#44:俯瞰する
10月14日。昼食をあらかた残してしまった僕は、看護師の小串さんにお詫びを言いながら、食器を下げてもらった。すでに通常食に移行していた僕だったが、今日に限っては、食べたものの味とか……においとか、感触は、ほとんど感じることが出来なかったわけで。
……最後の晩餐かも知れないのに。
食事を取っていた小机から、車椅子を後退させつつ離れ、窓際へとゆっくりと車輪を転がしていく。日中は開け放している窓からは、ここ最近はずっと心地の良い、涼やかな風が吹き込んで来ているものの。
僕の心中は、張り巡らされたアメーバのような物が、ずっと思考の流れを堰き止めようとするがごとく巣くっていて、そしてそれが日増しに増殖してきているかのようだった。
揺れ動き、うねっては散ってを繰り返す、行き場の無い思考の渦。
さくらさんへの想いが、ふとすると急激に憎しみへと反転してしまうような、そんな心の動きを、僕は何とか舵を取って、抑え込んでおかなければならなかった。
でも、そんな横隔膜の辺りがじわじわと、熱なんだか、疼きなんだかに襲われる感覚も、今日で終わりだ。
いや、「感覚」それ自体、「僕」が知覚することもなくなるのだろう。
全ては無に帰す。そんな風に表現してみると、大仰で、カッコ良さすら感じさせてくれるけど、そのくらいの現実感の無さがあった方が、今の僕には有り難いくらいだ。現実からなるべく遠ざかりたい、そんな思いが押し寄せてきているから。
……風の匂いを感じている。マスクもノーズクリップも、もう着けていない僕の顔を、秋風がさわりと撫でていく。この感覚とも、今日でお別れかと思うと、今まで考えもしなかった、「世界」というものに、何とは無しに思いを馳せたりもしたり。
世界。そこにいる自分。自分とつながる世界。自分以外の、それ以外の全てのもの。
それだから、こんなにも世界に惹かれるのだろうか。窓から見える全てのものが、今は美しく色鮮やかに見える。
そして僕の手の中の「これ」も、愛おしく思えるんだ。「予言3」の書かれたメモ用紙、一度はくしゃくしゃに握りつぶし、部屋の隅に投げつけたそれを、また拾い上げて、丁寧に広げて皺を伸ばし、僕はずっと、右手の掌に貼り付けるようにして、しまい込んでいた。
<10がつ14 か さく らさんと うみまでド ライブわ りとあたた かくてなみう ちぎわで ゆうひをずっとな がめていた そのあとのこ>
「そのあとのこ」。……「その後の事は分からない」。「その後、残るものは『僕』では無い」。
江の島を臨む海岸で、沈む夕日を眺めた時、「柏木恵一」の記憶は甦る。
そのことが何となく僕には分かってきていた。「僕」の奥で、胎児のように体を丸めている本当の「柏木恵一」が、目覚めたがっているのを感じているから。
「僕」を「予言」によって導き、そして、最終的な記憶覚醒の場へと誘っていったのは、他でもない自分自身、「柏木恵一」だった。
いや、記憶の覚醒ではなく、「柏木恵一」が「柏木恵一」として再び歩き出す、そのきっかけのための儀式のようなものなのかも知れないけど。
「彼」はおそらく、家族を巻き添えにしてしまった罪悪感により、一度は閉ざした意識を、自らの意志によって再び取り戻そうとしている。その場所を、さくらさんとの思い出が深い江の島に選んだ。後押ししてもらいたいんだろう、さくらさんに。その気持ちは「僕」にだってよく分かる。そして、
そのことが分かったから、僕はそれに従って行動することに決めた。
僕が行った、さくらさんとの「追体験」……それが、「彼」の意思に、何らかの前向きな気持ちを与えたのなら、それでいいじゃないか。僕の役目は果たしたはず。だから、かりそめの僕が消えれば、それでいい。万事収まるわけで。
無から来て、無に戻るだけだ。普通の人間と、普通の生命と同じじゃあないか。恐れることは無い。それにこれは「死」ではない。
……「僕」が僕に戻るだけの話だ。