第二話 氷の魔王 Ⅵ
案の定というべきか、追い付けないことを前提としている炎の魔王は全速ではなかった。
エーが追い付けたのは、まさしく炎の魔王がスキップで廊下を走っていたためだ。
追ってきている勇者に気付いた炎の魔王はあからさまに嫌そうな顔をする。
「しつこいぞ!お前はいつもしつこい!!」
い、と歯を見せて威嚇する炎の魔王にいらつきながらも、エーは挑戦的に口の端をつり上げて見せる。
「そのしつこいのに追い付かれてんだ!気分はどうだよ!」
今度は炎の魔王がいらつく番だ。
ぼっと背の炎が燃え上がり、表情を歪ませる。
魔王をいらつかせる、という自殺行為。
背筋が凍るような気持ちだが、これでいい、とエーはにやりと笑う。
炎の魔王の纏う炎の熱は感情に左右されやすい。
では、
地獄の業火を背負う魔王が苛立ちや、怒りを抱いたときの温度は?
その事実があるのなら、この氷の城において、そして鬼ごっこというゲームは、勝利の天秤はエーの方に傾いていた。
なぜなら、彼は勇者だからだ。
「今日こそは俺と勝負してもらうからな魔王!!」
エーは剣をすらりと抜く。
「私にチェスでさえ勝てないやつとだれが戦うか!愚か者め!」
炎の魔王はスピードをあげる。
「じゃあそのままそーやって逃げ回ってろよ!魔王が勇者から逃げ回るなんて滑稽だなあ!!」
勇者のその台詞に、ついに炎の魔王の背の炎がごうと燃え上がった。
じゅ、という水が蒸発する音がする。
氷の城だというのに温度がずいぶんあがった気がするのは、走っている影響だけでは決してないだろう。
冷や汗をかきながら、勇者は剣を構える。
「お、りゃあああ!!」
そうして、思いっきり前を走る炎の魔王に向かって剣を投げつけた。
金の鍔の大剣は真っ直ぐに魔王へと飛んでいく、
が、それを避けられないほど炎の魔王は甘くはない。
後ろも振り向かないまま、見せつけるように投げられた避けたのだ。
ターゲットを失った大剣は氷の床に投げ出される。
「っは!当たるとでも思ったのか!ばかめ!ばーかーめー!ふはははははは!!」
刃は魔王に届かなかった。
だが、それでよいのだ。
魔王を盛大に、調子にのせたのだから。
「っ!わ、……ぎゃふっ」
べしゃん!と溶けた氷の上を炎の魔王が転倒する。
エーは笑みを堪えきれなかった。
自分が、自分の作戦が、魔王を出し抜いたのだ。
ひとつ抜けがあるとすれば、
「はははは!人の事馬鹿にするからだバーカ!バー、カッ?!」
トゥグルと一緒に追いかけていたときとは違って、
床は炎の魔王が溶かした状態であって、油断するとこちらも転ぶというところだが。
「へぶしっ」
顔から転んだエーは凍った床を滑っていく。
やってしまった。
エーは文字通り頭を冷やしながら思った。
調子に乗らせて、調子にのってしまったのだ。
きっとこういうところが、勇者として足りないところなのだろう。
そう、反省したころ、エーの手がなにかに触れてペンギンのように滑っていた体が停止する。
ついで、じゅう、という音と手のひらの焼ける痛みに、エーは飛び起きる。
「あっ、ちぃ!!!」
反射的に耳たぶに手を当ててから、それよりも氷の床につけた方がいいだろうと思い至り慌てて手を床につける。
痛みが落ち着いたところで、エーは、はて、と思う。
何を触って火傷したのか。
ぱちくりと瞬きして見渡した周囲に、火や熱といったものはなく、
いや、ひとつある。
炎の魔王が倒れている。その赤黒い足が、丁度エーの手が触れる位置にあるのだ。
「…………あ……」
火傷した手を改めて眺める。
重度のものではない。例えるなら料理中に熱した鍋を触ってしまった程度だ。
しかしこの氷の世界において熱さによる火傷をするということは、目の前の炎の魔王に触れた唯一無二の証拠であって、
この鬼ごっこの終焉を示している。
「…………かった……勝った……!」
エーの呆けた顔が自身の勝利を理解して段々と笑顔に変わっていく。
震える手を握りしめて、エーは青い瞳を輝かせる。
「勝った!魔王に勝った!!ははは!!勝った!やったー!!」
エーは思わず立ち上がって、天を仰ぐ。
寝そべった姿勢のまま、炎の魔王が不機嫌そうに頬杖をついて喜ぶエーを仰ぎ見る。
ようやく立ち直って、二人の世話係になだめられながらやって来た氷の魔王がその光景を見て、
ふと口元に笑みを浮かべた。
「へへー勝ったぞ魔王。もうでかい面させねーからな」
緩みっぱなしの勇者の顔に対して、苦虫を噛み潰したかのような顔の炎の魔王。
「理解してないようだから言ってやろう、私にとってここはアウェー中のアウェー、魚を陸に放って逃げ回れと言っているようなものだ。ハンデ10ぐらいついてる相手に勝って何が楽しい、バーカバーカ」
エーに向けていーと牙を見せる炎の魔王、
負けは認めているようであることに、氷の魔王はすこし安堵した。
このまま実力行使にでてしまっては、氷の魔王も止めようがないし城が大変なことになるからだ。
だが、このまま言い合いを許しておけばそうならないとも限らない。
「……イム、リム、勇者を出口まで送ってやれ」
傍らに控える世話係にそう命じると、二人は「はぁい」と柔らかく答えて、勇者のところへ歩み寄る。
先程まで勝利の余韻で顔が緩んでいた勇者は、近寄ってきた異形で全裸の女性二人に気づくや否や顔を赤くして慌てて後ずさる。
「い、いい!いらねーよ!一人で帰れる!」
「ええ~、いいじゃない。案内するわよ~」
美女二人に挟まれたじたじの勇者は、そのまま美女に運ばれるように出口の方へと導かれていく。
絡もうとする手を払いながら、勇者は一度振り向いた。
「魔王!次はちゃんと戦ってもらうからなー!」
ぶんぶんと腕を振る勇者がどんどん遠くへと連れていかれる。
「自惚れるな!さっさと帰れ!」
炎の魔王はしっしと手を払い、
氷の魔王はその行く末を静かに見守っていた。
「なぜ連れてきた」
勇者が消えた廊下の先を睨みながら、
炎の魔王、レーヴェは不機嫌そうに言った。
トゥグルはその横で静かに答える。
「彼が炎の魔王の友だから」
その答えにレーヴェは眉を寄せてトゥグルへ顔をむける。
「あいつは友人などではない」
その不機嫌そうな表情を見て、トゥグルは一度静かに頷いてから、
ただひとつ、「そうか」と呟いた。
なにか妙に納得した様子のトゥグルにレーヴェはなんとも言えない不快感で、背負った炎をぱちぱちと鳴らした。
「さて」とトゥグルが仕切り直すように言う。
「気はすんだだろう。今日こそはちゃんと話をしてもらうぞ」
静かで無表情なトゥグルの、しかしやる気に満ちた瞳を見て、
レーヴェは大きくため息をついた。
彼の一日はまだまだ、これからのようだ。