天使のような人
ドアを開けて最初にその姿を見たとき、そこに立っている人物が誰なのか咄嗟にはわからなかった。
「あの、失礼ですが、どちら様でしょう?」
「あら、まさか昨日の事をもう忘れたの? まったく、役に立たないメイドね」
そう言ってその女性は肩に掛かっていた髪を背中へと払う。
その流れるように輝く美しい金髪には見覚えがあった。
「もしかして、アンジェリカさん……?」
目の前のアンジェリカさんは、昨日と比べて随分と印象が変わっていた。隙のない完璧なお化粧を施した綺麗な顔。勝気そうな瞳には強い光を湛え、真っ赤な唇には蠱惑的な笑みが浮かんでいる。胸元が大胆に開いた鮮やかな青いドレスが、彼女の蜂蜜色の髪を引き立てていた。おまけにとってもいい匂いまでする。
その姿にあっけにとられている間に、アンジェリカさんは高いヒールをかつかつと鳴らしながら家の中へと入り込んでしまった。
「アルベリヒ様はどこ? お逢いしたいの。お呼びしてちょうだい」
昨日も思ったけれど、アンジェリカさんは、わたしが魔法を使う前と比べて別人みたいだ。髪の毛とともに、本来の彼女の持っていたであろう自信やプライドまでも取り戻したんだろうか。
ともかく、アルベリヒさんに逢わせるのはまずい気がする。昨日だってあんなに怯えていたのに。
わたしは慌ててアンジェリカさんを遮るように彼女の前に飛び出す。
「お、お引き取り下さい。事前にお約束が無ければお取り次ぎできません」
なんとかそれっぽいことを言って追い返そうとするも、
「この私がわざわざ足を運んであげたのよ? なにも知らないメイドは口出ししないで。とにかくアルベリヒ様だって私を見れば歓迎してくれるわよ」
一体どんな理屈なんだ。そんなふうに考えられるってある意味羨ましい。
しかしそんな事を言われても、これ以上屋敷の中に入れるわけにはいかない。ともかくこの人を早く外に追い出さなければ……!
「だ、だめです。お引取りください……!」
「なによ。逆らうの? メイド風情が!」
暫く廊下で睨み合っていると、背後から足音近づいてきた。
「おい、コーデリア、一体何の騒ぎ……」
「きゃあ、アルベリヒ様ぁ!」
アルベリヒさんの声に素早く反応したアンジェリカさんは、わたしを思い切り突き飛ばすと、身体をくねらせながらアルベリヒさんに駆け寄り、その腕に自身の腕を絡ませる。
な、な、なんて事を! ずるい! わたしだってアルベリヒさんに触りたいのに!
アルベリヒさんは
「ひっ?!」
と引きつったような声を上げて、慌てて後ずさりしようとするも、腕をしっかりと絡ませたアンジェリカさんから逃れられないようだ。
その間にもアンジェリカさんは、アルベリヒさんの腕に頬を埋め、甘えたような声を上げる。
「私、アルベリヒ様にまたお逢いしたくて、こうして来てしまいました……ねえ、楽しくお話するためにも、どこか邪魔の入らない静かなところに行きませんか? 私、アルベリヒ様の事もっと知りたいの。もちろん、アルベリヒ様にもわたしの事を知って頂きたいし」
「い、いや、俺は……」
嫌ならもっと強気で断ればいいのに。と思ったが、アルベリヒさんは引きつった顔で答えるのが精一杯のようだ。
そんなにアンジェリカさんの事苦手なのかな。昨日もひどく怯えていたし。
しかし、目の前でここまでされては、さすがのわたしにもわかる。
アンジェリカさんはアルベリヒさんを誘惑しようとしている。その好意が本物かどうかはわからないが。もしかすると彼女の記憶の中の男性達に対してもこういう事をしてきたのかもしれない。
アルベリヒさん、かっこいいからなあ。狙われるのも仕方ない。
……なんて、そんな事を考えている場合じゃない。このままではアルベリヒさんが危ない。
「や、やめてください!」
わたしは二人の間に強引に割り込むと、アンジェリカさんをどうにか引き剥がす。
「きゃあ! いたぁい! アルベリヒ様、このメイドが乱暴するの。助けて!」
な、なにを言いだすんだ。言い掛かりも甚だしい!
