月、白銀の神
◇◆◇◆
俺たちはらぁめんを食べ終え、店じまいしてから、今後のことについて話し合った。事実確認と、今後の身の振り方について、だ。どうやらさくらは本当にこの家に厄介になることになっていて、おっちゃんとさくらの間ではすでに何度か話し合いが持たれている。つまりは、『俺とおっちゃんが同じ家に住んでいること』だけを知らずに、さくらはおっちゃんの家に引き取られることを決意したのだ。
「おっちゃん。なんで俺が一緒に住んでることをさくらに言ってなかったんだ」
「その方が面白いだろうと思ってなァ」
おっちゃんはガハハと笑った。俺は少しムカついたが、抑えた。……このことは流馬先生も知っていたはずだ。流馬先生もおっちゃんも、結託していたのだ。
「まぁいいよ。もう決まったことだ、さくらも異論はないらしいし。そうだよな?」
「は、はい」
「で、一番問題なのは、だ」
俺は屋根裏を指さす。
「俺とさくらが同じ部屋に寝るしかない、ってとこだよ」
「大丈夫だ大丈夫だ」
おっちゃんはまたガハハと笑った。
「もう既に手は打ってある」
「本当かよ」
「ウソだと思うなら見てみろ、屋根裏を」
俺とさくらは目を見合わせる。
屋根裏部屋は、厨房の奥、小さな納戸の中のハシゴを上ってたどり着く。俺とさくらは連れ添って屋根裏部屋へ向かった。
屋根裏部屋は、俺が留守にしていた数週間ですっかり様変わりしていた。お姫様が寝るようなベッドが中央に鎮座し、ピンク色の引き出しやおもちゃがいたるところに配置されていた。木の床には一面に絨毯が敷かれている。元の殺風景な部屋は見る影もない。
「どうだ、さくらちゃん、いい感じだろう」
おっちゃんがハシゴの下から顔を覗かせた。さくらは困ったように顔をこわばらせた。
「え、えっと。かわいい、です」
「そうかそうか」
おっちゃんはご満悦のようだ。
「待てよ、おっちゃん。俺のエリアはどこだよ? 俺の生活圏は?」
見る限り、ほぼほぼ全てがさくらのための家具だ。ベッドだってシングル。俺が入る余地がない。
「ああ、ヌケサクはそこだ」
おっちゃんが指さしたのは、部屋の隅にあった犬小屋だ。入口の上に「ぬけさく」と書かれている。
「寝て起きて、雨露もしのげる。完璧だろうが」
俺は犬小屋を持ち上げ、窓から放り投げた。バキベキ! と木の折れる音が響く。
「……よくわかったよ、おっちゃん」
「何がだ」
「妹を持つ兄の気持ちが、だよ。要するに……」
俺は右手を握りこみ、おっちゃんを思いっきりぶん殴る。おっちゃんはハシゴからずり落ち、納戸の地面に落ちた。
「『ふざけんな』ってことだよ!!!」
「さ、朔くん!」
さくらは呆気に取られた様子で口を押さえている。
「さくら。俺は今日はとりあえず、納戸で寝るから。これからのことは、おっちゃん抜きで、また二人で話そう」
「え、え、でも……東郷さんは……」
「……殴り合いは日常茶飯事だ。気にすんな。そもそも効いちゃいねぇよ、あんなヤワなパンチは……」
「…………」
「ごめんな、イヤなところ見せた……」
「かかか…………」
さくらは目を輝かせていた。
「かぁっこいい………………!」
「……そりゃよかった」
俺はさくらを残しハシゴを降りる。おっちゃんは頭をさすりながら起き上がった。
「ユーモアのわからねェ野郎だ」
「おっちゃん、今日はもう寝ろ。俺ももう寝る」
「そうするか。……納戸のドアは閉めとけよ、危ないからな」
おっちゃんは納戸から出て行った。おっちゃんはいつも、居間に布団を敷いて寝ている。俺も、納戸の引き出しから適当にタオルを取り出し、下に敷いて寝ることにした。
「朔くん」
さくらがハシゴを降りてくる。俺は身を起こす。
「どうした?」
「お、おしっこ……どこですればいいですか」
「ああ。それならこっちだ」
