#53:再開する/させる
目覚めた。のは、白い色に包まれたかのような、八畳くらいの部屋だった。白いベッドに横たわっている。壁も天井も白い。床は、やや赤みを帯びたベージュ色、だろうか。
-こんにちは。
「……」
-気分はいかがですか。
「……」
声が聴こえる。軽く左右に目だけを動かして確認する。しんとした、完全な静寂ではないが、静謐な感じがこの空間には満たされているように感じた。その中を、ふわりとした感じで、声が漂うかのようにこちらに届いて来る。
-思い出せましたか。
降りかかってくるかのような声。それは、やわらかな女性のものだ。周りには消毒薬だろうか? それ系の薬品っぽい匂いが漂っている。
-あなたは長い間、眠りつづけていました。
目の前、頭上の白いスピーカーから放たれている「声」はそう続ける。どこか懐かしい、そしてどこか愛おしい、その声。
そうなんだろう、きっと。
ずっと眠り続けていた。思考の奥底で。胎児のように、浮力を感じながら。自分を世界に繋ぎ留めているはずの、諸々の事象すべてから、目を逸らして。手を、離して。
-目覚めたのなら、改めて、はじめまして、ですかね?
「声」が笑みを含んだ、どこか悪戯っぽい感じで、そう問いかけてくる。
「はじめまして」か。正しくはないな。以前にも会っている。
「……ありがとう」
言葉は、それしか出なかった。それしか、言葉に出来そうになかった。スピーカーから流れてくる声は、それきり途絶えてしまった。いや、断続的に途切れる呼吸音だけが、この静かな空間に響いてくる。泣いている? 泣かせてしまったのか?
-本当に、大丈夫かい? 『柏木恵一』ぃ?
と、いきなり頭の中に響いて来る、心地悪い声……シンヤか。お前には、いやな役を押し付けてしまった。すまなかった。
-僕はあなたを信じます。さくらさんも、そう思っているはず。
そして、キミにはいちばん苦労をかけた。たどり着けないと、そう思っていたんだけどな。いやそうか? キミにこそ、たどり着いて欲しかったのかも知れない。その辺はもう、分からない。分からないが、そこはもう、どうでもいいか。
ありがとう。と、今度は自分の中に向けて、そう頭に響くように呟いてみる。
一度は死にかけた。体も、心も。
だが、今も息をしている。呼吸を意識してみると、逆に息苦しさを感じたりして、ああ、これが生命か、命の営みなのか、などと、達観したかのような、妙にくすぐったい思いしか出て来ないが。
記憶は全て戻って来ていた。心の闇の奥底に、沈めておきたかったものも全部。
だが、それが自分というものなんだろう。何かが欠けても「柏木恵一」には、ならないのだろう。
だから全てを背負う。一人では背負いきれないほどに重く、鋭利で、やけどしそうなほど冷たい塊だとしても。
もう独りではないから。二人も友人が出来たじゃないか。得がたい親友……そして人生に、再び共に立ち向かってくれる、戦友。
シンヤ……過去の充実していた自分。
そして「彼」……若き日の自分。遠い記憶の中で、「彼」は確かに輝いていた。
さくらさんの側で。さくらさんと共に。
彼女にもう会えない事は分かっていた。だから、必死で考えまいとしていた。それごと切り捨てようとして、あがきにあがいていた。
だがどうやらそれは間違いだったようだ。会えない事はなかったじゃないか。会える。心を通して、いつだって君には、会いに行ける。
君が好きだった花の香りを共有して、いつだって会いに行く。
-柏木さん。柏木恵一さん。
落ち着いたやわらかな声が、再び部屋に舞い落ちてくる。どこか楽しそうに、歌うかのように。俺は何だか、その優しく呼ぶ声に包まれていくかのような、心地よい浮遊感をこの身体に感じている。
俺を呼ぶ声。俺をこの世界に再び呼び戻したその声。
そう、俺の名前は、柏木恵一。
25年前、最愛の妻を事故で喪った、哀れな五十男だ。