門出に咲く花
「朔くん、わたし、よくわからないことがあるんです」
さくらは落ちてきた桜の花弁をつまんだ。
「何が分からないんだ」
「いっぱい、わからないんです。何もわからなくって」
さくらは俯いている。さくらは、不安なんだろう。記憶を失って、何もわからず、一人取り残されて……不安に決まってる。
「朔くん、教えてください、いろんなこと」
「……ああ」
さくらは嬉しそうに笑う。
それから俺たちは、少しずつ会話をした。無意味な会話だ。世界にはいろんな場所があって、綺麗なものもあれば汚いものもある。そういうことを、なるべく遠回しにさくらに教えてやった。さくらは興味深そうに聴いていた。
「うん……うん」
さくらは静かに頷いた。俺の言葉を咀嚼しようと、頭の中で情報を整理しようとしている。
「うん……?」
「どうした?」
「……わたし、わからないことがあって」
「なんだ」
「きたないものは、キレイにすればいいと思うんです」
「まあ、そうだな」
「なんでそうしないんですか?」
さくらは真っ直ぐな瞳でそう言った。俺は返事に詰まる。
「……根元から腐ってて、綺麗にしてもすぐまた汚くなる。そういうものが世界には溢れてる」
俺は言葉を切った。さくらは不思議そうに俺を見つめた。
「そのとおりです白詰くん」
流馬先生が目の前に立っていた。
「それでも綺麗にする、綺麗にしなきゃいけないんですよ。いつかは治る、そう信じなくては」
「そうですかね」
「お二人共、そろそろ部屋へお戻りください。楽しい楽しい検査のお時間です」
「このドS医者め」
「りゅ、流馬先生、あの」
さくらが赤面しながらおずおずと手を上げた。
「どうしました?」
「お、おしっこ……」
「ああ……それならそっちから入ってすぐ右手です」
流馬先生は最寄りのトイレの方角を指さした。さくらはぺこりと頭を下げる。
「ありがとうごらいあすっ、すぐ戻ってきやすっ」
さくらはとてとてと走っていった。
「噛んだな」
「噛みましたね」
「白詰くん、彼女を頼みますね」
「彼女?」
「福寿さんです。彼女は危うい。九天高校で見かけたときには、親切にしてあげてくださいね」
俺は流馬先生を見上げた。流馬先生は俺を見下ろし、微笑む。
「……ああ」
「彼女は私が名付けたんです。まるで本当の娘のように可愛い」
「通報するぞ」
「『福寿さくら』の『福寿』は『フクジュソウ』から取りました。別名『朔日草』……あなたのことです、白詰朔くん。福寿さんは白詰くんの妹のようだ。……私にとってはあなたも息子のように可愛いのですよ」
そう言って流馬先生は俺の頭を優しく撫でた。俺はくすぐったかったが、先生を止めはしなかった。
◇◆◇◆
それから数週間が経ち、いよいよ退院の日になった。俺とさくらは同時に退院することになっていて、最後の身体検査を終えた流馬先生は名残惜しそうに注射器を撫でた。
「あなたが痛がるさまをもう少し眺めていたかったものです」
「気持ち悪いこと言うな」
「とにもかくにも、お疲れ様でした白詰くん」
流馬先生は微笑んだ。
「退院おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「私達はいつでもお待ちしていますからね」
「また大怪我しろってのか!?」
「ふふふ、いえ……」
流馬先生は真面目な顔になった。
「福寿さんのことです。記憶が戻ったら、報告に来てください」
「あ、ああ」
「あなたが彼女を助けたとき、彼女は空色の手術着のようなものを着ていた。彼女は何らかの特殊病理を持っている可能性があるのです。我々が発見できないような未知の病理を」
「……何怖い顔してんだよ、流馬先生。大丈夫だって。検査じゃ異常はなかったんだろ?」
「ですが、可能性は捨てきれません」
「大丈夫だ。先生は俺も治してくれた。さくらだって大丈夫だ」
俺はそう言ったが、自分の言葉に根拠がないことは分かりきっていた。それでも、そう言うしかなかった。流馬先生は苦笑した。
「そうですね……今は、祝いましょう。二人の、門出を」
◇◆◇◆
病院の先生たちに挨拶をして、俺とさくらは病院を後にした。俺はもちろん、家に帰るのだが、さくらは、世話をしてくれる優しい人のところへ行けることになっている。
「ごめんなさい、案内なんて頼んじゃって」
俺の後ろについてくるさくらはぴょこぴょこと頭を下げている。
「いいんだよ、地名だって何も覚えてないんだろ。それに、この場所は俺の家に近いしな」
さくらから預かった地図を見れば一目瞭然だが、さくらを引き取る人との集合場所は、俺の家にかなり近い。
