#54:回答する/させる
静かに、オープンリールが回っている映像が、頭の中を流れている。巻き戻ったり、早送られたりはしていない。ゆったりと、しかし確実に、回転が続いている。
再生されている。まっとうな記憶が、まっとうな時間軸を流れている、そんな感覚。
再生。
再び、生きる。……再び、生きられるのだろうか、俺は。
傍観するかのような記憶は、ふわりと時空を越える。さくらさんを失くしたあの日へ。
1984年のあの日、俺が起こした事故。
東名高速を運転中、突如意識を失った。原因はわからないままだった。高速の遮音壁に、突っ込んだ。そこからの病院で目覚めるまでの記憶は無い。
さくらさんに、別れを告げることも出来なかった。向こうの家族からの、拒絶を受け。
母親の固く抱きしめられた腕の中で、傷一つ負わなかった娘は、親権を奪われ、俺の元から離されていった。
何も無くなった。
医師だった自分に出来たのは、医療だけだった。救命救急の場で、ひたすらに患者をさばいた。死と生命を常に間近で感じることで、逆にそれらを曖昧にしてやろうと、それらを分かつ刃を振るい続けた。
-柏木さん。
ふいにまた、声が聞こえた。さくらさんの声だ。どうしたんだ。俺を呼んでいる?
行かないと。行かないと、また消えてしまう。
壁に専用のフックで掛けられていた、アルミの松葉杖を手に取ると、注意して両脚をベッドから床へと降ろす。大丈夫。歩ける。
-恵一さん。
さくらさんの呼び声は続いている。どこから……どこから聞こえてくるんだ? 床に突いた松葉杖に体を引き付けるようにして、一歩一歩、前へ歩む。むき出しの足の裏から、冷たさが這い上って来るが、気にしている場合じゃない。
開け放たれた扉から、廊下へ出る。中庭が臨める窓に向かい、耳を澄ませる。
-恵一。
確かに……聞こえる。さくらさんの声。上だ。上の方から聞こえてくるように感じる。
行かないと。
「10がつ3 0にち さくらさんを いえにまね くふた りでなべをかこ んでよどおしい ろんなことをはなし あった」
廊下を、必死こいて体を引きずるようにして歩く俺の姿を、すれ違う患者たちが奇異の目で見やる。どいてくれ。上に行かないといけないんだ。そんな俺の耳の奥に、キュルキュルと巻き戻しの音が響く。これは……そうだ、
「恵一は、一億円あったら、何がしたい?」
記憶だ。記憶が再生され始める。俺が住んでいた狭い下宿の光景も、浮かび上がってきていた。目の前にいるさくらさんは、大分飲んでいるな? 目の下が赤い。そして唐突な質問。
【……宇宙旅行】
ぼそり、と俺が答える声。夢があるような無いような、よく分からない答えだ。懐かしい記憶だ。今までしまい込まれていた、それが鮮明に。
俺の体には、何故か肩までもぐり込んだ、こたつのぬくもりまで感じられているかのようで。
「うーん、何か、夢がありそうな、おざなりっぽいっていうか……」
ごもっともで。そんなことよりも、この若者のぱんぱんにはち切れそうな理性に気づいた方がいいのでは。
「……私は、海沿いに、白い壁の小さなお家を建てて、そこで恵一と、子供たちと暮らしたいなあ。あ、それと大きな犬を飼いたい。波打ち際をみんなでお散歩。いいでしょ?」
いいよ。いいに決まっている。一緒に……みんなで。
視界がぼやけてくるが、幸い、ここの作りは頭に入っている。エレベーターホールまでは労せずたどり着いた。上を示すボタンに触れて、到着を待つ。
-恵一。
俺を呼ぶ声は、まだ響いて来ている。記憶を取り戻し、正常に動き始めたと思えたこの俺の頭は、どこかがいい感じに狂ってしまったのかも知れないが、それはそれでいい。
会いたい。さくらさんに。
空に近づけば、君に会えるのだろうか。