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第三章④カオル・タチバナ

 金属が弾ける音。

《――なるほど、いいことを聞いたわ》

 しかし六腕のアンドロイド――ガーベラの刃は少女の急所にはたどり着かず、それどころかかの敵の手から滑り落ちていった。

 その下手人は、唐突に滑り込むように現れた刃をたたえた鈍色の触手。

「ちいっ、件の化物かっ!」

 ガーベラの赤い単眼が睨みつける先には、二体目の鈍色の不定形――カナエが触手を鎌首もたげて立っている姿があった。

 間髪入れずに再び触手を閃かせる。目指す先はかの化物のエンゲージリング。

「――させるかっ!」

 それに対し、ガーベラはヒスイを投げつける。

《――ッ!》

 このままでは攻撃の勢い余ってヒスイは触手によって串刺しになり、同士討ちを強制されるだろう。だがしかし、

《――返してくれてありがとうっ!》

 カナエの触手はぐるりとヒスイの胴体に巻き付いて、そのまま彼女を引き寄せた。次いで、ヒスイの身体はカナエの不定形をクッションにぐんにょりと受け止める。

 驚くほどに鮮やかな手並み。

「……遅い」

《来なくていいって言ったじゃない》

 その上、軽口をたたきあうほどの余裕まであった。

《……まあでも、ここに来るまでにちょっと色々あってね》

 泣き伏せるミヤコを見て、彼女の涙に溺れるように、罪悪感で心の中が水浸しになりながらも、カナエは考えた。

(……考えなさい、今のわたしが、ミヤコに出来ることを)

 必死に考え、カナエは一つのアイディアにたどり着いた。言うまでもない、最初からわかりきっていたことだ。

(そうよ、わたしが今できることなんてこれしかないじゃない)

 ゆえにカナエは、動かない身体と心を無理矢理に動かして、ミヤコを振り払い慟哭を背に、ヒスイの元へやってきたのだ。

 そうだ、今の醜く見るに耐えないカナエに出来ることなど、戦うことしかない。

 ゆえにカナエ・リヴァーサスは改めて覚悟した。

 必ず生きて元に戻り、ミヤコとの元へ戻ってくると。

「死にかけのジャンクに化物が加わったところで、どうなる」

 ガーベラが六つの腕にナイフを構え、こちらを睨みつける。

《さあ、どうなるかしら》

 カナエの鈍色の身体が、唐突にぶくぶくと泡立ち始める。

「――出来る?」

《わからないけど、やらないとやられる》

「ええ、そのとおり!」

 ヒスイが練習と違い、パーカーの右袖を破り捨て、配線と金属が覗く右腕の残滓が晒された。

《大丈夫、うまくいく! 多分!》

 カナエの身体がさらに変形し、細い棒状に。そしてそのまま、

「多分じゃ駄目、私の右腕ッ!」

 ヒスイの右腕に張り付き、鈍色の巨腕に変化した。


『そうだ、私のこのもやもやした感覚はきっと、右腕がないことから生まれたもの。ならば、その右腕を補えばいい』

 ヒスイはそう告げて、カナエは出来る気がしなかったが、彼女の右腕がない理由の大半は己が理由だと受け入れた。

「なるほど、ない腕を化物で補ったか、ずいぶんと皮肉な方法だなっ!」

 赤い単眼が睨みつける先には、傍目には化物に捕食されているかのごとく、うごめく巨大な鈍色の右腕を生やしたヒスイがいる。

 その長さは左腕のそれの倍近く有り、太さも丸太のごとく、腕だと言えるのはかろうじて鋭い五指に分かれているからだ。

『私には速さがあっても威力がない。そしてリヴァーサスには速さがない代わり、威力がある。だから私は移動砲台の車輪になる。あなたは砲台になる』

 ゆえにヒスイは練習の成果たる奇跡的なバランス感覚にて駆ける。

 目指す先は無論六本腕、その速度は先程と比べても遜色ない。

「《――喰らえッ!》」

 カナエは拳を、すなわち己を振りかぶった。ドリルのように身体をうねらせた己の力にヒスイの速度で生まれたエネルギーを加え、敵を破砕せんと。

「させるかっ!」

 ガーベラはその巨大な拳を、六つの腕を駆使して受け止めようとする。しかしてその六つの腕は微かに揺らぎ、足元のアスファルトは地割れを起こす。

 六つの腕と一つの巨腕の均衡はかろうじて保たれるが、しかしほんの少しで崩れる、脆い砂の城のようなもの。

《――この程度でっ!》

 ゆえに咆哮とともにさらに力を加えると、ついにはガーベラの六つの腕が蒸気を放ちながら弾かれ、次いで本体も紙吹雪のように吹き飛んだ。そしてそのまま、凄まじい水しぶきとともに川の中へ落下。