「それより、あんまり離れて歩くなよ。ここらへんは治安が悪いからな」
俺は目を上げる。薄汚れた看板の文字が見える。吉舎府市。それは、首都圏から少し離れた工場地区だ。サビついた臭いが一日中漂い、掘っ建て小屋のようなトタン屋根の平屋の軒下で野良犬がゴミを食べ、その野良犬からホームレスがゴミを奪っている。街灯はほとんど無い。夜になれば強盗恐喝の温床だ。
「うう……」
さくらは竦み上がっている。無理もない、記憶喪失してから今まで、雑菌ゼロの真っ白な病院で過ごしてきたんだ。まるで虎の群れに投げ込まれた仔鹿のようだ。
「俺から離れなきゃ大丈夫だよ」
「う、うう」
「そんなに怖いか?」
「こ、こわくないです! こわくないですけど、足が動かないです!」
「怖がってるじゃねぇか。……ったく」
俺はさくらの手首を掴んだ。
「ほら。掴んでるから。これで大丈夫か?」
「……大丈夫そうです……ありがとうございます、朔くん」
さくらはふにゃりと笑った。
「なら行くぞ」
俺たちはずんずんと歩いていく。絡んでくる子供や酔っ払いを無視して、目的地へと辿り着いた。いのち川に架かる橋、その名もなみだ橋。木で作られたこの橋は、工場区と市場区を繋ぐ生命線のような橋だ。ここが、引き取り手との合流点である。
「まだ結構時間あるな」
俺は懐中時計を確認する。集合時間まであと一時間半ほど。
「さ、朔くん……ここで待つんですか……?」
さくらはぷるぷると足を震えさせている。街灯もない夕暮れ近づく橋の上、川から吹き付ける風は肌に冷たく、現在の人通りは多いとは言えない。ここで一時間半待つ……それは、自分から強盗の餌食になりに行くようなものだ。それでなくとも、衰弱してしまう。
「そうだな、じゃあ、俺の家に来るか?」
「家? ですか?」
「ああ。実はすぐそこなんだ、歩いて一分とかからない」
「で、でも、悪いです、そんな……」
「いいんだよ。俺の家は。誰が来てもいいんだ。そういう場所だからな」
俺は再びさくらの手首を掴む。
「こっちだ」
「わっわっ」
俺はさくらを引っ張ってなみだ橋を渡り切り、河川敷に降りた。橋梁から川面までは三メートルもない。俺は、河川敷に刺さる柱を指さした。
「あそこが俺の家だ」
「……わっ!?」
正確には、俺が指さしていたのは、柱ではなく、柱にくっつくようにして立っている木の家だった。木目がありありと浮かぶ粗雑な木の家。高さは橋梁ギリギリ、横幅は河川敷の幅六メートルほど、奥行は柱の幅、四メートル。外見上は一階建てだが、屋根裏部屋があり、実質二階建て。橋梁が屋根代わりであり、直方体のような形をしている。
「あんなところに家が……」
「驚いたろ」
「かっこいい……」
「……かっこよくはないだろ」
「かっこいいです」
「……そうか?」
どうやら、さくらの価値観は少し世間とズレているようだ。
「とにかく、あそこが俺の家だ。それに、あそこは普通の家とはまた違う。あそこは『らぁめんよつば』だ」
「『らぁめんよつば』?」
「看板があるだろ? らぁめん屋なんだ、俺の家は」
「かかか……」
さくらは小刻みに震えている。
「かぁっこいいぃ……」
「……そうかな」
俺は少し鼻を高くする。褒められるのは悪い気がしない。
「今、おっちゃんが店番やってるはずだ。時間つぶしがてら、らぁめん食おう」
「はいっ」
さくらはどうやら興味津々なようで、かなり乗り気だ。俺はまたさくらの手首を掴み、らぁめんよつばののれんをくぐった。いつも通り、おっちゃんがカウンターの向こうでらぁめんを茹でている。俺に気づき「らっしゃァせ!」と声を張った。客は常連が二人。まずまずだ。俺たちの来店がおっちゃんの邪魔になることはないだろう。
「のれんくぐってきたってこたァ、客扱いでいいんだな、ヌケサク!」
「ああ。それと、この子も連れだ」
俺は、背後に隠れていたさくらを紹介しようとした。しかしおっちゃんがそれを遮った。
「あれ、さくらちゃんじゃねェか」
「東郷さん!」
「ん? あれ、二人知り合いだったのか?」
「そりゃまあな」
おっちゃんは熊のようにわしわしと頭を掻いた。まあ、病院で二人が会っていたとしてもおかしくはない。
「待ってりゃ迎えに行ったのによォ」
「すいません、早くに着いちゃって、それで……あれ?」
さくらが眉を寄せ顔を上げた。
「あれ? えっと……どういう……」
よくわからないが、さくらは困惑しているようだった。その困惑が俺に伝染する。待て。おっちゃんは今なんて言った? 「待ってりゃ迎えに行く」、そう言った。……それは、どういう意味だ?
