ぬのも、あの子を殺すのも嫌だったから》
少し照れくさそうに、しかし直截な言葉をカナエはかけた。
「ありがとう。助かった」
《わたしだけじゃなくて、そっちで倒れてる……多分、カオルさんに礼を言ったほうがいいわ。正直あんなにうまくいくとは思ってなかったし》
ああ、そのとおりだ。彼女があの椅子を投げなければ、ヒスイはおろか、ここにいる三人は全滅していたかも知れない。
「そうだな。ありがとう」
そう言って、ヒスイは放心状態と言った体のカオルに手を伸ばした。
《いっ、いえ、こちらこそっ!》
ビクリと身体を震わせ、カオルがためらいなく触手で握手を返す。
ああ、先程は届かなかった手が、こんなにも簡単に触れられる。ヒスイはそのことが、なぜだかたても嬉しく感じられた。
(……それにしても、『生きたい』か)
彼女の言葉が頭をよぎる。
ヒスイにはイマイチその気持がわからない。ヒスイは人類を守るがために生まれたが故に、自らの生を誰かと天秤にかけて動くことができない。だから、カオルを殺してまで生きようなどとは一片の発想さえも浮かばなかった。
きっと、あの六本腕のシータ・ロイドもまた同じなのだろう。だからこそ、己の命を削ってまでこちらを殺そうとした。
(だけど、それでも、私が守ろうとする彼女たちが『生きたい』と願ってくれるならば、それはきっとうれしいことだ。私はちゃんと役に立っている)
そこまで考えて、まだ己には為さねばならないことがあったと、カオルの手を離す。
「……それで、いつまで見ているつもり?」
そしてそのまま後ろを向いて、凛然にヒスイは問いかける。
「………」
すると、緊張した面持ちの少女が物陰からおずおずと現れた。
《――ミヤコっ!》
そう、おかっぱの、幼い外見の少女――ミヤコ。
「私がやる」
進もうとするカナエを手で制して、ヒスイがミヤコの前に進む。
「……ねえ、カナエとカオルに、一体何が起きているの?」
すると、眠たそうな目を泣きはらした彼女は、枯れた声でただそれだけ訊ねた。
「説明できない。だが、二人とも必ずあなたのもとに戻ってくることだけは保証する」
瞳を見つめて、力強く言い切る。
「嘘。なんでそんなことをあなたが保証できるの」
「少なくとも、リヴァーサスには帰る強い意思があるからだ。わたしはそれに応えるだけ」
「……カナエの名字。カナエを知っているの?」
あまり驚いた様子も見せずに、しかしミヤコが言う。
「知っている。彼女は誰にでも優しいし、気遣いだって出来る素晴らしい人だ。しかし、少しばかり自己評価が低すぎる」
ヒスイとしてはどこまでも客観的に評価したはずの人物評だったが、
「……ぷっ、ははははははははっ、何よそれ! カナエは気に入った相手以外にはけっこう冷たいし、空気だって読めない! そして何より、カナエは自分が大大大大っ大好きな超弩級のナルシストだからっ! それが、よりにもよって! 自己評価が、低いって!」
ミヤコは腹を抱えて笑いだしてしまった。
「ならば、それは友人であるあなたの前だから素直に自分をさらけ出していたんだろう。彼女はこう言っていた――」
そう言って、ヒスイは己のメモリを引っ張り出す。
「『わたしの家って、ミヤコの家の真反対にあるのよ。一度学校を通って、電車に乗って、そうじゃないと着かないの』」
「『あの子、朝起きるのがすごく苦手で、よく遅刻してくるの』」
「『いつも眠そうな目なのに、いつもよりもっと眠そうな目だったの』」
「『ドライなようでいて、実はすごく友達想いなの』」
一字一句間違いなく再生される、カナエの友人自慢、のろけ話。
そうやって話をする度にミヤコの笑い声は小さくなっていって、
「………何、それ。なんでそんな恥ずかしい話を他の人にするかな」
気がつけば頬には雫が流れ、声は震えていた。
そしてその押し殺すような嗚咽は徐々に大きくなっていき、あたりに響く。カナエはそれを見て、ぶるぶると震えていたが、しかし涙は流れない。いや、流せない。
「……ねえ、カナエに伝言いいかな」
しばらく泣いたあと、ミヤコが口を開く。
「ええ。好きなだけ言って。一字一句漏らさずに本人に伝えるから」
「……言いたいことは百個も千個も百万個もあるけど、とりあえずは一つ――」
