決意
わたしは書斎のドアの前で何度か深呼吸を繰り返す。
今日こそはうまくいきますように。
願いながらドアをノックしておそるおそる入室する。
「あ、あの、アルベリヒさん? わたし、今から買い物に行こうと思うんですが……」
「……そうか、気をつけろよ」
読んでいた本から視線を外さないまま、アルベリヒさんは素っ気なく答える。
「……はい」
肩を落としながらドアを閉めようとするわたしの背中に、アルベリヒさんの声が追いかけてきた。
「夕食はいらない。俺は外で済ませるから」
「……わかりました」
書斎から出たわたしは深い溜息をつく。
今日もうまくいかなかった……。
わたしが自分の想いを告げたあの日から、アルベリヒさんの態度が素っ気なくなってしまった。顔を合わせても必要最低限な事以外口をきいてくれない。ディディモスと一緒にほとんど書斎に篭ったまま。食事もそこへわたしが運んだものをひとりで食べている。
それに、買い物についてきてくれなくなった。そして、夕食を家で食べなくなってしまった。
もう、わたしの事なんてどうなってもいいって思ってるのかな……攫われようが、髪の毛を切られようが構わないのかもしれない。
だって、買い物についてきてくれないって事はそういう事じゃないの?
苦しい。好きな人のそばにいるはずなのにこんなに苦しいなんて。
この間までは幸せだったのに。こんな事になるなら、告白なんてしなければよかった。
つい溢れそうになる涙を指で拭いながら、わたしはとぼとぼと家を出た。
◆ ◆ ◆ ◆
「エルミーナさん助けてください! 記憶を消すか、時間を戻すことのできる魔法使いを紹介してください!」
「コーデリアさん? 唐突にどうしたんですか?」
受付に詰め寄るわたしにも動揺することなく、エルミーナさんがいつもの微笑で応じる。
「実は、なんていうかその、アルベリヒさんに対して大失敗を犯してしまいまして……それはもう、顔を合わせるのも気まずいほどに。だから、その出来事を無かったことにしたいんです……」
「まあ、一体なにをやらかしたんです?」
「そ、それは、ちょっとその、酷すぎて言えませんけど……とにかく深刻なんです!」
日々の仕打ちに耐えられず、わたしはいっそのことあの告白自体を無かったことにできないかと、こうして魔法協会に助けを求めにきたのだ。
あの日の出来事をアルベリヒさんの記憶から消す。もしくはあの告白の前まで時間を巻き戻す。そんな魔法があればいいと思って。
わたしの詳細を省きまくった説明を聞いたエルミーナさんは、暫し思案する様子を見せる。
「うーん、残念だけど、少なくともこちらで把握している限りでは、そういう魔法を使える人はいませんね……以前は人間の記憶に関する魔法が使える魔法使いがいたそうですけど。例えば、何かの事件に巻き込まれて、そのことが心の傷になって苦しんでいる人から辛い記憶だけを消したりだとかね」
「いたことはいたんですね……あ、それじゃあ、その方のご家族がその魔法について何か知っていたりとかは……?」
「どうかしら。難しいかもしれませんね。実は、その方のご家族っていうのはアルベリヒさんなの」
「え?」
どういうことかと身を乗り出すと、エルミーナさんはわたしに説明する。
「アルベリヒさんのお父様って、いろいろと凄い魔法が使えた『大魔法使い』って呼ばれてた方だったとか。残念ながらご本人はもう亡くなってしまわれたけれど。でも、アルベリヒさんが同じ魔法を使えるとは聞いたことがないし、望みは薄いんじゃないかしら……」
へえ……そのお父さんって、アルベリヒさんが以前言ってた魔法の師匠だったっていう義理の父親の事なのかな……そんなにすごい人だったんだ。
「でも、今のコーデリアさんのお話で納得がいきました。最近アルベリヒさんにやたらと食事やお酒に誘われるんですよねえ。思えばそれが原因だったのかも。あ、そうだ。今度アルベリヒさんと顔を合わせるような事があれば、わたしの方からそれとなく言っておきましょうか? あんまりコーデリアさんを責めないでって」
「い、いえ、大丈夫です! そこまでして頂くわけには……」
責められるとか、そういう方向性の話ではないのだ。それに、それをきっかけにエルミーナさんに真相が漏れたりなんかしたら恥ずかしくて生きていけない……!
そこでふと気になる事があり、わたしはおずおずとエルミーナさんに尋ねる。
「……そういえば、エルミーナさんてアルベリヒさんと仲が良いんですか?」
「あら、気になります?」
エルミーナさんが思わせぶりな笑みを浮かべるので、わたしはなんとなく目を逸らす。
「い、いえ、ほら、前にも、賭けに負けた方が一杯奢るだとか言ってたから、どうなのかなーと……」
「心配しなくても大丈夫ですよ。私はアルベリヒさんにとって虫除けみたいなものですから」
「虫除け?」
「ほら、アルベリヒさんて外見は良いでしょうでしょう? よく女の人から声をかけられるんですよ。中にはしつこく絡んでくる人もいて。でもあの人、そういうの苦手みたいで。だから私という同伴者がいれば、そういう煩わしさから逃れられるってわけなんです」
そうなのか。だからアンジェリカさんに迫られた時も強く拒絶する事なく逃げ腰だったんだろうか。
あれ? でも、そうだとしたら、わたしのした事ってとんでもない悪手だったのでは……?
