#06:折衝する
秋野氏へ
-本当に、何も無かったんですね?
面と向かって無いのに、こちらの目の奥を覗き込まれるかのような感覚がする。
さすがプロ。僕のつたない嘘などあっさり見破られるんじゃないか。左手に握り込んだ例のメモが、汗を吸って掌に貼り付いている感触がするが、それを意識したり、目を向けたりしたら駄目だ。
「……ひとつ、ありました」
真実を伝えつつ、少量の嘘を織り込むようにする。嘘を見破られにくくする時のテクニックだそうだ。何かの本に書いてあった。そしてここは仕掛ける時だ、と僕の直感が告げている。
「気を失った時に、夢のような、うすぼんやりした映像が浮かんだんです……僕の知らない女性が自分のことを呼んでいました。もしかしたら、失った記憶が少し呼び覚まされたんじゃないかと……」
これは真実。あの魅力的な女性は誰なのか、それが今の僕にはわからない。僕の想像が生み出した架空の人物かも知れないけど。
でもあのリアル感……夢って普通、人の顔とか鮮明に認識しないはず。でも今も思い起こせるほど、頭に、脳に? あの女性の顔がくっきりと焼き付いている。
-気を失う前、何かきっかけになるような感覚はありましたか?
さくらさんの口調が、真剣で熱を帯びたものに変化した気がした。よし、こちらをメインに話せば、「予言」のことは伏せておける。僕は慎重に、最善の一手を探るかのように、言葉を選びながら紡いでいく。
「……鼻から息を大きく吸い込んだ時のキンモクセイの香り……あとは耳の奥でオープンリールが巻き戻る音のような? 耳障りな音が響いた気がします」
これも真実。そしてジョーカー以外の手札は全て切った。ここからが僕の腕の見せ所……のはず。
-嗅覚。聴覚……興味深い事象と思います。でも、そんなに深く考えこまないでくださいね。夜眠れなくなっちゃいますから。
一瞬、考え込むような口調になったが、いつも通りのさくらさんの感じに戻った。やはり……癒される。しかし、はいそうですねとあっさりこの話を終わらせるわけにもいかない。
「あの……この後もう一度、中庭に出てみてもいいでしょうか? 同じことが起きるか確かめてみたいというか……」
-お勧めできません。
やんわりと、しかし即答。しくじったか?
-あ、いえ、脳に無理やり負荷を掛けるのは今の段階ではいけないと思うので……。また気を失ってしまったりしたら……私も心配です。
本当に僕のことを気遣ってくれているような雰囲気を声から感じた。
好意……? いやいや、早とちり。そして思い過ごしかも知れないけど、僕の鼓動は少し早まってしまう。
でもここは行く。あの「予言」が本物だというのなら、その通りに事は運ぶはず。逆に外れてしまったらしまったで、ただの無意識の殴り書きということで決着はつく。
「……さくらさんに付いていてもらうというのはど、どうでしょう? 僕も安心して気を失えますし」
何というか直球すぎただろうか。しかも見え見えのボール球。しかし、
-ふふ。……わかりました。私も柏木さんにお会いしたいと思っていたんです。同じ建物にいるのに、顔も合わさないなんて、おかしいですよね。では11時半頃、中庭で待ち合わせしましょう。私はそこでお昼を取りますけど、許してくださいね。
僕の悪球を、精一杯体を伸ばして、バットの先にこつんと当ててくれた。
許すも何も……これも夢じゃないよな? と思って左手で車椅子の車輪を少し前に進ませ、つま先を小物入れの角にぶつけてみる。激痛。