「……」《……》

 こちらの身長を超えるほどのしぶきたちに視界が塞がれ、二人は思わず警戒する。

《……これって》

 しかし数秒待っても、ガーベラは一向に上がってこようとせず、夜そのもののような水面には、先程生まれた波紋だけが主張していた。

(吹き飛ばしたとき、まるでもう諦めたみたいに手応えがなかった)

「十中八九、まだいる」

 このまま逃げてくれればいいのだが、しかしガーベラはそんな甘い相手ではないと、なんとなくわかる。

(……そうだ、あいつは、あの赤い単眼は確実にわたしたちを倒すために潜伏している)

 カナエはそんなことを考えながらも、波紋さえも落ち着いて微動だにしなくなった水面を見つめる。

 たかだか十数秒が何百倍にも延長されたような、以前の戦闘とは全く別種の、ありもしない胃を締め付け、ありもしない汗腺から全身に冷たい汗を流させる、そんな緊張感。

《……いたっ!》

 それは、腕だった。

 カナエは水中から鎌首をもたげるかのように浮かび上がる、あの細長いカマキリめいた腕を確かに見た。

 十二分に拳が届く範囲。ならば――

「――それは罠っ!」

 ヒスイが叫ぶのとほぼ同時、カナエはすでに拳を飛ばしていた。

《――ッ!》

 しかして水の中に手応えは皆無。

 ぶかりと、断面を晒した腕が浮かび上がる。

「――勝手に考えて動く素人の武器、そんなのはジャンクだよなあ!」

 水しぶきの中、拳とは逆方向からガーベラは飛翔するように現れた。

 六つ――否、五つの腕にナイフを構え、その赤い単眼を妖しく輝かせた痩身。

(そうか、こいつは自分の腕をっ!)

 そのまま、カナエという巨大な荷物を背負ったヒスイに向かって五つのナイフが投擲された。

《――ヒスイっ!》


 予測される未来は、ナイフによって身体中に穴を開けられる惨状。

 しかし実際の未来、ヒスイの視界は鈍色の何かに埋め尽くされていた。

「……ほう、盾になったか、便利だなそのジャンクは!」

 そう、それは巨大な盾。

 つい先程までは巨大な腕だったものが、ヒスイの身体の前面を大きく包み込む、鈍色の長方形に変化している。

 それらが飛来したナイフたちをすべて弾き、ヒスイを守っていた。

(……よかった、ギリギリで間に合って)

 まさしく神業的な変形技巧。ヒスイの腕になるという試練がなければ決してたどり着かなかっただろう境地。

(だけど、ごめん――)

 しかしてその直後、ヒスイと接続されていたカナエは、全身から上がる蒸気とともに外れ、その身体はいつもの姿に戻る。

 そうだ、腕の形を取りながらさらに他の形態に変化するという、何度練習しても出来なかった芸当は、またも失敗した。

 それだけではない、失敗したあとはいつも、最低でも十三秒――戦場ではあまりにも長大な時間、カナエは動くことができなくなる。

「リヴァーサスッ!」

「ジャンクの心配をしてる場合かよジャンクぅ!」

 すかさずカナエに手を伸ばすヒスイ、その背にガーベラが迫った。

「……ッ!」

 そのまま、さしたる抵抗もできずに、背中の腕に一つに彼女は首を絞められながら持ち上げられる。

《あなたっ……!》

「おっと、動くなよ。もし動いたらこのジャンクは――」

「――がっ」

 そう言って、手に力を少しばかり加えるとヒスイがうめき、びくりと身体を震わせた。

「さっきも言ったが、我々の弱点はこの首の石でね。これがあれば最悪どんなダメージからでも復活できるんだが、これが無くなったらもはや正真正銘のジャンクになるしかない」

 そう言って、ガーベラは背中の腕の一つでわざとらしくそれを庇う。……ああ、不意打ちで破壊することができなくなった。

《……なにか要求があるの?》

 カナエは、ひときわ低いトーンで尋ねる。

「リヴァーサス! 私はいいから、あの子を――」

「ふむ、化物のくせになかなかに察しが良いじゃないか」

 叫ぶヒスイを先ほどと同じ方法で黙らせて、ガーベラは続けた。

「――そうだ、そこの化物を殺してみろ、それがいい」

 粗大ごみの横で縮こまるカオルを指さして。


 カオル・タチバナは何もかもわけがわからなかった。

 いきなり醜い化物になり自殺しそうになったところを、驚くほどに美しい少女に助けられ、その少女が追いつめられたとき、新たなスライムが加勢にやってきた。しかもそのスライムは――