だって女の人から好意的な声をかけられることも苦手だというのなら、告白なんてされた日には拒絶してしまっても当然なのでは……?
でも、そんなに女の人が苦手な理由ってなんだろう……?
「もしかして、アルベリヒさんて女の人が嫌いだったりするんでしょうか? 男の人のほうが好きとか……」
「え? うそ、アルベリヒさんってそっち方面の人だったんですか?」
エルミーナさんは何故か興味津々と言った様子で目を輝かせた。
「い、いえ。それはわからないですけど……」
わたしは慌てて胸の前で両手を振る。なんだかこの話をこれ以上掘り下げてはいけないような気がする。
そう思って咄嗟に話題を変えた。
「ええと、エルミーナさんは、自分がそんなふうに虫除け代わりにされてるって知りながら、それでもアルベリヒさんに付き合ってるんですか?」
「ええ。お酒は好きだし。それにアルベリヒさんが相手だと安心して飲めるんです。なんだか弟みたいで。私、五歳以上年下の男性には異性として興味がないので」
「え……? あの、失礼ですけど、エルミーナさんておいくつ……」
「はい?」
「だからその、年齢……」
「はい?」
心なしかエルミーナさんの目だけが笑っていないような気がする。
この話題も触れてはいけなかったようだ。わたしの本能が警鐘を鳴らす。
「いえ、なんでもないです……」
ある種異様な迫力に気圧されて、わたしは大人しく引き下がった。
エルミーナさんて何歳なんだろう。アルベリヒさんとそんなに変わらないように見えるのに……。
もしやこれが噂に聞く女体の神秘というやつなんだろうか。
しかし魔法協会でもどうにもならないというのなら、一体どうすれば……。
そこまで考えて、大切な事を忘れていると気付いた。
「エルミーナさん。それなら、フユトさんの家を教えてもらえませんか? アルベリヒさんの弟のフユト・ハーデンスさんのお宅を」
そうだ。フユトさんに相談すればいいじゃないか。あの人はわたしの気持ちを知っているわけだし、それにアルベリヒさんの弟だ。こんな時どうしたらいいのか適切な助言をしてくれるかもしれない。
それと、アルベリヒさんが男の人に興味あるのかどうかもついでに……。
期待を込めて尋ねたのだったが、分厚い帳面をめくっていたエルミーナさんは首を傾げる。
「その方はうちには登録されていないみたいですね」
「え? でも、本人は魔法使いのはず……」
まさかとは思うけど、フユトさんってこの世に実在しない人とかじゃないよね……? あの二階の奥の部屋にいるっていう「嘆きの迷い子」みたいな存在だったりとか……?
おののくわたしに、エルミーナさんは涼しい顔で告げる。
「たぶん、王都の人じゃないんでしょう。確かに王都に住んでいる魔法使いは協会に登録する義務はありますけど、それ以外の方は除外されていますから」
「あ、なるほど」
そういう事か。そうだよね。フユトさんの家は知らないけど、王都の外にあるというなら納得だ。
一瞬フユトさんが幽霊かも……だなんて馬鹿みたいな事を考えてしまった。口に出さなくて良かった……。
それにしても最後の希望かと思われたフユトさんの所在もわからないとなると、もう手の尽くしようがない。
うう……これからも毎日あんな気まずい思いをするなんて嫌だ……。
「エルミーナ!」
その時、アイシャさんがわたしたちの元へと駆け寄ってきた。
「さっきから外に使い魔がいるんだけど、全然建物の中に入って来ないの。用事があるんじゃないのかな?」
言いながら窓の外を指差す。
つられてその先に目をやると、外に生えている木の枝に一羽の白いふくろうがとまっていた。じっとこちらを見ている。
首には見覚えのある黒いスカーフ。間違いない。ディディモスだ。
「あの使い魔って確かアルベリヒさんの……どうかしたのかしら?」
エルミーナさんも気づいたようで首を傾げている。
そこでわたしははっとした。
まさか、わたしがいるから入ってこられないとか……?
