表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

橙色メルヘン

作者: 頭部 マクビ

 僕は昔から右手が引き攣り上手にファックサインができなかった。

 その日もむやみやたらに「好きよ」だの「愛してるわ」だのよく回る口を張り付けた女にやってやろうとして、見事失敗した。ぐんにゃり、と傾く中指は彼女にファックサインとは受け取っては貰えず、右腕ごと奪い取られて食べられそうにすらなった。間一髪で逃げ帰ったはいいものの「負けた!」という感じがどうしたってぬぐいきれない。苛立ちと敗北感を前にもう一度中指に力を込めるが、ぐんにゃり。

 EDの患者って、きっとこういう気持ちなんだ。

 そう思いながらピンと立たない右中指を見つめたその瞬間である。脳ミソからガキンという音がした。

 骨が折れるような鋭く短い音だったが、当然それは骨の折れる音などではない。脳ミソのどこかの部分の歯車がはまった音だ。そうして今まで停止していた理解がうごめきひしめき悲鳴を上げて、脳髄から足の裏へと突き抜けた。

『そうだ!僕の恋愛がうまい具合に行かないことはもちろん、友人関係家族関係お金地位名誉全てがでたらめに悪い方向へ行くのもこの不器用な右手のせいなのだ!』

 こいつは大変な発見だった。世界のすべてを理解して手にしたような気がする。だってそうだ。そうだそうだそうだ!

 ファックサインというのが僕のただ一つの汚点であり、つまりファックサインさえできれば僕は完成するのだ!


 僕は逃げ疲れふやけきった体を布団から引きはがし右手中指をぐいっと立ち上げようとする。が、人差し指か手首あるいは親指になにかがつかえて持ち上がりきらず、中指はぐにゃんと情けない。

 このふぬけ野郎! と自身を叱咤しつつ手をグーパーして再び挑む。

 ぐにゃり。ぐぬ、ぐみゃり。

 どこかに何かが引っかかっている。馬鹿にするかのようにへなへな動く中指はなんだかあの女にすら見えてくる。憎たらしい。

 右腕をぶんぶん振り回して絡まりをほどこうとするがやはり言うことを聞かず、中指の上の重力だけが異常に強くなって押さえつけられているような気さえする。地球単位の妨害である。それかバネのようなものが邪魔をしているのか。とにかく中指は立ち上がらない。

 しかしこんなことで諦め落ち込んでいる場合ではなかった。ファックサインさえできれば、僕はあの町に戻れて美しい女に求婚されてあの日夢見たような出世をして将来はお手軽に天下り子供たちも立派に育ち老後の心配もなく楽しくやっていけるはずなのだ! ファックサインなどという重大なポイントを見逃して今まで僕はいったい何をやっていたんだろう。勉強? そんなものにどれほどの価値があるというのか。何をしてもしなくても関係ない。すべては右中指に帰結するのだ!


 せいっ、イエス! とばかりにため込んだ日々の鬱憤とやるせなさを中指に込め大宇宙めがけて突き立てる。「イエス!!」と叫んでしまうがまあこの際どうでもいい。その時僕は隣人からの壁殴り攻撃など気にならない高みにいた。するとどうしたことか、右腕全体に光が差しぎゅりぎゅりと無理のある効果音でゆっくりと中指が持ち上がっていくではないか! ギュギュギュギュギュと奇怪な音をさせながら越えられないいくつもの突っかかりを通り越し、ベキン! というおぞましい音と共に、ついに中指はここに立ちあがった。ファックサインと僕の完成の瞬間であった!