(……嘘でしょ、リヴァーサスって)

 少女は目の前の化物をリヴァーサスと呼んだ。聞き間違えではない、何度もだ。

 リヴァーサス、そうそういる名字ではない。美少女は名字まで特別なのかと思わされた名字。是非自分もその名字を名乗りたい、そんな名字。

 そして何よりも、視線の先の鈍色の不定形からは、カナエ・リヴァーサスのような雰囲気を強く感じ取ってしまう。

 見た目ではなくその奥にある何かが、カオルに訴えかけていた。

(……そうか、美少女がスライムになるなら、行方不明のカナエ先輩がスライムになっていても、おかしくはない)

「――そうだ、そこの化物を殺してみろ、それがいい」

 そしてあまりにも急展開する現実はさらに牙を向き、挙句の果てにこんな変化球をぶつけてきた。

(……嘘、でしょう)

 初恋の相手が今、自分と少女を強制的に天秤にかけさせられている。

 しかも、こちらがカオル・タチバナであると彼女は気づいていない。

 あまりにも皮肉な状況。

「貴様が化物でないと言うならば、そこの化物を殺すんだな。たかが醜い化け物一匹とこのジャンク、どっちが大事なんだ?」

《………》

 カナエは、その言葉に対し悩むようにうつむく。

(……普通に考えれば、あの美少女と今の私じゃあ、どちらの命に価値があるかは一目瞭然だ。私がカナエ先輩と立場なら、きっと……)

 そんなことはわかっている。現にカオルはついさっき自殺しようとしたばかりであり、この世への未練などないはずだ。川の中はひどく苦しかったが、これからこの姿で生きていくことはもっと辛いだろう。だというのに、だというのに――

(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない!)

 それでも、カオルは死にたくなかった。

 だって、自身が決して孤独ではないと――よりにもよってカナエが同じ化物になっていると知ってしまったから。

(……でも、だけど)

 しかしそれでも、カオルは逃げることも命乞いを叫ぶこともできない。

 もしも自分が逃げてあの少女が殺されてしまったら――そんなつまらない良心が。

 もしも自分がカオル・タチバナであると叫んでもなお、カナエが少女を選んだら――そんな切実ながらもひどく繊細で場違いな苦悩が。

《……本当に、あの子を殺せば返してくれるの?》

 そして、カオルがそんなふうに苦悩して震えている間にも、現実は進んでいく。

「ああ。私としてもかつての同胞を殺すのは心苦しい。それに、化物を害すことが出来る化物は便利だ。貴様のことも、殺すのは最後にしてやろう」

 嘘かどうかわからない、平坦な言葉。

 だが、その真偽がいかなるものでも、今のカナエに出来ることは一つしかないだろう。

《……わかった》

 苦悩したような口調とともに、その身体から刃をたたえた触手が伸びる。

《ひいいいいいっ!》

 ただそれを見ただけで、今まで麻痺していたあるかどうかもわからないカオルの声帯が、醜いノイズを撒き散らした。

《……ごめん》

 カナエは心底すまなそうにつぶやいて、刃をそのままカオルに向ける。

 よりにもよって、初恋の相手が、自分に刃を向けている。

《――いやだ、私は死にたくなんて!》

 そんな地獄めいた惨状に、カオルはやっと己の思いを外に出力せしめた。

《ごめんね、本当に》

 しかしカオルの意思を無視して、ついにその刃は鞭のようにしなり、

《――いや、絶対にいやだ、私は、死にたくないっ、まだ生きたい!》

 カオルは本当の気持ちを咆哮する。

 そうだ、カオルは『死にたくない』のではない、『生きたい』のだ。

 生きてどうしてもやりたいことが、いくらでもある。

 たとえ醜い見た目になっても――否、だからこそ、カナエとともにいられるかも知れない、そんな光明が彼女を『生きたい』と思わせる。

 しかしそれでも、いくら生きたいと願っても、生き物は死ぬときには死ぬ。

 叫ぶだけでは、願うだけでは、望むだけでは、現実は変わらない、叶わない。

 ゆえにカナエの刃は彼女に向かって迫り、

《――ッ!》

 その隣の粗大ごみ――ボロボロのソファーに直撃した。


「……ふははははっ、そうかしょせん貴様も化物か!」

 ガーベラが心底愉しそうに哄笑する。

《……無理よ、わたしには》

「そうか、そうか。そいつは残念だ。かわいそうになあ、ジャンク。貴様がせっかく親切に助けてやった化物が、恩を仇で返すんだってよ。同族のほうが大事なんだってよ。なあ、最後になんかいうことはあるか? 化物への呪詛とかよお!」

