別れ
「アルベリヒさん。お話があります」
書斎に押しかけたわたしは、アルベリヒさんに切り出す。
「……なんだ?」
相変わらず読んでいる本から目を上げないままだ。それでもわたしは続ける。
「お暇を頂きたいんです。できればすぐにでも」
その言葉にアルベリヒさんが驚いたように顔を上げる。
「急な事で申し訳ないと思ってます。でも、わたし、もう辛いんです。ここで暮らしてゆくことが。また昨日みたいに滅茶苦茶な事を口走ってしまいそうで。だから、お願いします」
わたしの心はもう限界に近づいていた。アルベリヒさんの近くにいるから余計に辛い。
どこか遠くで暮らせば、この想いもいつかきっといい思い出だったと感じられるようになるかもしれない。エルザの言っていた通りに。
だから決めたのだ。アルベリヒさんの元を離れようと。できるだけ早いほうがいい。
アルベリヒさんは長い事言葉を発しなかった。じっとわたしを見ている。
その黒い瞳に見つめられるとなんだか吸い込まれそうな不思議な感覚に陥る、
そういえば久しぶりにアルベリヒさんの顔をまともに見たような気がする。わたしの大好きな人。この顔を見るのもきっと今が最後なのだろう。そんな予感がした。
「……ここを出て、行くあてはあるのか?」
「とりあえず故郷に帰ろうと思ってます。父と母のお墓もあるので」
「そうか……わかった。好きにしろ」
先ほどまでと同じように、アルベリヒさんは本に目を落とす。話は終わりだと言うように。
思っていたよりあっけなかった。引き止められることもなく、わたしの願いはあっさりと受理された。
◆ ◆ ◆ ◆
「ごめんねエルザ。狭いけど我慢してね」
謝りながらエルザをトランクの中に寝かせる。周りにはなるべく柔らかそうな衣服を詰めて。
もともと多くない荷物はトランクひとつに収まった。エルザとロロを連れて、今日わたしはこのお屋敷を出て行くのだ。
わたしは部屋の中を見回す。
いつか夜にムカデが出て、アルベリヒさんの部屋に押しかけたことがあったっけ。今思えば随分とはしたない事をしたものだ。
どの思い出もアルベリヒさんに繋がっていることに気づいて、わたしは知らずと溜息を漏らしていた。
アルベリヒさんはいまだ書斎にいた。いつもと同じように。まるで今までもこれからも何も変わらないかのように。
わたしは部屋の中ほどに進み出ると机の前に立つ。
「アルベリヒさん、今までお世話になりました」
するとアルベリヒさんが机越しに手を伸ばしてきた。
「手を出せ。餞別だ。」
言われた通りに手を出すと、なにか小さくて硬いものがそこに乗せられる。
見ると、ひとつの銀色の鍵がそこにあった。
「お前の住んでた家の鍵だ」
「え?」
「もともとあの街に行ったのは、別邸に都合良さそうな家を探すためだった。だからちょうど住人のいなくなるっていうお前の家を買い取っておいた。内装はそのままになっているはずだ。住むなり売るなり好きにしたら良い」
「そんな……」
思わず言葉を失ってしまう。
まさかまだあの家が当時のままで残っているなんて思ってもみなかった。両親との思い出が詰まったあの家が。
この鍵は、わたしには過ぎた代物だ。どう考えてもそれに見合う仕事をした覚えは無い。けれどそれを手放すこともどうしてもできなかった。
わたしは鍵をぎゅっと握りしめる。
「アルベリヒさん、今までありがとうございました。わたし、アルベリヒさんと一緒にいる間、本当に幸せでした。どうかお元気で」
震える声で告げてお辞儀をする。
「……お前も身体に気をつけろよ」
そういえば、前に風邪を引いた時、アルベリヒさんが看病してくれたんだった。あの林檎のシャーベットおいしかったな……でも、もう食べられないんだ。
また彼との思い出が蘇り、わたしは思わず泣きそうになってしまい、逃げるように書斎を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
トランクを手に重い足取りでお屋敷を出る。
お庭で一緒にお茶を飲みたかったな。一緒にスケートしたかったな。それももう叶わないんだ。
街の停留所で片手にロロを抱いて乗り合い馬車に乗り込むと、硬い椅子に腰掛ける。窓際の席は外の景色がよく見える。
この王都の景色を見るのも今日が最後なのかな。そう思うと少し寂しい。
乗客を乗せ終えた馬車はやがてゆっくりと動き出す。
窓からは見慣れた景色が流れてゆく。
故郷に帰ったらどうしよう。そこでもうせもの探しの仕事を続けようか。それともニールさんにどこか働き口を紹介してもらえるかな。
でも、しばらくは何もせずにのんびり過ごすのも良いかもしれない。住む家はあるし、ロロとエルザとも一緒にいられる。またみんなで一緒にお茶を飲もう。その時はアップルパイを焼いて……。
そこで気付いた。アップルパイなんて、アルベリヒさんの好物じゃないか。わたしはここを離れる今になっても、まだあの人の事を考えているんだ。
あーもうわたしの馬鹿。窓からの景色もあの人との思い出を引き出すために拍車をかけているような気がする。
はあ、もう目的地まで寝ちゃおうかな……見慣れた景色も思い出も忘れて、楽しい夢でも見れたらいいな。
そんな事を思いながら目を閉じようとした時、膝の上で丸まっていたロロが身体を起こして鳴き声を上げた。一度だけじゃなく、何度も。何かを見つけたように立ち上がり、外を覗くように前足を窓際にひっかける。
「どうしたのロロ。駄目だよ。お願い。静かにして」
他の乗客の目を気にしてロロを小声で叱るが、それでもロロは鳴きやまない。
ど、どうしよう。このままじゃ迷惑だとか言われて馬車を降ろされちゃうかも……。
おろおろしながらも、ロロの視線の先に何があるのか確かめようとすると、一瞬何かの影が顔に落ちたような気がした。何かが馬車の上をかすめて陽の光を遮ったのだ。
なんだろう? 高い建物の横でも通ったのかな。
その時、馬車ががたんと音を立てて激しく揺れた。乗客が口々に悲鳴や驚いたような声を上げる。何かに乗り上げたんだろうか?
