逢引の円形花壇
目を開けると知らない天井があった。ああ、と察する。俺は辺りを見回した。右側にある窓から夕陽が射しこみ、その壁際の机の椅子におっちゃんが座っている。俺は柵付きの白いベッドの上で白いシーツを纏い寝ていた。ベッドの左の引き出しの上にある空のバスケット。壁についたいくつかのスイッチ。そして極めつけは、この場所特有の、消毒液のにおい。それらの要素を全て満たす場所、つまり今俺がいるこの場所は。
病院だ。
今俺は、病院のベッドの上で寝転がっていた。俺は何とか生きていたようだ。
壁際の机の椅子に座っているおっちゃんは、地鳴りのようないびきを出して眠っている。鼻からは漫画みたいなちょうちんが出ていて、呼吸に合わせて膨らんでいる。
「おい、おっちゃん、おっちゃん」
俺が首を伸ばして何度も呼びかけると、鼻ちょうちんがぱちんと割れた。おっちゃんは目を擦り、「なんだヌケサク、起きたのか」と呟いている。
「そりゃこっちの台詞だ」と俺は返す。
おっちゃんはがしがしと熊のように後頭部を掻き、不機嫌そうな顔で俺を見る。
「……いや、俺の台詞で合ってる。ヌケサク、お前さんは、一週間も寝てたんだからなァ」
「一週間?」
「ああ。きっかり一週間だ」
「んなアホな」
そんなことがあり得るのか。俺はよっぽど強く頭を打ち付けたに違いない。きっと俺は今、悪い夢を見ているんだ。
「だって、一週間も寝てたんならさ、色々不具合が起こるだろ。なんで起こしてくんなかったんだよ」
「むちゃくちゃ言うな」
おっちゃんは胸ポケットのタバコの箱を手持ちぶさたに取り出す。
「そうだ、おっちゃん。俺の受験は? 受験はどうなった」
「どうなった、ってなァなんのことだ」
おっちゃんは、壁に貼られている『NO SMOKING』の張り紙を恨めし気に睨み、タバコの箱を胸ポケットにしまった。
「いや、俺が意識を失った日って、受験の日だったろ。どうなったんだ、受験は」
「どうもこうもねェよ。どうもならねェ。お前は受けてねェんだからな」
「受けてない?」
「あたりまえだ。お前さんが夢遊病持ちなら話は別だがな。少なくともお前さんに届いた『合格通知』は一通きりだ」
「一通?」
おっちゃんは一瞬動きを止め、俺を見据えた。その瞳はまるで、俺の覚悟を問おうとしているように見えた。
「な、なんだよ、その一通って?」
俺はまだどこの高校も受けてないはずだ。なのに、合格通知が届いてる? そんなアホな。
おっちゃんは静かに、足元のくたびれたカバンから、一枚の封筒を取り出した。
「まだ内容は確認してないけどな。お前さんがしっかり確かめろ。これから通うことになる高校だ」
おっちゃんは俺に封筒を手渡した。薄い。
「俺はまだその高校に入るって決めたわけじゃ――」
封筒を裏返して差出人を確認し、俺は言葉を失った。
そこには、赤い文字で『九天高校』と書かれていた。
◇◆◇◆
数日後。俺は、ベッドの上できなこもちを食べながら、窓の外を眺めていた。小鳥や木々のさえずりが耳に心地いい。何一つ生産的な活動をしていないにも関わらず、この時間がとても貴重なものに思える。このベッドの窮屈さにもすっかり慣れたものだ。
コンコン、と部屋のドアがノックされ、俺は眉を上げた。誰が来たのかは察しが付く。
「どうぞ」
カラカラ、とゆっくり扉が開く。入ってきたのは、桃髪の少女だった。髪は肩の辺りでくるんと内にカールしている。以前見たときよりも明らかに短くなっているので、切ったんだろう。水色の病院着に白色のスリッパがよく似合っていた。
彼女は部屋の中をきょろきょろと物珍しそうに見回している。俺は、ベッド横の椅子に置いてあった九天高校の資料を机の上に乗せる。
「ここ、どうぞ」
俺がそう呼びかけると、彼女は「はい」と遠慮がちに言い、ぺたぺたと歩いてきて椅子に座った。
ちくちく、と時計が時を刻む音が部屋に響いている。
「えーと、とりあえず、そうだな」
俺は顎に手を当てる。「俺は白詰朔っていいます」
「はい」
彼女は身を乗り出して俺に耳を傾けている。
「……」
「……?」彼女は瞬きを繰り返すのみだ。
「名前を聞いても?」
「あっ、は、はい!」
彼女は椅子に座り直し「福寿さくらです」と、なぜか誇らしげに言った。
「俺は十五だけど」
「……?」さくらは瞬きを繰り返すのみである。
「えーと、年齢」
「はわ、はすっ」
「蓮?」
「わたしもそれです」
「十五?」
「はい、それです」
さくらは、やりきったかのように小さく息をついた。なんだろうな、この噛み合わなさ。