俺は納戸から出て厨房に続く細い廊下の扉を指さす。
「そこの『地獄の入口』って書いてある扉だ」
「は、はい! ありがとうがざいまふっ」
噛んだな。
さくらはいそいそとトイレに入る。しばらくすると出てくる。
「……『地獄の入口』って……」
「ああ、それな」
俺は苦笑交じりに説明する。
「俺が小さい頃の落書きだよ。俺は『早く消せ』って頼んでんだけど、おっちゃんは面白がってな。『らぁめんよつばの名所だ』とか言って」
「ぷふっ」
「お客さんも喜んでくれるし、まぁいいかな、って思ってるけどさ……。それより、早く寝ろよ? これから九天高校の入学準備とかもしなきゃいけないんだしな」
「はい! おやすみなさいです」
さくらはぺこりと頭を下げ、ハシゴを上っていった。
俺は改めて寝っ転がる。狭いので、入口扉を開けて、足を伸ばす。すーっと、意識が遠ざかる。夢の世界へと落ちていく。
◇◆◇◆
ピピピピピ。
アラームの音が鳴り、私は反射的に目を覚ました。携帯電話から響くアラームを即座に止める。私たち医者は、長い休憩を取ることは難しい。大病院ならば話は別だが、ここはしがない町病院。医者も看護師も、そう立場は変わらない。短い休憩を何度か挟むことで帳尻を合わせている。
私は起き上がった。お世辞にもやわらかいとはいえないソファーの感触が、トリモチのようにべったりと背中に残る。快適な起床とはいかないが、いつものことだ。
とりあえず、異常がないかどうか、ナースステーションへ向かう。向かう途中で、『エリーゼのために』のアラーム音が聞こえてきた。……ナースコールだ。『エリーゼのために』は鳴り止まない。ナースステーションに誰もいないのか、だとしても携帯無線で対処できるはずだ。私はナースステーションに入る。誰もいない。三十分前棟内巡回に行った青崎さんも、いない。鳴り続けるナースコールの受話器を取る。
「こちらナースステーションです。どうしましたか」
「…………」
電話の向こうは無音だ。こういう事例はたびたびある。一つは、発声もできない緊急な容態変化。もう一つは、いたずら。どちらの場合でも、私たちは丁寧に対処しなければならない。
「今すぐそちらへ向かいます、安心していてくださいね」
「…………かみ……」
掠れた声が聞こえた。私は下しかけた受話器を素早く耳に当てる。対応は冷静に。
「はい、なんでしょう」
「かみ…………が…………きた……………………こないで…………りゅうま、せんせい……」
「神? 神が……来た? その声は……青崎さんですか? どうしましたか?」
「にげて………………」
そこで通信は途絶えた。私は電子板を見る。ナースコールは三〇三号室から。今日白詰くんが退院した、その部屋。今は誰もいないはずだ。嫌な予感がする。何かよくないことが起こっている。
「若者よ」
曲がり角から老人が歩いてきて、私は急停止する。顎にたくわえられた白鬚。見かけない顔だ。患者の付添人だろうか。
「生きろ」
老人はそう言って懐からナイフを取り出した。
「どうしましたか」
努めて冷静に対応する。どんな事情、状況であっても、動揺は会話の妨げになる。
「若者よ、生きろ」
老人は私にナイフを押し付けると、どこへともなく去っていった。ナイフは刃渡りが長い。サバイバルナイフのようだ。捨てるわけにもいかず、私はとりあえず白衣の胸ポケットにナイフをしまった。
気を取り直し、急いで三〇三号室に向かう。廊下には血の跡が引きずられたようにして付いており、どこからか伸びて三〇三号室へと続いている。
「いったい、これは……」