アンジェリカさんは目を釣り上げてわたしを睨む。その迫力に思わず身を縮めそうになるが、勇気を振り絞って両手を広げる。
「ア、アルベリヒさんに近づかないでください」
「どうしてメイドのあなたがアルベリヒ様の事に口を出すの? メイドなら大人しくお掃除でもしていらしたら?」
うう……この人やたらわたしがメイドだってこと突っつくなあ……。そんなに言われると、自分が使用人としての領分を越えて、出過ぎた真似をしているんじゃないかと不安になってくる。
「そ、それは……」
アルベリヒさんの顔をちらりと伺う。
彼はわたしの後ろで身を強張らせて立ち尽くしている。
わたしは咄嗟にアルベリヒさんの腕をとり、身を寄せるとアンジェリカさんに告げる。
「実は、わたしたち、お付き合いしているんです」
「は?」
アルベリヒさんが目を見開いてこちらを見たので、わたしは慌てて彼の手をつねる。
(おねがい。話を合わせて……!)
目配せすると、それが伝わったのか、アルベリヒさんは黙り込んだ。
「うそ! 出鱈目言わないでよ!!」
「出鱈目なんかじゃありません。ね、そうですよね、アルベリヒさん」
わたしの言葉に、アルベリヒさんは何度か瞬きすると、意を決したようにアンジェリカさんに顔を向ける。
「……ええ、彼女の言うとおりです。だからその、他の女性との個人的なお付き合いはできないというか……」
よし、話を合わせてくれた。我が意を得たわたしは恋人設定に信憑性を加えるべく更に口を開く。
「わたしたち、もうすぐ結婚式を挙げる予定なんです。新婚旅行先はまだ未定ですけど、当ても無く旅行するのもいいかなーって。子供はできたら男の子と女の子の両方欲しいですよね。男女の双子も捨てがたいですけど。子供はやっぱりアルベリヒさんに似てる方がかわいいかなあ。でも、少しはわたしの特徴も受け継いで欲しいから、髪の色はわたし似で、顔はアルベリヒさんに似るのが最高だと思うんですよ。あ、名前も考えないといけませんよね。例えば――」
アンジェリカさんは暫くの間目を見開き、口をぽかんと開けてわたしたちを眺めていたが、やがて拳を握りしめてわなわなと震えだした。
恋人同士(仮)の仲睦まじさに衝撃を受けているのかもしれない。
「なんなのもう、最低!」
そう叫んだかと思うと、アンジェリカさんはさっと踵を返して、騒々しく足音を立てながら、ドアを乱暴に閉めてお屋敷から去っていった。
「はあ……なんとかなりましたね」
無事アンジェリカさんを撃退できた事に安堵する。アルベリヒさんも冷静さを取り戻したように溜息を漏らす。
「お前もよくもあんな出鱈目をすらすらと思いつくな。お陰で助かったが」
それはまあ、そうなったらいいなという妄想は常日頃から考えているわけなので、すらすらと出てくるのは当然というか。
「ともかく、これであの女が押しかけて来なくなるといいんだが……俺はもう疲れた。コーデリア、お茶の用意をしてくれ。一休みするから」
「あ、はい……」
名残惜しく思いながらも、アルベリヒさんの腕からそっと身を離した。
◆ ◆ ◆ ◆
その日、買い物の為に街へ出たわたし達だったが、いつものように手を繋ぐ代わりに、思い切ってアルベリヒさんの腕にしがみついてみた。
「な、なんだ一体……」
当然ながらアルベリヒさんは困惑した様子を見せたが
「ええと、ほら、アンジェリカさんにはわたし達がお付き合いしている事になっているわけですよね?」
「まあ、そういう設定だったな」
「だから、万が一見られたときの事を想定して、普段から人目のある場所ではそういう風に振舞わなければならないと思うんですよ! これもその為にやむを得ない行動なわけですよ」
「そういうものなのか……?」
「そういうものです!」
強引に押し切ると、アルベリヒさんはしぶしぶながら納得したようだ。大人しくされるがままになっている。
建前があるとはいえ、こうしてくっついて歩けるのはやっぱり嬉しい。アルベリヒさんには申し訳ないけれども、少しだけアンジェリカさんに感謝。
そんな事を考えていた時、背後からものすごい力で髪の毛を引っ張られた。
「痛っ!」
突然の事に、わたしはアルベリヒさんの腕を放してしまう。咄嗟に地面に腕をついて、倒れこむ事だけは防がれた。
な、なに? 何が起こったの?