「俺は吉舎府住みだけど、家ってどこなの?」
「きさふ?」
「さくらの住んでるとこ」
「ここです」
「ここ? って、病院か?」
「そうじゃないんですか?」
さくらの目に嘘はなさそうだ。俺をからかってる様子もない。
「まあ確かにそうだな」
俺は、そう返しながら、一日前のことを思い出していた。
「どうですか、具合は」
あらかた検査を終えたあと、俺の担当医師である流馬先生が、神妙な顔をして尋ねてきた。
「それはアレですか、肉体的な話ですか。それとも、精神的な話で?」
「……そうですね、ぶっちゃけ、あなたが精神錯乱してないかどうかのチェックです」
流馬先生は真顔で言ってのけた。
「ぶっちゃけすぎだろ。俺は正常だよ。先生」
俺は寝返りをうつ。流馬先生はやんわりと口元をゆるめた。
「そうですか。それはよかったです」
看護師がなにやらカルテに書き込んでいる。『白詰朔:精神正常』とでも書いているんだろう。
「ところで先生。訊きたいことがあるんだけど」
「あの女の子のことですね? 彼女もこの病院にいますよ」
流馬先生は眉一つ変えずに言った。この先生はやけに鋭い。
「私からも二、三質問があるのですよ。彼女とあなたがあの場所に倒れていた、その経緯を教えていただけませんか」
俺は手短に説明した。
「ってわけです」
「なるほど。あなたが通りかかっていなければ、彼女は飛び降り自殺していた、と。未遂で済んで本当によかった」
この先生は間違ったことを言ってるわけじゃないんだけど、言葉遣いが物騒だ。
「うーん、自殺というかなんというか。あれは、正気を失ってる感じだったな」
「なるほど。それは難儀ですね」
看護師がなにやらカルテに書き込んでいる。
「そういや、あの子の名前はなんですか?」
流馬先生は眉を上げた。
「まさか、わからないんですか?」
俺がそう問うと、先生はため息をついた。
「そのまさかです。どうやらあの子は、記憶喪失なんですよ、白詰くん。彼女は何も覚えていません。自分の名前すらも」
「記憶喪失」
「まあ正確にはちゃんとした病名があるんですが。記憶喪失、と言った方がわかりやすいでしょう」
流馬先生は何気ないふうに言った。
「いや、そりゃ、わかりやすいかもしれませんけど……いや、わかんないですよ。記憶喪失? そういうのって、実在するもんなんですか?」
「事実は小説より奇なり、とはよく言ったものです」
んなアホな。
「信じられませんか。なんなら、会ってみますか」
「いいんですか?」
流馬先生は静かに頷く。「それで彼女が何か思い出す可能性もあります。だいいち、あなたも気になるでしょう? 彼女のこと」
「まあ、そりゃ」
「ちなみに、今の彼女には仮の名前を与えてあります。『福寿さくら』というんですがね。縁起のよさそうな名前でしょう」
「先生が考えたんですか?」
「はい。記憶を取り戻すまでの仮の名ですが、中々いい名前でしょう」
「まあ」
「早速明日、福寿さんと白詰くんのデートをセッティングしましょう」
「えっ!? あっちょっと先生?」
「あなたも気になるでしょう、彼女のこと」
俺の引き留めも聞かず、流馬先生は部屋を出ていった。看護師さんの謎めいた含み笑いが気にかかる。
さくらは俺の次の言葉を待ち構えている。どうしたもんか。ここらで新しい一手を打つべきか。
「ここじゃなんだし、せっかくだから外で話さないか?」
俺がそう切り出すと、さくらは「えっ、でも」と返した。「白詰くん、けがしてるんじゃ」
確かにさくらの言うとおり、俺は怪我をしていた。あのとき、俺の頭からは血が出ていたが、どうやら俺の頭はすいかのようにパックリイっちまってたらしく、俺の頭にはまだ二重三重に包帯が巻かれている。それに加え、俺はあのとき左足を折ってしまっていたらしく、左足には大きなギプスがはめられていた。どちらもほぼ治りかけではあるが、動かすと少し痛い。
「いや、大したことない」
俺はそう言って起き上がる。ベッド脇に立てかけてあった松葉杖を脇に差し込み、立ち上がる。さくらも慌てて立ち上がった。
「だいじょうぶ?」
「それなりに」
松葉杖をつき、部屋から出る。さくらは俺の後ろをちょこちょことついてくる。
白い廊下は長く続いており、窓からは桜色の光が差し込んでいる。窓の外を見ると、桜の花が咲いていた。もうそろそろ四月なのだ。
「桜」
「わっ、はい」
後ろにいたさくらが返事する。
「きれいだな」
「そ、そんなことないです」
「そうか?」
俺は目を細める。そうか、さくらは桜を見た記憶がないのか?
