#04:記述する
成宮氏に捧ぐ
意識が戻ってきた。
久しぶりに「起きた」という感触がある。白い天井をぼんやりと眺め、ここが昨日の病院であることも認識する。暑くも寒くも無い空調が、ゆるやかな風で仰臥した僕の体を撫でている。
ベッドに寝かせられた状態で動くのは、首と左腕だけのようだ。起き上がろうとしてみたがだめだった。痛みは感じないものの、体の感覚がぼんやりとしていて頭の指示が体に行っていない。いつの間にだろうか、右腕には点滴の針がつけられていた。
それにしても……それにしてもだ。僕は取り返しのつかないことを……してしまった。
その自覚がないことが、輪をかけて罪悪感を大きくしている。大きくしているが、その実体が薄ぼんやりとしていて、悲しみ方をどうしていいかが判らない。
考えることも行き着くところがないだけに、なぜ考えるかという考えに捕らわれてしまい……要するに僕の頭は支離滅裂な状態になっていた。
「……」
日がな一日、特にすることもなく、ぼんやりとひとりの病室で車椅子に座っている。
本を読もうとか、テレビを見ようとか、やってみようとしたけど駄目だった。せいぜいが5階くらいの高さの風景を、開かれた窓から眺めているにとどまっている。
蝉の声、車の走る音。聴こえる音は、何故かぼんやりとしてはっきりとしない。耳というか、頭全体にすっぽりと袋でも被せられているような感覚だ。
たまに看護師の人が部屋に入ってきて点滴を代えたり、体を拭いてくれたり、下の世話をしてくれたりするくらいで、そこにも大した会話は無い。
体を休ませることが今の僕に出来るただ一つの事だが、そもそもそれ以外の事には頭も回らないし、やろうという意欲も起きてこないのが現状だった。
-今日のお加減はいかがですか?
そして結局のところ、僕は機械越しで行われる、さくらさんとのこの会話に一日の全ての意義を感じるようになっている。
「……気持ちは何というか落ち着いたというか……よく分からないです。頭の中がぐずぐずの状態というか」
-焦らないでくださいね。まずは身体の回復。何も考えられないのなら、考えなくていいんです。
さくらさんは親しみを込めた口調でそう言ってくれる。
精神科医の卵だと言っていたような気がするが、僕はこの人と何気ない言葉を交わしているだけで、頭だか心だかわからないが、自分の中にある空隙が少しづつ満たされていくのを感じているわけで。
そういったケアの手法なのか、さくらさんの人柄が為せるわざなのか、それはわからないけど。でもそれはそれでどっちでもいいことだった。
僕は少し救われている、とそう思ってみる。救われたいのか? と言われたら、それはそれすら分からない、としか言いようはないのだけれど。
奇妙なことがあった。
目覚めてから7日後のことだ。9月21日。その日から僕は、車椅子に乗ったままであれば、病院内の中庭に出ることが許されるようになっていた。
流石に一日中ずっと病室というのもしんどくなってきていた僕は、有難くそれを享受することに。
看護師さんに押されながら中庭に出る。残暑はしぶとく居座り続けているようだ。昼下がりの陽光はまだ充分な熱を孕んで、僕の手の甲を刺激してくる。
そんな中、ふっ、と風に乗って運ばれてきたかすかなキンモクセイの花の香りを感じ、久方ぶりの自然を、季節を感じさせる感覚を、思い切り堪能しようと大きく息を吸い込んだ。
その瞬間だった。
「!!」
耳の奥で音声を逆回転させたような、キュルキュルと耳障りな音がしたと思った。そしてそこで僕の意識は一瞬、途絶えたようだ。後から改めて考えると、だけど。
…………
「柏木さんっ」
ここはどこだろう? 目の前にいる女性は……?
何か背景がぼんやりとしていて……焦点が定まらない感じだ。夢の中のような……いや、それにしては五感に訴えかけてくるリアル感があるような……
僕のことを笑顔で見つめる女性は、長い黒髪を後ろで軽くまとめた二十代と思しき若い人だ。
眉がくっきりとしていて、目は少し垂れ、鼻筋は通り、口は大きめだけどこぼれる歯並びはとても綺麗で……いや、はっきり言って僕の好みのタイプをそのまま具現化したような……そんな外見だった。
やっぱりこれは夢か。願望が出てきちゃってるんだよね……そこまで考えた瞬間、またしてもキュルキュル音が鳴り、目の前が真っ暗になる。
…………
「……」
気がつくと僕はまた自分の病室のベッドの上に横たわっていた。
ほらやっぱり夢だったんだ、と妙に納得したのも束の間、僕は自分の左手がぷるぷると小刻みに震えているのを感じた。何だ?
よくよく見ると、ただ震えているわけじゃなかった。左手はペンか箸を持つときの形をしていて、何かを書き記そうというような意思ある動きだ。
何だ何だ? 僕は憑かれるようにして、その左手で枕元の小物入れを探る。
あった。メモパッドに、プラス付随した小さな金属製のペン。
僕はもどかしくそのペンを引き抜くと、左手の欲求に任せるまま、その白い真四角の空白に書き殴っていった。左手が自然に動く。
ちなみに僕は右利きだ。左手で物を書いたことなんてほぼほぼ無いけど、僕の意識とは無関係にすらすらと何か文字を書き連ねていっている。奇妙な感じだが、それをやめようとは何故か思わなかった。
頭……記憶とか思考がままなってない今、体からのメッセージを無視するわけにはいかないというか……
ともかく、不安定な現況にあって何かにすがりたかったのかも知れない。
そんな覚束ない思考をしていると、左手の動きは、はたと止まる。
僕は今度こそ自分の意思で左手を動かすと、メモパッドを自分の目の前に掲げた。そこには、
<9が つ22にち はじめてさ くらさ んとあうぼ くにとっ てのはつ デート かなりき んちょうしたさく らさんはむ らかみは るきがすき だそう でぼくとおな じだう れしかった>
平仮名メインの、のたくった文字が。読みにくいことこの上ないが、その内容を辿っていく内に、僕は重大な事に気付いた。
この日記みたいな雑文……その日付が明日であるということに。