「やっ」

 た、と声に出す間もなかった。光り輝く右手が急にぐいん、と地面と平行になった。九十度の急激な大移動である。手首を上に向け、中指はそれこそ人を指し示すような形だ。唖然とする僕をしり目に完璧なファックサインは光っている。そもそも人体ってこんなふうに発光しないよなと表情を変えるのすら忘れて慌てふためく僕に右腕は容赦しない。コントロール不可能の右腕は僕の体を引っ張り出した。

 「ちょっと、これは」

 おかしいだろ、おかしいだろと口をパクパク動かしている間に、強すぎる引きに体が浮いて、ぎゅわあんというスピードでもって空を飛ぶ。釣られた魚だ。肩がちぎれるように痛むが関係ない。部屋をぐるり一回りして、右腕は中指を先頭にドアへ突っ込んだ。

 もうどんな音がしたかも覚えちゃいない。気が付くと僕は右肩に安っぽいドアをぶら下げて町内を飛んでいた。なにがどうなっているか、考える気すら起きない。清々しいほどに、諦念していた。


*  *  *


 肩さえいたくなければ少しは楽しいのになどと開き直りながらスーパードア男は住宅街を抜け、商店街を飛び、そこにいつかの初恋の人を見つける。初恋の人もドア男を見つける。僕を見つけた瞬間に彼女は「アラすごい!」と無邪気にはしゃいでみせた。風の音がつんざくように響く中その声を聴きとれたのは奇跡としか言いようがない。動体視力もかなり向上してるようで少しだけお得のような気がする。気分も少しは良くなって、あのころはもう二度と話すまいと思っていたはずの初恋の少女に「君はいつこっちに来たの」となどと聴こうとした。しかしその瞬間右腕の位置ががくんと下がった。まずい位置である。正面にいる彼女の、丁度スカートのあたりだ。スピードは下がることを知らずむしろ上がり、元愛しの君へと一直線に進んでいく。彼女はと言えばなんら危機感を感じることなく僕を待ち構えているので避けようもなく、だからこれは事故だった。まったく不幸な。


 ぐちゃ、だとかぶち、だとか濁音にちという文字をくっつければ大体表現できそうな音で、少女の左太ももあたりが僕の中指に突き刺さり、彼女から奪い去られた。顔中に血が舞って、でも拭うこともできない。ドアに引き続き僕の肩には白く美しい肉付きをした生足が引っかかることになってしまった。

 風圧のせいで振り向くことができないので彼女が今どんな顔でどんな思いで、そうしてこれからどんな生活をしてどんなパンツをはくのかは想像するしかないのだけど、本当に悪いことをした。なんでこうなっちゃうんだろうと感慨に浸る間もなく今度は正面に現在日本で大人気のアイドルが見える。名前は忘れた。忘れたが、彼女の足まで強奪して罪を増やすことだけは避けたかったので、逃げて! と叫んだ。叫んだけれどなぜだろう。彼女は血まみれドア生足男から逃げようとしなかった。アイドルの顔で笑っている。今更のように気づいたが、やはりかなりカワイイ。

 微笑みにやられてしまったように間抜けに口が開いた時、今度は腕が上がった。体がしなり無防備に開いた口には空気がめちゃくちゃに流れ込んでくる。むせている間に僕の中指には嫌な感触が伝わり、なんだかもう目を開けるのも嫌だと思いつつそっと指を見ると、彼女の片目がお団子のように刺さっていた。もううんざりだ。

 しかも目玉の向こう、目線の先には、いつか見たことのある顔が本当に馬鹿みたいにずらりと商店街に大集合しているのが映った。保健の先生、父親、体育の教師、小学校の頃金魚が死んで泣いていたY君、上司、元部下。傷つけられるために順番待ちをしているとしか思えなかった。そんなに僕を悪者にしたいのか、と呟き顔をぐしゃりと歪めて、そんならやってやるよ、と開き直ったところで、昔テストに大きく×をつけた女教師の細腕を中指が犯した。


*  *  *


 日が落ちかけて町がオレンジ色に染まるころ、僕はそれはもう真っ赤で、でもまだ飛んでいた。僕の右腕には本当に色々なものが串刺しになっていて、ちょっと笑っちゃうくらいだ。部長の胴体やテレビに出ている名前が分からないコメンテーターの首とか、小説家の下半身とか色々なものを刺した。見覚えのある一般市民も容赦なく強姦した。父親は口から首の後ろまで貫いて途中までは持っていたのだが、自重に耐えきれなかったのか無くなっていた。もったいないことをしたものだ。

 さて、それを除けば心残りはあの女だけだった。僕の指を喰らおうとする女。彼女の姿をまだ僕は見つけていなかった。血まみれでドロドロの僕をどこかで見かけて逃げ出したのかもしれないが、その可能性はとても低い。彼女は僕を決して恐れない。おそらく僕を見下しているのだ。