私は三〇三号室の扉を押し開く。私は思わず、鼻を塞いだ。そこは血の海だった。床一面に広がる血の海。人ひとり分ではない。何人もの血がなければ、こんな血の海はできない。だが、人間はどこにもいない。ベッドはなぎ倒され、カーテンは破かれ、椅子や机はめちゃくちゃに破壊されている。ナースコールも壊されている。これは、いったい何が起こったのか……わからない。わからないが……
私は三〇三号室から出た。血の跡は廊下を進み、階段へ向かっている。さっきの青崎さんの通信のときはまだナースコールは生きていた。そのナースコールは、間違いなく、三〇三号室のもの。そして今、青崎さんは三〇三号室から消え失せた。手がかりはこの血の跡のみ。
私は走って血の跡を追った。血の跡は階段を下り、一階へ、そして中庭の方へ向かっている。私は中庭へと飛び出した。
月に照らされた桜の並ぶ中庭。その中央の円形花壇、その上に誰かがいた。血と肉の塊の上に鎮座する、何者か。月影が彼を覆っている。
「……誰ですか、そこにいるのは」
私は静かに問う。『何者か』はこちらを向いた。冷たい瞳……いや、瞳は見えない。眼窩は黒く窪み、鼻が常人よりも大きく突き出ている。よく見ればそれは皮膚や骨ではない。金属だ。獣のような金属の仮面で顔全体を覆っている。
そして、『何者か』が踏みつけている肉の塊の中に、青崎さんや他の看護師の首が転がっていた。
「あなたは……?」
『何者か』は何も言わず、右手に包丁を構えた。べっとりと血が付いた出刃包丁だ。
「落ち着いてください、それを……ゆっくりと、下ろしてください」
『何者か』は動かない。
「私は敵ではありません」
「…………」
「私はあなたの味方です」
「……」
「あなたに危害を加えません」
「……」
『何者か』は首を振った。それが何を示す仕草なのか……敵対なのか撤退なのか……わからない。包丁を手放そうとはしない。
「この通り、何も武器は……」
両手を上げてそう言いかけて、私は気づく。白衣の胸ポケットには金属の重み。先ほど老人から貰ったナイフがある。これを使えばもしものとき応戦できるだろうが……平和的解決には至らない。どんな人間であれ、みな心には病を抱えている。それを治さなくて何が医者だ。……たとえその相手が殺人鬼や異端者であろうとも。
私はナイフを取り出し、後ろに投げ捨てた。『何者か』がナイフを視線で追う。私は改めて言い直す。
「何も武器は持っていません。あなたも武器を捨てて……ゆっくりで大丈夫ですよ」
『何者か』が包丁を下ろした。
「ふふっ、そうです……大丈夫ですよ、何もしませんから……」
『何者か』は、包丁を離した。真っすぐ落ちて血肉に突き立つ。
「ゆっくり、深呼吸してください……落ち着いてきましたか? いいですよ……ゆっくり……沸騰していたような感情が、だんだんと穏やかな波になります……静かに戻っていきます……」
『何者か』はうなだれ、円形花壇のそばのベンチに座った。私はゆっくりと近づく。刺激しないように、斜め前から。
「気分がすぐれませんか?」
「…………」
「……私は笠懸流馬と申します。あなたのお名前を聞かせてもらってもいいですか?」
額を冷や汗が流れたのがわかる。目の前の『何者か』は、顔の鉄仮面に手をかけた。
「お……れは……」
『何者か』は仮面を外した。その下の素顔は………………
「おお…………………かみ…………仮面の……狼」
ずっ。
腹部に鋭い痛み。裂傷、出血。吐血。
「ガハッ……」
『何者か』……いや、仮面の狼は、鉄の爪を私の腹から引き抜いた。私はくずおれる。
仮面の狼は咆哮した。桜の花びらが舞っている。月影が眩しく、白銀の狼が赤い丘で美しく身をしならせている。聖譚曲が響き、冷たい風が私に吹き付ける。意識が混濁している。ああ。病が、広がっていく。世界は病に呑まれていく。全てが病に呑まれていく。
『エリーゼのために』が、遥か遠くで響いていた。
序章 大きな桜の木の上で
終