事態を飲み込めずにいるわたしのうなじのあたりから、ざくり……という、どこかおぞましさを感じさせる音がした。その気持ちの悪さに瞬時にして肌が粟立つ。
音はそのまま連続して響く。
ざくり、ざくり
その音が止んだと思った直後、急に首元が涼しくなった気がした。
我に返ったわたしは何が起こったのかと振り向く。
周囲には幾筋かの長い糸が舞っている。その中心にアンジェリカさんが立っていた。手には周囲に舞っているのと同じ色の糸束。ミルクティ色の糸――いや、糸じゃない。あれは――わたしの髪の毛……?
咄嗟に自分の後頭部に手をやると、さっきまでそこにあったはずのものがなかった。背中まであったわたしの髪の毛は、今や肩に付かないくらいに短い。
はっとしてアンジェリカさんを見れば、もう片方の手には銀色に光る鋭い鋏が握られている。
あの鋏で切られたのだ。わたしの髪の毛が。
呆然としているわたしの目の前で、アンジェリカさんの真っ赤な唇が弧を描く。
「く……ははは、似合ってるわよ、メイドさん。これであんたも私と同じ。男に捨てられるのよ。いい気味」
そう言ったかと思うと、一転して天使のような笑顔をアルベリヒさんに向ける。
「ねえアルベリヒ様。そんなみっともない子なんてもういらないでしょう? だから私と……」
「コーデリア、大丈夫か!? どこか怪我してないだろうな!?」
アンジェリカさんの声が聞こえないかのように、アルベリヒさんはわたしの傍に屈みこむ。
その声音には多分の焦りが含まれているような気がして、わたしは慌てて何度も頷く。
「だ、大丈夫です。髪の毛を切られただけ……」
その様子を見て、アンジェリカさんは苛立ったように叫ぶ。
「ちょっと、アルベリヒ様、なんで無視するのよ! そんな女放っておけばいいじゃない! そんな女より私のほうが……」
「あなたは何を言っているんだ」
アルベリヒさんが立ち上がると、わたしを庇うように進み出る。
「髪の毛がなくなったくらいでコーデリアの価値が失われるわけがないだろう?」
それを聞いたアンジェリカさんの顔に動揺の色が浮かぶ。
「は? え? なんで? だ、だって私は……」
「あなたはそうだったのかもしれないな。髪の毛が失われただけで取り巻きに見捨てられたんだから。きっと上辺だけにしか価値がないんだろう。だから平気でこんな事までできる。そんな人間とコーデリアを一緒にするな」
そう言うとアルベリヒさんは手を突き出す。どこか悲しそうな声と共に。
「あなたみたいな人のために、コーデリアに魔法を使わせるんじゃなかった」
次の瞬間、アンジェリカさんの髪の毛から炎が上がった。
「え……?」
一瞬の事だった。もしかすると炎もわたしの見間違いなのではとも思った。けれど、後には髪の燃えた嫌なにおいと、長かったはずの頭髪の半分以上が失われたアンジェリカさんの姿があった。
自身の髪に手をやり、その身に何が起こったのかを理解したアンジェリカさんは鋭い悲鳴を上げる。
「わ、私の髪の毛……! いや……! なんで!?」
「せっかくコーデリアが元に戻してやったんだ。少しは残しておいてやる。けれど、もしもこれ以上コーデリアにつきまとったり危害を加えようとしてみろ。髪の毛だけじゃ済まないと思え」
そう言い放つアルベリヒさんの冷たい声に、アンジェリカさんはびくりと身体を震わせた。
背後にいるわたしには、アルベリヒさんがどんな顔をしているのかはわからない。だが、対峙していたアンジェリカさんは、恐ろしいものでも見たかのように表情を歪ませる。おろおろと、二、三歩後ずさり、そのまま身体を反転させると、人ごみの中へと紛れるように駆けて行った。
その後姿が消えるまで確かめた後、アルベリヒさんの差し出してくれた手に縋ってわたしは立ち上がる。
改めて後頭部に手をやると、すっかり短くなった自分の髪の毛。よほど雑に切られたのか、触れただけでも不揃いだとわかる。
「わたしの髪の毛、本当になくなっちゃったんだ……」
思わず呟く。こうして現実を受け入れてみればそれなりにショックではある。けれど、下手をすればアンジェリカさんの持っていた鋏で怪我をしていたかもしれないのだ。それを考えれば髪の毛だけで済んだのは幸運だったのかもしれない。
けれど、それでも溜息が漏れる。
すると、急に手を引っ張られた。アルベリヒさんがわたしの手を取り早足で歩き出したのだ。
「わあ!? 急に引っ張らないでください……!」
驚きながらも転ばないようにと後を付いていくと、アルベリヒさんはすぐ近くのお店の前で足を止めた。
「ここで待ってろ」
そう言うとアルベリヒさんはお店の中に消えていった。
なんだろうこのお店。雑貨屋……?