「桜の花ってなんでこんなにきれいな色してるんだろうな」
「そ、そうですか?」
さくらは鼻をこすっている。
俺は、さくらと会った日のことを思い出していた。あのとき咲いていた桜は、とても神々しく光り輝いていた。
俺達は、中庭に出た。中庭には二羽鶏がいた。中心には円形花壇があり、それを取り巻くようにレンガ敷きの道と木のベンチ、さらにその外側に桜がずらりと植わっている。ここからは青い空と白い雲がよく見える。
俺は、ベンチの一つに座った。さくらは円形花壇に近寄っていく。
「さくら? こっち座らないのか?」
さくらは俺の声が聞こえていないようだ。しゃがみこんで吸い込まれるように花を見つめている。仕方がないので俺も立ち上がり、さくらの隣にしゃがみこんだ。さくらが見ているのは、どこにでも生えているような、ありふれた花だった。
「この花を見るのは初めてか?」
「いえ、たぶん初めてじゃないんですけど」
さくらは青い花の花弁を撫でる。その花は、嬉しそうに顔を上げた。
「でも、初めてです」
さくらが何を言わんとしているのかは分かる。流馬先生の言っていたとおり、さくらは記憶喪失なんだろう。何を見ても初めてで、新鮮に思えるのだ。
俺は少し考え込んでから、言う。
「なあさくら? 俺と会ったときのことは、覚えてるか?」
さくらは右手で花を撫でたまま、顔をこっちに向けた。そしてすぐに、申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんなさい」
「ああいや、謝らなくてもいいんだ。ただ、あの日咲いてた桜は、なんか怖いくらいにきれいだったな、と思ってさ」
「咲いてた?」
「……もしかして、桜のことも知らないのか?」
俺は後ろの桜の木を指さす。「あれが桜。俺達が会ったあの場所には、でっかい桜の木があってな。その日、その桜は満開に咲いてたんだ。覚えてないか」
「……覚えてないです」
「そうか」
俺は桜の木を見上げる。さくらは、俺の視線を追って、桜をじっと見つめた。
「みんな、きれいです。この花も、あの花も」
さくらはうっとりとした様子だった。
さくらはどうやら、本当に記憶喪失のようだった。信じがたいことだが信じるしかない。さくらと話をするときは、それを前提に話さないとな。
「ところでさくら。『高校』って知ってるか?」
「それは知ってます!」と嬉しそうに答える。「わたしは『九天高校』に行くらしいです」
「ああ」
ああ。
俺はそうとしか応えられなかった。それは落胆でもあり納得でもあり、諦めでもあった。
「流馬先生からききました、『九天高校』はとってもいいところだって」
「まあ、そうとも言えるな」
「わたし楽しみです」
純粋な瞳が心苦しい。
「実はな、俺もなんだ」
俺はそう言っていた。思いがけず仲間となったこの子に対して、親近感が湧いたのかもしれなかった。
「俺も、九天高校に行くことになったんだ」
俺の言葉は弱音であり愚痴だった。だけどさくらは、手を合わせて喜んだ。
「ほんとですか! 白詰くんもいっしょなんですね!」
「『朔』でいいよ、同い年なんだし」
「あっ、はい、朔くん」
さくらは少し躊躇したが言葉を続けた。
「わたし少しさみしかったんです、誰も知ってる人がいなくて。でもなんだか嬉しいです」
そう言ってさくらは俺の手を取り無邪気に笑った。
「よろしくおねがいします、朔くん」
「ああ」
どうやらさくらは、九天高校が持つ役割を知らないようだった。それに、この様子だと、この世界の仕組みもよく分かってないんじゃないだろうか。
俺達を取り囲む、最高で最悪な、この世界の仕組みを。