確かに最近はアルベリヒさんが全て世話をしているし、全然接する機会がなかった。主人とわたしとの間に漂うよそよそしい空気を読み取ったのだろうか。
わたし、ついにディディモスにも嫌われちゃったのかな……。
「あの、わたしはそろそろ帰りますね。買い物の途中だし。エルミーナさん、無茶な相談に付き合ってくれてありがとうございました。それじゃあ、失礼します」
立ち往生しているディディモスに申し訳なくて、慌てて魔法協会の建物を出た。
◆ ◆ ◆ ◆
その日の夜、わたしは居間でロロと一緒にアルベリヒさんの帰りを待っていた。いつものように外で食事をしてくるといって出ていったまま、随分と遅い時間まで戻ってこない。
アルベリヒさんからは「先に休んでいていい」とは言われたのだが、やっぱり少しだけでも顔が見たい。昼間は殆ど顔を合わせる機会が無いのだからなおさら。
そう思って夜遅くまで頑張っていたのだが……。
猫の鳴く声にわたしは目をあけた。
ロロが鳴いている。甘えるような声で。
「おい、静かにしろ。頼むから……コーデリアが起きるだろ」
今度はアルベリヒさんの声だ。いつの間に帰ってきたんだろう。
そう思ったところで、わたしは自分がテーブルに突っ伏していることに気付いた。どうやらいつのまにか眠ってしまっていたみたいだ。
寝起きのぼんやりとした頭で身体を起こすと、肩にブランケットが掛けられているのに気付いた。
アルベリヒさんが掛けてくれたらしい。というか、それ以外考えられないじゃないか。
「……アルベリヒさん、おかえりなさい」
アルベリヒさんはわたしが目を覚ましたことに少し慌てたみたいだ。
「あ、ああ」
それだけ言うと部屋から出て行こうとする。
わたしはブランケットを手に取る。どうしてこんな事してくれたんだろう。わたしの事がどうでもいいなら、そのまま放っておいてくれればいいのに。ただの優しさ? だとしてもそれが今のわたしにとっては何よりもつらい。
「待ってください」
わたしはアルベリヒさんの背中に向けて声を上げる。
「アルベリヒさんにとってわたしって何なんですか?」
怪訝な顔で振り返るアルベリヒさんにわたしは続ける。
「一緒に食事をとったりお茶を飲んだり、欲しかったイヤリングをくれたり、悪い人たちに攫われたのを助けてくれたり、お祭りに連れて行ってくれたり。このブランケットだって。いざという時は優しくて、助けてくれて、気にかけてくれて。そんなの、好きにならないわけないじゃないですか」
言いながら自分の声が震えてくるのがわかる。
「それなのに今はろくに顔もあわせてくれない。わたしって何なんですか? 魔法の使える使用人? それなら最初から使用人らしく扱ってくれれば良かったのに! そうしたら、きっとアルベリヒさんの事を雇用主として見ることができたのに! なんで優しくしてくれたんですか!? アルベリヒさんの馬鹿! 馬鹿!」
最後のほうは大きな声を出してしまった。いつの間にか涙が頬を伝っている。
感情が爆発して落ち着きを失ってしまったわたしは、アルベリヒさんの言葉を聞く事もなく、ロロを抱き上げアルベリヒさんの横をすり抜け部屋から飛び出すと、屋根裏部屋を目指して階段を駆け上がった。
自室に戻ったわたしは、ロロを抱きしめながらベッドに突っ伏す。
さっきは感情に任せておかしな事を言ってしまった。失恋したくせに、あんな未練がましい事を。
それに、アルベリヒさんの気持ちがわたしに向いていないのなら、あんな事を言っても鬱陶しいだけだろうに。
うう、つらいよ……悲しいよ……。
「わたしもう、限界かもしれない……」
わたしの呟きは、静かな部屋に妙に響いた。
◆ ◆ ◆ ◆
わたしは白い円卓に座っていた。目の前には幼い女の子が同じように椅子に腰掛けている。
ぱっちりとした瞳に赤いくちびる。背中にかかる栗色の巻き毛。あちこちにレースのあしらわれた豪奢な深緑の服を身に纏った人形のように可憐な少女。
この少女には見覚えがある。
「泣かないでコーデリア。いつかきっとあの男より良い人が見つかるから」
少女はどこか無表情ながらも、わたしを気遣う素振りを見せる。
「そんな事ないよ。アルベリヒさんはとっても優しくて、強くて、かっこいいんだから。それに、一緒にいると幸せな気持ちになれたし……今は、ちょっと微妙だけど」
思わず反論するわたしに、少女は諭すように告げる。
「この世界にはもっと楽しいことがたくさんあるわ。それを知れば、つらい思い出も薄れていくはず。もっといろんな事を経験しましょう。あなたにはまだまだ時間がたくさんあるんだから」
幼いながらも、少女の言葉にはどこか重みを感じる。
そうなのかな。わたしはまだ視野が狭いだけで、世の中のいろんな事を知れば、いつかアルベリヒさんへの想いも忘れることができるのかな?
わたしは何も答えられずにただ俯いていた。
◆ ◆ ◆ ◆
わたしはぼんやりと目を開ける。
隣に顔を向ければ、栗色の髪に深緑のドレスを身に纏ったきれいなビスクドールが横たわっている。
夢の中の少女と同じ。あの少女は、いつか見た人間の姿をしていた頃のエルザだ。
同じような言葉を、失恋したかつての友人であるブリギッテさんにも言っていた。
夢の中でわたしの事を慰めてくれたのかな。
「ありがとうエルザ。心配かけてごめんね」
声をかけると、その瞳が少しだけ柔らかな光を宿したような気がした。
それを見つめながら、わたしの中にはひとつの決意が生まれていた。