 静まり返った町で女のことを考えていると腹の奥から笑いがこみあげてくる。これで最後なのだろうなあと嘆息した。左遷された夜、現実味のない現実が迫ってくるあの感じによく似ている。結局いつまで経っても何の感慨もなく、現実感なんてとっくの昔に失われていることに気が付く、あの夜。

 風の音だけが耳を千切り取ろうとする中で、僕はようやく自分がどこへ向かっているか分かった。僕の家だ。女は僕と入れ違いにやってきて、壊れたドアと隣人からの苦情で驚き呆れて、僕の部屋で僕を叱ろうと今か今かと待ち構えているのだ。そんな気がする。

 びゅんびゅんというお約束の効果音で飛んで飛んで向かった先はやはり僕のアパートだった。せまっ苦しい階段にガダガダとぶつかりつつ、ぽっかりと空いた穴のような僕の部屋のドアから飛び込む。夕日が差し込むがらんとした部屋の中央に、彼女はぼんやり立ちすくんでいた。僕を待ち構えているという予知が外れてしまい、僕はちょっとだけがっかりする。

 そんなしょうもないことを嘆いていたものだからお別れの挨拶をする暇もない。僕の中指は女の心臓めがけてまっすぐに伸びる。ひゅう、と風を切って彼女の真正面に飛び込んだ。

(あ、刺さる)

 と目をつぶった時だ。突如として僕の右腕は進行を止めた。

 ガクン、と宙を舞っていた体が右肩を軸に地面と垂直になる。足の裏が久しぶりに畳について酷い違和感を感じた。自分の足をまじまじと見つめて、視線を上にあげていくと、女と目があった。

 彼女の茶色い目がギュッと細められた瞬間、ガコンという音がする。目と目があった効果音ではない。僕の右腕の力が完全に抜け切った音だ。力の抜け切った腕はブランと下に垂れ下がり、ボトボトと床の上に戦利品をこぼした。ファックサインだけはそのままに、床を指さしている。掃除がめんどくさそうだけどこの女にやらせればいいか。しかしさすがに怒られるだろうか。

 にへ、とあいまいに笑う僕を無視して彼女の口はそっと開く。

「なんであたしは刺せないか、分かる?」

 笑うような、見下すような目で彼女は僕に出題した。わかんない、と首を振れば女は溜息のような声で、「あたしのほうが頭がいいから」とだけ言った。

 彼女はそんなに頭がいいのだろうか。ところで僕は近頃テレビで神童と呼ばれている子も刺せたのだけど、僕は彼より頭がいいのだろうか。神童よりこの女のほうが頭がいいのだろうか。わからない。

 疑問は次々と浮かびそのどれもが女の理論にとって致命傷になるように思われたが、僕は話す気がしなかった。疲れていた。

「頭がいい人のほうが偉いの。ファックサインができれば完璧なの。それを知ったからあなたは空を飛んだんでしょう?でもあたしのほうが、あなたより、」

 あたまがいいの。


 微笑む。

 オレンジ色の部屋の中、オレンジ色の髪の女が、オレンジ色の目で、溶けだしそうな肌の色で立っていた。

 僕はそれを見て鮮やかにあの色を思い出す。オレンジ色の勉強机。オレンジ色の教科書。オレンジ色のノート。オレンジ色に染まった母の声。「勉強ができる人のほうが偉いのよ」。


 そうだった。

 僕は勉強をたくさんして、そうしてある日嫌になって、勉強机の上生物の教科書を見ながら右手の腱を切ったのだ。うまくいかなくて治っちゃって、右手の突っかかりが少し残っただけであんまり意味はなかったけどでもそうだった。どうして忘れていたんだろう。やっぱり頭が悪いからだろうか。

 夕日の中、僕はあちこちが自分の血の色に浸るのを見ながら、これでもう二度と完成しなくていいんだって安心したんだった。


 思い出すと同時にベキン! という音がして僕の中指はへにょんと折れ曲がる。





 僕は昔から右手が引き攣り上手にファックサインができない。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