01
「かぐや姫は、どうして泣いたのでしょうか」
じっとりとした溶けるような暑さを含んだままの九月。二学期が始まった。勉強は好きでも嫌いでもなかったけれど、これほど学校が待ち遠しかったことはない。
ようやく計画を実行できるのだから。
確認したいことはたくさんある。
遠くリビングの音を聞きながら
「行ってきます」
と玄関に声をかけた。
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双樹高校図書室。
長期休暇が終わり、最初の週こそ本を返しにきた生徒がいたけれど、そのほとぼりが冷めてしまえばこの教室にはいつもの閑古鳥がもどってきた。
司書の幸田さんは、新刊にコードを付けたり本の修復をするのに奥の部屋に行ってしまった。現在ここにいるのは図書委員の私、萩原文香一人きりである。
返却棚に並んでいた本を空にしたところで、私の今日の仕事は終わってしまった。ふうと息をついて窓の外を見ると、部活動の声が遠くに聞こえる。
まだ日は高いけれど、教室は薄暗い。日当たりが悪いの、人が来ない原因だと思うんだけどなぁ。
前にそう言ったら、幸田さんは苦笑して「本が焼けちゃうからね、いい場所だとは思うんだけど」と返してくれた。
本棚をグルリと見渡し、目についた本を手にとって貸し出しカウンターに戻る。今日はSF小説にしてみた。
せっかくの図書室が使われないことは寂しくはあるけれど、誰もいない空間で読書をするのは好きだった。そこだけ時間を切り取ったように、本の世界に没頭できる。
電気羊が修理に出されたところで、私は少し休憩することにした。SFって設定が難しいから、面白いんだけどちょっと疲れてしまう。
座ったまま伸びをしてから、お茶でも飲みに行こうかと考えていると、立て付けの悪いドアがガタガタと鳴いた。
「あ、大丈夫ですか? そのドア少しコツがいって」
立ち上がって入り口へ向かおうとしたタイミングで、ドアはガラリと開いた。
背が高い男の子だ。整った黒い髪の毛と、パッチリとしているが落ち着いた目が印象的。ネクタイの色が同じだから、学年も同じ、というか知っている人だった。
「図書室はこちらでよろしいですか」
目があった私に、はっきりとした声で問いかける。驚いてしまって頷くことしかできなかった。
彼は大上千影くん。今学期に隣のクラスに来た転校生だ。高校になっての転校生は珍しかったので、学年全体で話題になった。
「そうですか、ありがとうございます」
大上くんはぴったりドアを閉め直すと、図書館をぐるりと見渡した。
人が来ると思っていなかったし、声をかけることもできなかったので立ち上がったままオロオロしてしまう。
そうしているうちに、大上くんは足を止めて綺麗にこちらに向き直った。
「こちらの書籍は、読んで良いのでしょうか?」
淡々と。言われたことが当たり前すぎて、ちょっと反応が遅れた。
「あ、はい。図書館なので」
どうぞ。と小声で付け足すと、彼はまた「ありがとうございます」と返して本棚へ向かった。
大上くんが本を手にしたので、私もカウンターに座りなおした。
びっくりした。人が来るどころか話しかけられるなんて。というか、図書館に来て『本を読んでいいか』なんて聞かれると思わなかった。
もしかして、彼が前にいた学校には図書館がなかったのだろうか。そんな学校あるのかな。
考え事をしたら落ち着いたので、本棚の間をゆく大上くんをちらりと見る。あんまりじろじろ見たら失礼だろうけど、なんだか気になってしまった。
(大上くんが読んでるのは……辞書?)