「待てよ、おっちゃん……迎えに行くって、誰をだ」
「誰って、そりゃあ、さくらちゃんをよ。なみだ橋の上で待ち合わせしてたんだ」
「は?」
「お前さんら二人とも一緒に帰ってくるとはな。別々に帰らせるように、って流馬に言っとくの忘れてたな」
「どういう……」
「わかんねェか? だから、つまり……」
おっちゃんはぐははと笑った。
「さくらちゃんの引き取り手はこの俺。さくらちゃんは今後この家で暮らすんだよ!」
「「ええええっ!?」」
俺とさくらは、同時に叫んで顔を見合わせた。
「サプライズにして驚かせてやろうと思ってたんだがなァ! でもま、結局驚いてくれたみてェだし、よかったよかった」
「よくねぇよ!」
俺はバシーッとカウンターを叩いた。
「男二人の中にさくらを放り込むのかよ!? 色々とマズいだろ!」
「別に大丈夫だろ。さくらちゃんは純粋だ。俺だって純粋だ」
「おっちゃんが純粋……?」
「ああ。それともなんだ? ヌケサク、お前さんは不純なのか? 不純な感情をさくらちゃんに持つのか?」
「ふじゅん……?」
さくらはうろたえている。状況についていけないのだ。
「持たねぇよ!」
「なら全て大丈夫万事オッケーだ」
「いやまだまだ問題はあるだろ!」
「うるせェなァヌケサク。忘れてるわけじゃねェだろ。お前さんだってさくらちゃんと立場は同じだ」
「ぐ……」
「お前さんのときと同じだ。第三者がいくら騒ごうが関係ない。さくらちゃんの意思が重要なんだ。どうだ、さくらちゃん。ここに住みたいか?」
おっちゃんは優しくさくらに訊いた。さくらは、少し悩んだが、頷いた。
「はい。私、ここに住みたいです」
「……万事オッケーだ」
おっちゃんはらぁめんを二杯カウンターに突き出した。
「食え。新しい家族に、乾杯」
「……ああ」
「かかか……かぁぁっこいいぃ……!」
さくらはカウンターに飛び座るとらぁめんを食べ始めた。俺はため息をつく。どうやら、これから色々と大変になりそうだ。
◇◆◇◆
「……流馬先生? どうかなさいましたか? 流馬先生?」
看護師の青崎さんに呼ばれ、私はハッと顔を上げた。いつの間にか窓の外には紫の雲がたなびき、今日もまた一日が過ぎ去ろうとしている。
「ご無理をなさらず」
「いや、すみません……少し物思いに耽っていました」
嫌な予感が収まらない。
私は、手に持っていた本を見る。『狼の街』。街に蔓延る謎の病が主人公たちを追い詰めていくサスペンスホラー。
福寿さんは、なぜ、桜咲神社にいたのか。なぜ記憶を失ったのか。なぜ白詰くんと出会ったのか。全てに理由があるはずだ。謎の糸口は掴めない。『不安』という病が、私の脳を喰い進んでいく。
白詰くん。あなたにしか福寿さんは託せない。命を張って彼女を助けた、あなたにしか。
「流馬先生、私、巡回してきますね」
「はい、お願いします」
青崎さんは懐中電灯を持って棟内巡回に向かった。私も一休みしなくては。考え事をしていても、何も解決しない。今はとにかく、自分の務めを……。