第六話 信愛の勇者 Ⅰ
黒く、重油を塗り固めたかのような大きな塊と対峙している。
それは低く地獄の底のようなうなり声をあげて、
鈍く輝く角をこちらに向けて、
地を揺らしながらこちらに突進してくる。
避けようと思ったが、
足は驚くほどに重く、一歩も前に進めない。
突進してくる悪意を回避する術はなく、
無慈悲に超重量が体に叩きつけられ、
己の骨が砕ける音と内蔵が裂ける音を己の耳で聞いた……
「うぉわああああっ?!」
エーはがばりと起き上がった。
そこはベッドとサイドテーブル程度しか置くスペースのない小さめの部屋。
壁も床も天井も木造。
カーテンから洩れるのは明るい日差しと朝を告げる小鳥の鳴き声。
自分の体を確認して、昨日眠った小さな宿にいることを認識し、エーはほっと息をついた。
どうも森の世界でやった5回連続リスポーンが響いているようで、ここ最近眠りがよくない。
エーは重く重くため息をついた。
金の額宛を手に取る。
いつもよりも重く感じる額宛を定位置に装着し、
ベッドから起き上がった。
エーの日常は今日もまた幕を開ける。
天使たちに鎧の洗浄を頼みにやってきたエー。
女神の間特有の真っ白な空間もずいぶんと慣れた。
最初の頃はよく壁にぶつかったりもしたなあ、とエーは白いソファに腰掛け、ぼんやりと天井を眺めながら思いを馳せる。
というのも、天使にまた鎧が臭うと言われたための現実逃避である。
「お、エーだ」
そんなエーの顔を上から覗きこむ姿がひとつ。
紅蓮の勇者カリマだ。
ずいぶん久しぶりにあったような気がした。
エーは「よう」と手を振って応える。
「最近見なかったな、またかっこいい魔王見つけたか?」
わくわくと目を輝かせる様子も、やけに懐かしく感じる。
実のところ、森の世界で猪を倒したあとに森の世界で丸二日間も寝ていたそうで、そう思うのも仕方がないのかなとも思う。
「いや、まあ……今回のは、かっこいいとは違うかなあ……」
森の魔王フォーリアを思い出しながら答える。
フォーリアはかっこいいというよりはかわいいの部類だろう。
戦い方も麻痺毒と飛び蹴りしかみていない。きっとそれはカリマの求める"かっこいい"ではない。
エーの返答を聞いてカリマは「なんだぁ」とつまらなそうに口を尖らせて、どかりとエーのとなりに座った。
ふと、トゥグルのもはや懐かしくなった言葉を思い出す。
『もっといろんな魔王と会え。もっとたくさんの勇者と話せ。お前には真実を探るための目と耳と四肢がある』
そういえば、魔王との関わりは多くなったが、
勇者との関わりと言えばこのカリマしかいない。
エーは勇者だが勇者のことをあまりよく知らないのだ。
「なあカリマ?」
ふと直近の疑問を聞いてみることにした。
カリマはエーとほぼ同期の勇者だ、カリマが知ってることはエーも知っていて間違いはないだろうと。
エーの思惑も知らず、カリマは「ん?」とやる気の無さそうに視線だけ向けてくる。
「魔王と戦うときってどれぐらい死んでる?」
なんともおかしな質問だと自分でも思う。
だが実際、炎の魔王に挑んだときは罠だけで何度か殺されているし、森の魔王のところなど魔王に一敗とそこに住んでいた魔物に四敗もしている。
それら以前の魔界への挑戦では魔王の顔すら見ていない。
自分が不甲斐ないのは理解しているが、
この連敗記録が問題なのか、そうでないのか、水準がわからないのだ。
きっとかっこいい魔王好きのカリマなら自分より魔王に挑む回数も多かろうと、
思ったのだが、当のカリマはおかしな質問をされたような顔で片眉をつり上げていた。
「どれぐらいって、一回死んだらもうやめるだろ普通」
そう、さも当然のように。
エーは口を半開きにして「あれ?」と小首を傾げる。
「えっ、倒すまで特攻かけたりしない?」
「しねえよそんなこと……」
青い目をぱちくりさせて、
エーは自分の疑問の行き着く先を何となく察する。
「いや、あの、実はな……」
最終確認として、森の世界で起きたことをカリマに話した。
森の魔王との戦いと……細かい話は暈したが、いろいろあって森の世界の巨大猪と戦ったこと。
カリマは相づちを打ちつつも黙って聞いてくれて、
話終えてからひとつしっかりと頷いた。
「ドン引きだ」
カリマの燃える夕日ような瞳が、
ここまで冷めたことがあるだろうかというほどの冷たい視線がエーに突き刺さる。
「なんっ?!えっ?!やらないのゾンビアタック?!」
「やらねえし……っていうかよくできたな」
最早、隣に座っているのにやや距離を置かれるレベルでドン引かれている。
エーはショックだった。
自分の認識がずれていたことも、かつてエーのほうがドン引きした趣味を持つカリマにドン引きされていることも。
「間隔あけずになんども死ぬってよほど変人だろ、むしろそういう趣味?性癖?だとしたら俺、エーとのつきあい方ちょっと考え直さないと……」
「やめろぉ!そういうんじゃないから!ちがうから!!」
もはや哀れみさえ含み始めたカリマ。
大声を上げながらエーは力で首を横に振るが、カリマはやはり冷めた目のまま言う。
「だってお前、"死んだ"んだぞ?平気なわけあるかよ」
はっ、とした。
あらぬ誤解で上がっていた熱が急激に冷えていくのを感じた。
カリマの言うことはごく当たり前のことだった。
どうして、異常を当たり前のように受け止めて、当たり前のものを見逃していたのだろうか。
「……?おーい、エー?大丈夫か?」
だがカリマからすれば当たり前のことを言っただけだ。
急に深刻そうな顔をしているエーを怪訝そうな顔で覗きこむ。
カリマが、なにか悪いことでも言っただろうかと心配になり始めたときだった。