 全力の嘲りとともに、ガーベラがわずかにヒスイの首にかかった手を緩める。

「……黙れ、彼女たちは化物じゃない」

 すると、ヒスイは彼を睨みつけ、蚊の鳴くような声で、しかし力強くそう言い切った。

「……心底ジャンクだな」

 苛立ちと軽蔑と失望に満ち満ちた、冷たい声。

「――ならば死ね!」

 ヒスイのエンゲージリングを破壊せんと、再びその手が強く首を締めようとした、その瞬間。

《――させるかぁあああっ!》

 ガーベラに横っ面に、ボロボロのソファーが直撃した。推定四人用。

 そのクッション部分には『投げろ』――そんな文字が彫られている。

 カオルはこの文字を読み、そしてソファーを投げたのだ。

(よくやった!)

 己の触手の刃を使った限りなく分の悪い賭けは成功し、カナエは次は自分の番であると触手を閃かせる。

 目指す先は、唐突な急襲に即応できていないガーベラ、そのヒスイを掴む腕。先程の鬼のような精密動作と比べてしまえば大したことのない芸当。

《喰らええええええっ!》

 目論見通り、その腕は切り落とされ、ヒスイは地面に落ちる。

 しかしそれでも腕は四本残っており、青の粒子とともに再び具現化されたナイフがカナエに襲いかかる。

「化物風情がぁああああっ!」

 怒りに満ちた赤く輝く単眼。カナエは渾身の攻撃直後ゆえに動けず、しかしそれでも、カナエに恐怖はない。

「怒りに囚われて我を忘れるなんて、まるでジャンク」

 なにせ、その後ろにヒスイが回り込んでいたのだから。

「貴様、ネっ――」

 そのまま腰をホールドするように両足を回し、何よりも首に腕を回して、エンゲージリングに向かって力を込めた。ただそれだけで、

「―――ッ!」

 ぴきり、何ががひび割れる音と、それをかき消すような絶叫が鳴り響く。

「……く、くそ」

 先程の絶叫とは打って変わって、次の漏れるのは蚊の鳴くような声。赤い単眼はチカチカと点滅し、腕はただヨロヨロと虚空を切るだけ。

《……!》

 ついさっきまで無双の強さを発揮していたはずのガーベラが、たかが首元の宝石ひとつを攻められるだけでここまで追い詰められる――その事実にカナエは思わず息を呑んだ。

「……これで終わりだ、ガーベラ! あの世で――」

 そのまま絞め殺さんとひときわに力を加えるヒスイだが、

「――我々機械風情にあの世があるとでもっ! 言うのかあああッ!!」

 ガーベラの五本腕が今までとは打って変わって、凄まじい勢いで振るわれた。

「――がっ」

 片腕ではろくに受け身も取れず、ヒスイは遥か後方にまで吹き飛ばされ、そこにガーベラがいくつものナイフを構えて疾駆する。

「俺たちは目的を果たせなくなったら、その時点でただのジャンクなんだよ!」

 エンゲージリングにはやはり巨大なヒビが入り、青の光が激しく点滅している。

 赤い単眼の点滅も先程よりも激しく、しかし放たれる殺気もまた今まででもっとも激しく鋭い。

 ああ、まるで命そのものを燃やすような凄まじい勢いだった。

「ジャンクにはあの世もクソもない、ただゴミ箱だけがあるだけだ! 俺も貴様もなああァあああ!!」

(――ダメだ、間に合わないっ!)

 立ち上がったばかりのヒスイに襲いかかる、ナイフの群れ。

 カナエもまたそれを止めようと触手を放つが、しかしその刃は亀のようにのろのろと、ガーベラには届かない。

「――ッ」

 そして他ならぬヒスイもまた、度重なる戦闘がゆえか、その動きはひどく緩慢で、その首元はあまりにも隙だらけだった。

 ゆえにガーベラのナイフはエンゲージリングに向かって容赦なく突き立てられ――

《――ヒスイいいいいいいっ!》

 絶叫とともに思わずカナエは目をつむり、現実から目をそらした。

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