けれど、馬車は一向に動き出す気配がない。今の衝撃でどこか故障でもしたとか? 他の乗客も怪訝そうにあたりを見回したりしている。窓から前方を覗き込むと、馬車の様子を確認するためか、御者台から男性が降りてきた。
「なんだこりゃ!?」
男性は馬車を見るなり驚いたような声を上げる。
「こりゃ一体どういうわけだ? 車輪が凍りついてる」
「え……?」
凍っている。
その言葉を聞いて、最初に思いついたのは魔法の存在。
わたしは今までもアルベリヒさんが魔法で氷を出したり、池を凍らせたりするところを見てきた。まさかこの馬車も……? でも、そんな事あるわけ……。
その時、出入り口のステップを勢いよく踏む音が響いた。直後に馬車の中に誰かが乗り込んできた。
真っ黒いシルエット。いつも見ていたそれを忘れるはずもない。
「コーデリア!」
アルベリヒさんがそこに立っていた。走ってきたのか肩で息をしている。
やっぱり馬車はアルベリヒさんが魔法で凍らせたのだ。でも、どうして? わたしがここにいるって事がわかっていたみたいに。
そこではっとして耳元に手をやる。そこにはアルベリヒさんに貰ったイヤリング。
そうだ。このイヤリングには魔法が掛けられていて、わたしの居場所がわかるって言ってたっけ。それじゃあ、さっき頭上を横切ったあの影は、もしかしてディディモス……? ロロはそれを知らせてくれていた?
でも、そこまでして、わたしに何の用があるというんだろう。
戸惑っていると、アルベリヒさんがわたしの元へ歩み寄ると、腕を掴む。
「コーデリア。もう一度俺のところに戻ってきてくれないか?」
「え? ど、どうして……?」
「訳は後で話す。頼む。戻ってきてくれ」
その真剣な様子に圧倒されて、いや、本当はかすかな期待もあったのだろう。わたしは反射的に頷いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
凍っていた馬車はすぐに魔法で元に戻して、御者の男性や他の乗客に謝り倒してなんとかその場を凌ぐことができた。
お屋敷へと戻ったわたし達は、居間のソファに並んで腰掛けていた。
ここに来るまでアルベリヒさんは何も話してくれなかった。ただ、わたしの腕を掴んだまま、ここへと連れてきたのだ。
アルベリヒさんの目的はまだわからない。わたしが辞めると伝えたときにもそっけない態度を取っていながら、今になって戻ってきて欲しい理由とは一体なんなんだろう?
「訳は後で話す」と言ったアルベリヒさんの言葉を信じて、わたしは待ち続けた。
どれくらい経ったか、やがてアルベリヒさんが静かに口を開いた。
「強引な事をしてすまない。でも俺は、お前に行って欲しくなかったんだ」
「それって、わたしがいなくなったら家事をする人がいなくなるから?」
思わずそんな嫌味な言葉が口から漏れてしまう。だって、今までそっけない態度を取られ続けて、別れを告げた時だって、まったく引き止める素振りも見せなかったのに。
「それは違う。そんな事思っていない」
「でも、アルベリヒさん、わたしと全然顔をあわせてくれなくなったし、買い物に行くときも一緒についてきてくれなくなったし……わたしの事なんてどうでもいいんだと思ってました」
「外出する時にはお前ひとりで行かせていたわけじゃない。ディディモスについて行って貰っていた」
「え?」
その言葉に、わたしは魔法協会での事を思い出した。あの時はわたしのせいでディディモスが建物の中に入ってこられないんだと思っていたけれど……でも、あれはアルベリヒさんが指示した事だった……? あの時ディディモスは魔法協会に用事があったわけじゃなくて、中にいたわたしを見ていた?
「それじゃあ、わたしの事が鬱陶しかったわけじゃなかったんですか……? あんな態度を取られて、わたしはてっきり……それに今になって行って欲しくないだなんて……わけがわかりません」
問うと、アルベリヒさんは目を伏せる。
「……それが、厄介な事に、俺自身、今の自分の気持ちが上手く説明できないんだ……きっと俺が不完全な人間だからなんだろう」
「……どういう意味ですか?」
アルベリヒさん自身も戸惑っているようだ。わたしの問いに視線を逸らすと、ぽつりと話し出す。
「俺は、親に捨てられたんだ」