そこでミヤコは胸いっぱいに空気を吸って、
「絶対、絶対、ぜええっっったいッ! 帰ってこい! 嫌味はあとで一億でも一兆でも言ってあげるから! あの超絶美少女フェイスで私のところに戻ってきなさい!」
声のあらん限り、そう叫んだ。
ヒスイのうちに、カナエの家で感じたざわざわした感覚が、今まででもひときわ強く走る。
《………》
「わかった。一字一句漏らさず、本人に伝えておこう」
しかしそれでも、ヒスイはただ優しく、そう返した。
(ああ、もしかしてこのざわざわした感覚って)
そして、その感覚の正体をヒスイは悟った。
その正体は、あまりにシンプルで、気がつけばごく単純なこと。
(……そうか、私はただ、この世界で一人も同然なことが、寂しかっただけなんだ)
目が覚めれば記憶喪失で、思い出と言われるものが何一つなかった。
元よりなかったゆえに最初は気にしていなかったが、カナエと家の関係を見て、カナエとミヤコの関係を見て、己の宙ぶらりんぶりを肌で感じ、あまりの孤独を感じ、その空虚さに耐え難かっただけだ。
(だから私は、その孤独を埋めるために、誰かと一緒にいたくて、リヴァーサスに腕の代わりになってもらおうとした)
あのざわざわした感覚は、あの苛立ちは、あの不安感は、腕がないことではなくて、記憶がないことが原因だった。
だからこそ、カナエの家の玄関で見た、あの幸せそうな家族写真が堪えたのだろう。
しかし今のヒスイは空っぽではない。
『――、キミは、キミたちシータ・ロイドは人類を守護し、その敵を討滅するために生み出されたんだ』
ついに手に入れた、たった一欠片だけの、それだけでも輝くような過去の記憶。
なればこそ、少女たちの尊い過去と未来を守らねばならないだろう。
ヒスイは新たに覚悟を固め、噛みしめるようにして言った。
「きっとリヴァーサス――カナエはこう言うだろう。『超絶美少女フェイス』じゃなくて、『超絶ウルトラハイパー美少女フェイス』だって」
《……うん、絶対戻って、そう言ってやる》
震えるカナエの声が、ミヤコにとってはくぐもったノイズにしか聞こえないだろう声が、ヒスイの耳には確かに届いた。
「……馬鹿」
ミヤコは逃げるように、あるいは照れ隠しのようにヒスイたちから背を向けてしばし走り、立ち止まると消え入りそうな声でそうつぶやいた。
「……バレバレだって、カナエ」
ミヤコはあの六本腕とヒスイたちの戦いの一部始終を見ていたのだ。だから、あの鈍色のスライムがリヴァーサスだと呼ばれているところも、確かに見ていた。
にわかには信じがたいが、美少女がスライムに食われるのではなく、美少女がスライムになっているのだ。きっと、もう一匹もカオルなのだろう。
(二人には、本当に悪いことをした)
あの二人が、特に己の容姿を何より誇っていたカナエにとって、このことはあまりにも重大な事件だろう。なのに、あんなにもひどいことを言ってしまった。
あの時の彼女たちの気持ちなど、想像するのさえ恐ろしい。
本当は今すぐにでも謝りたかったが、しかしそれではミヤコの気持ちが晴れるだけで、カナエは決して喜ばないだろう。
そうだ、自分があんな姿になったなど、カナエは絶対に知られたがらない。自分からカナエであると名乗ることなど、絶対にしない。
それでも、あの少女は断言した。
『二人とも必ずあなたのもとに戻ってくることだけは保証する』
そうだ、あの姿からもとに戻る手立てが、確かに彼女たちにはあるのだ。
だからこそ、ミヤコは叫んだ。
『あの超絶美少女フェイスで私のところに戻ってきなさい!』
本当はどんな見た目でも、そばに居てほしかったのに。
しかしカナエがそれを望まないならば、ミヤコは諦める。
あそこまでひどいことを言っておいて、そこまで求める権利がどこにあろうか。
「……私がカナエたちのために出来ることは、何も知らないフリをして、ただ信じて待つことだけ、か」
少女は星空を見上げ、己の無力を噛みしめるように、ただそう言った。
「……本当にあれでよかったの?」
探知能力を二人とも持っていることが判明したために、室内に越してきた二人。窓際に腰掛けたヒスイが、空に点々と輝く星たちを見つめながら問いかける。
《何が?》
「カオルを家に泊めたこと。あそこはあなたにとって大切な場所だったんじゃないの?」