彼が一番端にある本棚から出していたのは、日本でポピュラーな辞書だった。何冊かに分かれた分厚いもので、あらゆる日本語が載っている。毎年新しいものが出ていて、流行語のようなものも載っているらしい。あそこにあるのは何年か前のものだった気がするけれど。
調べ物をしにきたのかな。
目を離そうとして、彼の動きが少し変なことに気がついた。
あの辞書は何冊かに分かれている。だから背表紙には「あ〜こ」のように、頭文字でどの文字まで載っているかが書かれているはずなのだ。けれど、彼は最初の巻を手にとってから、パラパラとめくり閉じる。次の巻を手に取る。めくり閉じる。を繰り返していた。
めくり方も独特だ。一番最初のページから初めて、恐らく綺麗に最後まで。あの見方、まるで……
「速読?」
口に出てしまっていて、大上くんが顔を上げた。慌てて本を読む振りをする。
辞書の速読なんて、そんな訳はないだろう。読み物として見ると面白いと聞いたこともあるけれど、それはそれとして文章量がすごく多い。
見間違いかな、とまた少し目線を上げると、大上くんは違う本棚に移動していた。
人のいる独特な空気に慣れてきた頃、大上くんは本を一冊持って席についていた。読むものが決まったようだ。
互いにページをめくる音だけが響く。
いつもの読書とは違って、でもどこか心地よくて再び本の世界にもぐった。
「萩原さん」
カウンターの裏手のドアから、幸田さんの声がした。
「あ、もう戸締りしますか? 今他の人もいるんですけど……」
「あら、珍しい。実は今日ちょっと早く出ないといけなくて」
いつもは時間までしっかりいてくれるので、多分急な用事なのだろう。
「時間になったら戸締りしておくので、先に出ても大丈夫です」
後押しすると「いい? ごめんね」と申し訳なさそうに苦笑いされる。
それから彼女が奥に戻ると、慌ただしくかけていく音がした。
大上くんは幸田さんの事を特に気に留めなかったようで、変わらず本を読み続けていた。
すごい集中してるみたい。だけど、あの本……大きい、というか薄い。もしかして絵本?
読み終えたらしく本を閉じたので表紙が見えた。やっぱり絵本だった。
そして彼は、またそれを開いた。
え、また読むの? 絵本を?
まじまじと見つめてしまっても、集中し続ける大上くんは、私には気づかなかった。
そうしているうちに下校時刻を知らせる放送が鳴った。外ももうすっかり暗くなっている。手元にあった本は全然読み進んでいなくて、貸し出し手続きをして持って帰ることにした。
そして、絵本を読み続けていた大上くんは、多分困っていた。
まだ読もうとしているようで、でも下校時刻になった事は気づいていて、立ち上がったはいいけれど本を戻せない。ように見えた。
もしかして、貸し出しのことを知らないのかな。図書館も初めてみたいだったし。
声をかけるのはちょっと戸惑ってしまうけれど、戸締りもあるしそうも言っていられない。
「あの、大上くん。まだ読むなら貸し出しできますけど」
声が小さくなってしまったけれど届いたようで、彼はこちらに向き直って、パッチリした目で私を見た。
「貸し出し……持ち帰りが可能なのですか」
やっぱり知らなかったみたい。
学生証があれば本が借りられる事を説明して、彼の持っていた本と学生証を受け取る。
本。それは『かぐや姫』の絵本だった。
ちょうど古典で竹取物語をやっているのを思い出して、もしかしてその関係なのかな、と考えたけれど結局口には出せなかった。
「貸出期間は2週間で、それより前でも返せます」
延長はしないだろうから、今は言わなくていいだろう。
あまり時間がないので、本と学生証を返して戸締りを始めようとした。
「ありがとうございます。萩原さん」
わざわざ礼をしてからそう言うと、大上くんは図書館から静かに出て行った。
名前、なんで知ってたんだろう。
私も人のことは言えなかったので黙っていたけれど。他のクラスの普通の生徒だよ?
ぼーっとしていたらチャイムが鳴ったので、慌てて図書館を出て鍵を閉めた。
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
絵本を題材にした物語です。
学園モノと言っていいのかわかりませんが、文香たちの小さな青春を描いていけたらいいな、と思っています。
そして未だになろうの勝手が掴めず……四苦八苦しつつちょこちょこ修正します。