少しして出てきたアルベリヒさんの手には大きな白い布が握られていた。と、その布をおもむろにわたしの首に掛ける。
「え? え?」
戸惑っているうちに、アルベリヒさんは布をわたしの首にぐるぐると巻いてゆく。
「ちょ、ちょっと、苦しい……!」
鼻のあたりまで布で覆われて、思わず声を漏らすと、アルベリヒさんが「ああ、すまない……!」と手を止めた。
わたしは顔にまで巻かれた布を首元まで下げると、なんとか呼吸する。
「何ですかこの布……」
「いや……とにかく髪の毛が隠れるようにと思って……」
「え……」
もしかして、わたしに気を使ってくれたんだろうか。よっぽどわたしの髪の毛がひどい事になっているのかもしれない。そんな状態で街を歩いたりしたら悪い意味で人目を引くだろうし、そうならないように布で隠してくれようとしたみたいだ。
でも、この布は一体なんだろう。マフラーでもないし。真っ白くて大きな……。
そこで気付いた。
ああ、これ、テーブルクロスだ。
アルベリヒさん、焦ってたんだなあ……。
わたしの為に、とにかく髪の毛を隠せるものをと買ってきてくれたのだ。テーブルクロスだとも気付かずに。
その事を考えると、いつの間にか先ほどまでのショックも忘れ、思わず笑みを漏らしてしまった。
「アルベリヒさん、ありがとうございます。この布、髪の毛を隠すのにちょうどいいですね」
笑って見せたが、アルベリヒさんはなんだか浮かない顔のままだった。
そんな彼の腕を引っ張って歩き出す。
「それじゃあ、改めて買い物を続けましょうか」
「え? でも、お前、その髪を早くなんとかしないと……」
「帰ってから何とかするので大丈夫ですよ。今は布で隠れてるし。それにこの布、端っこを結ぶとかわいくなるかも」
言いながら布の端をリボンのように結んでみせる。どうかな。上手くできたかな。自分では見えないけど……。
「……結び目はもう少し後ろの方がいい」
アルベリヒさんは、少し困ったように微笑むと、リボンの位置を調整するように結び直してくれた。
もしかするとこれは天罰かもしれない。アンジェリカさんの件にかこつけて、怯えるアルベリヒさんを利用するような事をしたから天罰が下ったのだ。
でも、さっきのアルベリヒさんの言葉は嬉しかった。上辺だけの人間とわたしを一緒にするなって言ってくれた。
髪の毛が少しくらいなくなったって良いじゃないか。アルベリヒさんにとって、わたしにはそれだけじゃない何かがあるのだ。その何かについての正体はわからないが……。
「それにしても、なんであの女は俺じゃなくてコーデリアを狙ったんだ……?」
「うーん……わたしという邪魔者がいなくなれば、アルベリヒさんが自分のものになると思ったんじゃないでしょうか。あの人は自分の髪が失われた事で男の人が離れて行ったと思っていたみたいだし、わたしの髪の毛がなくなれば、自分と同じような目に遭うと思っていたとか」
「はあ? ……理解できない。どんな思考回路なんだ」
「まあまあ、あんまり深く考えると、それこそ心労で髪の毛が抜けちゃいますよ。それよりも今日のお夕飯の事でも考えましょう」
そうしてアルベリヒさんの腕に再びしがみつく。
アンジェリカさんを撃退した今となっては、もう恋人の振りをする必要などなくなったのだが、アルベリヒさんは何も言わなかった。
王都を守る精霊様。わたし、心を入れ替えて謙虚になります。邪な事を考えたりするのも自重します。でも、今日だけはもう少しだけ許してください。
そんな事を願いながらアルベリヒさんにくっつきながら歩いた。




