桜の上から降るご縁
この作品は拙作「超能力高校生探偵:白詰朔の幸福」のリメイクとなっています。登場人物の名前や役柄、ストーリー展開も変わっているので、別物としてお楽しみいただければ幸いです。
ーーーーーー2050ーーーーーー
序章 大きな桜の木の上で
遥かな霞の先にある一つの影が、淡い色彩と共にゆらめいた。彼女は、微笑むでも、呆れるでも、泣くでも怒るでもなく、静かにそこに立っている。
俺の目線よりもいくらか高い地面に立っている彼女は、桜吹雪の舞い散る中で、ゆっくりと髪をかき上げた。肩にかかった桃色の長髪が、風に揺られ、五月に空を舞う鯉のぼりのように、ふわふわと流れる。暖かな風である。
そのうちに、白い光が現れた。風に乗って飛ぶ光の群れは、たんぽぽの綿毛のように柔らかく、蛍のような明滅を繰り返す。彼女は一つの光を手に取った。雲から落ちてきた雪の結晶を掴むように、光を手の内に包み込み、そっと開く。手の中には、光はない。
俺は口を開き、何かを叫んだ。何を叫んだのかは判然としない。ただ――十年ぶりに会った幼馴染に声をかけるような自然さで、俺は口元に手を添えて大声を出したのだ。彼女の顔が、こちらを向く。胸の奥がどくんと跳ね、鼓動が加速する。耳から心臓が飛び出るんじゃないか、と思う。不意に彼女が微笑んだ。頬を薄く染めて。同時に、彼女の周りを飛んでいた白い光が桜色に変わり――――
俺は現実へと、引き戻されていく。
◇◆◇◆
ガンガンガンガン、と何かが鳴り響いている。意識の隅っこで寝っ転がっている自分が強く耳をふさいでいる。金属と金属がぶつかり、弾ける音。危機感を喚起させ、同時にいら立ちを募らせる音だ。やめろ、もう聞きたくない、と俺はさらに強く耳をふさいだ。じっ、と、うずくまっている。騒音は収まる気配がなく、むしろどんどんその音を増し、近づいてくる。
次第に、その音に混じって、叫び声が聞こえ始めた。騒音の中で、俺を呼んでいる。「早く」「いつになったら」「いい加減に」と。思わず俺は「やめろ」と叫んだ。恐怖が身を支配する。世界がどんどん黒に覆いつくされていく。もはや俺の目の前に迫ったその音の正体が、手に持っていた金属を俺に向かって振りかぶり――――
がくん、と俺の体が揺れ、俺は目を開けた。俺はいつの間にか仰向けに寝ていた。頭の下には枕があり、体は薄い毛布に包まれている。
「やァっと起きたか、このヌケサク」
布団で寝ている俺のすぐ横に、中華鍋とフライパンを持ったおっちゃんが立っていた。呆れたように腕を組んで俺を見下ろしている。さっきの警鐘みたいな音は、おっちゃんが俺を起こすために中華鍋とフライパンを打ち合わせてた音だったのか。
「なァにバカ面してんだ」
おっちゃんは俺の頭を中華鍋でゴインと叩いた。一瞬脳震盪が起きたのかと思うほど強い衝撃が走った。
「いってぁぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!! 何すんだよ!!」
「お前さんを起こしてんだ」
「だからって叩くこたねぇだろ! それにな、叩くならせめて、中華鍋じゃなくてフライパンの方にしろよっ!」
俺がそう言うと、おっちゃんは無言のままフライパンで俺の頭を殴った。痛い。
「お前さん、今日は試験だろうが」
おっちゃんは眉を寄せた。「まさか忘れちゃいねェだろうな?」
そうだった、と俺は跳ね起きる。布団横に置いてある懐中時計を見ると、まだ時間に余裕はあった。しかしまあ、だからと言ってのんびりしてもいられない。朝食準備のためにはしごを降りていくおっちゃんを横目に、白いYシャツに袖を通す。立ち上がって靴下を履こうとしたときに、天井に頭がぶつかった。そう、この部屋は床から天井までが極端に狭く、一番狭い場所では50センチもない。何を隠そうこの部屋は屋根裏にある。つまりは屋根裏部屋というやつだ。だから天井がやたらと低いのだ。今回は蜘蛛の巣が髪に引っかからなかっただけマシと言える。
頭をぶつけた拍子に、今朝見た夢を思い出した。桜吹雪の舞い散る中で微笑む少女。俺はあの光景に少しだけ見覚えがある。近所の桜咲神社が、春になるとちょうどあんな具合に桜を咲かせるのだ。今は2050年、3月上旬。まだ桜は咲いていないが、今日のこの日に夢を見たのも何かの縁かもしれない。
「時間もあるし、ちょっと寄ってみるか」
俺は机上の蒸気機関車型貯金箱をひっくり返して振り、小銭をばらまく。その中から五円玉をつまみ出し、懐中時計と一緒に制服のポケットに突っ込んだ。
◇◆◇◆
朝食を食べ終え、家を飛び出した俺は、真っ先に桜咲神社へと赴いた。懐中時計を見る。よっぽど大きな事件か何か――――たとえば、空から謎の美少女が降ってきたり、井戸に落ちてタイムスリップし半妖と共に戦うことになったり――――そんなことが起こらない限り、神社に寄ったくらいで入試に遅刻することはないだろう。そういえば桜咲神社の神様は学問の神だったか。今の俺にはうってつけだな。