そう、スライムになってしまったカオルは今、カナエの家にいる。
敵はスライムを探知できず、ヒスイたちはカオルを守りながら戦うほどの余裕もない。なればこそこうする以外方法などなかったのだが、それでも訊いてしまう。
《……意外とそういうこと気にするんだ、ヒスイって》
むしろ、思い出のほんの欠片を大事に掴み、離せずにいる今のヒスイだからこそ、それが気になる。
《別に平気よ。そうするしかなかったし、ヒスイの命の恩人だし、なんだかシンパシーを感じたし》
なんでそんなことを訊ねるのか本気でわかってなさそうに、カナエは何でもないことのように言ってのける。
「……そう」
そうか、あの家族写真のような尊い思い出たちが詰まった場所でさえも、記憶を正常に持つカナエにとってはそこまで重要な意味を持たないのだ。だから、簡単に誰かの侵入が許せる。
(私はまだ、空っぽの器から、ほんの少し甲高い音が鳴るようになっただけなのか)
ヒスイはそう考え、記憶の欠片を噛み締めながら、こんなことを宣言した。
「……私も、リヴァーサスたちのためだけではなくて、私のために、自分の過去を思い出したい。リヴァーサスのように友人が、家族がいたならば、その思い出に会いたい。……わがまま?」
《ええ。それでいいわ。ヒスイはもっと自分のために戦ってもいい》
カナエは優しくそれを受け入れて、むしろどこかうれしそうにそう言う。
《だから、次は“わたしはいいから”なんて言わないように》
彼女はそんなことをいうが、しかしヒスイはそんなふうに振る舞う気なんて欠片もなかった。
(だって、私は人類を守るために生まれたのだから)
やっと手に入れた記憶の欠片にすがりつき、少女は心の危うい均衡を保つ。
「……ガーベラ」
アンヴァーは、星々に照らされる、もう動かなくなったガーベラだったものを見下ろして、切なげにつぶやいた。
「あなたの戦いぶりは、しかと受け止めました」
己の命さえも顧みず、人類の敵を討滅しようとする姿は、まさしくシータ・ロイドの鑑というべきものだろう。
「わたくしが、あなたの代わりにすべてを終わらせます」
言葉とともに、そっとガーベラの亡骸に触れる。
エンゲージリングが青く輝き、彼だったものが粒子に分解されていく。
そして粒子は彼女の手のひらに集まり、その手に収まるほどの小さな、凝縮されたひとつの箱となった。
「この、あなただったものと一緒に」
しかしその手は、微かに震えていた。
(よかった、カナエ先輩と私とお揃いだ。きっと、あまりの美少女ぶりに嫉妬した神様が与えた試練なんだよ、これは)
結論こそ同じだが、それでもミヤコとはあまりにも対称的に、あくまで楽観的に、機械の少女の約束を信じて、カオル・タチバナはただ待つことにした。
一人なら絶対に無理だったが、カナエ先輩がいるから、あのヒスイという少女がいるから。
生きる希望が、今のカオル・タチバナには満ちている。
自らが名前さえカナエにろくに覚えられていない事も知らずに。
《……これは、家族写真?》
カナエの家の玄関先、カオルはそこに飾られたとある写真に目を奪われた。
そこに映るのは、ひどく幸せそうな家族写真。
《………》
見ているこちらまで幸せになりそうな反面、その写真を見つめていると胸が苦しくなって、カオルは目を背けてしまう。
(……だって、これ)
灯りをつけてもなおどこか薄暗い静寂の廊下は、欠片の人気もなかった。
――そう、もう二度と、この幸せな光景は戻らない。
《行こう、せっかく貸してもらったんだから綺麗に使わないとな》
そんな残酷な現実にいたたまれなくなって、逃げるようにわざとらしくつぶやいて、カオルは無人の廊下へ進んだ。
無人の玄関。
それは、記憶の中を正確に再現する、両親と姉妹を映した写真。十年近く前に撮られたかのような色褪せたそれは、しかしそれでも。
木漏れ日の中、無邪気にはしゃぐ活発そうな黒いショートカットの少女と、その頭をなでるカナエを少し幼くしたといった様子の少女。
そんな二人に母性に溢れた優しげな視線を向ける、黒髪と栗色の髪の女性が後ろに二人。
そんな写真が、ただ寂しく、写真立てに収まって、ぽつんと置いてあった。
第三章・完 《人類の黄昏と彼女たちの蜜月Ⅲ》へ続く