「おお、東郷さんとこの」
神社へと続く石段の下に、竹のホウキを持った神主さんが立っていた。俺を見つめて指をちょいちょいと動かし、うーんと唸っている。
「タニシくんだったっけ」
「朔だよ、白詰朔」
「ああそうそう、白詰朔くん。うん、すごくいい名前だよね」
神主さんは満足げにうなずき、黒縁の古メガネがカタっと揺れた。男にしてはやたらと長い髪を後ろでまとめ、女性にしては薄い胸、ひょろりとした背格好の神主さんは、おっちゃんが言うには60代後半らしいのだが、どう見ても40代半ばくらいにしか見えない。神主さんは掃除の手を完全に止め、俺に微笑んでいる。
「今日はどうしたの、こんな朝早くに。うちの神社に何か用かい?」
「ちょっとお参りしようかと思ってさ」
「また急だねえ。そういえば……今日、試験じゃなかった?」
「夢に見たんだ」
「夢に?」神主さんはにわかにホウキでゴルフの素振りを始めた。「ドリームに?」
「うん、まあ、寝るほうの夢にな。神木……というか、あの大桜がさ」そう言って俺は、石段の頂上付近に目を凝らす。生憎、この位置からは大桜の姿を拝むことはできない。「夢に出てきて」
「なるほどね」
びゅううんとホウキが空を切る。神主さんは素振りの手をも止めた。
「それはたぶんね、神様がタニシくんを呼んだんだよ」
「神様が?」俺は眉間にしわを寄せる。「タニシくんを?」
「イエス」と神主さんは答える。イエス=キリストと掛けているかのような言葉の響きだ。
「そんな気がするよね」
神主さんはにこっと笑った。なんだか俺も、そんな気がしてくる。
「あ、じゃあ俺、ここらへんで。そんなに時間が有り余ってるわけでもないんで」
先を急ごうとする俺を、神主さんが「ちょっと待って」と呼び止めた。振り返ると神主さんはふわりと微笑んでいた。
「髪、跳ねてるよ」
俺は後ろ髪を触る。確かに、俺の後ろ髪は、これ以上ないほど暴発していた。俺は左手で後頭部をなで、髪の毛を整える。
「それと――――上の人からもらうものを、大切にね」
神主さんはそんな意味深な台詞を吐いた。
「上の人?」
「うん」と神主さんはうなずく。
「上の人、って……身分が上、ってことか?それとも、この石段の上に人が?」
さあね、と神主さんはおどけてみせた。「神様がそう言ってたんだ。そうだ、それこそもしかすると、『上の人』っていうのは、神様自身のことかもしれないね」
うちの神様は元々人だしね、と呟いている。神様が俺に何かくれる? そんなことがありうるのだろうか。この世界の神様は、そう簡単に何かをくれたりしなさそうだけど。
◇◆◇◆
生い茂る木々を貫く石の階段は、驚くほどに長い。しかも、所々の石段が欠けていたりして、時折足を踏み外しそうになる。こんな劣悪な神社にはお年寄りが来れないんじゃないか、と思ったが、どうやらそうでもないらしく、途中で一人の老人とすれ違った。もっさりとした白髭を蓄えているその老人は、飴でもくれるような感覚で、俺に双眼鏡を手渡し「若者よ、生きろ」とだけ言って階段を降りて行った。どういう心境で俺に双眼鏡をくれたのかはわからないが、とにかく俺は双眼鏡をナップサックに突っ込み、また階段を登り始めた。
こんなに長い階段を毎日掃除してるってんだから神主さんもすごいよな、と思いつつ、果てしなく続く石段を登っていく。額からじわりと汗がにじみだしてきて、やっぱりもう引き返そうか、と後悔し始めたころ、朱色の鳥居が石段の頂上付近に顔を覗かせているのが見えた。ということは、残り少しだ。俺はラストスパートをかけ、三段飛ばしに階段を駆けのぼった。鳥居にもたれかかり、肩で息を整え、顔を上げる。目に飛び込んできたのは、満面の桜色だ。
「……ん?」
錯覚かと思い、もう一度目を閉じ、開ける。目を擦っても、眼前の光景に変化はない。今はまだ3月の上旬だというのに、お社の背後に頑然とそびえ立つ、100メートルはあろうかという桜咲神社の神木、大桜が、満開の花を咲き誇らせていたのだ。ひらひらと舞う花弁が、俺の髪の上に乗る。
「……もしかして、さっき神主さんが言ってたのはこれのことだったのか」
俺は大桜を見上げる。大桜は黙して何も語らない。
「これが贈り物なのか、神様」
大桜の幹から力強く伸びている枝は、隆々と、この世のすべてを支えているかのような趣さえ見せている。
今日の試験が、俺の今後の人生を大きく左右するものであることを、神様は知っていたのか。だからこそ、応援の桜を、手向けの花を、俺にくれたのか。
俺は静かに手を合わせ、目をつむった。賽銭箱に小銭を入れるだとか鈴を鳴らすだとか二礼二拍手一礼だとかの細かい所作なんて、この大桜の前では必要ないように思えた。俺はひたすらに、願いを、心に念じる。
俺の願いに応えるかのように、大桜がざわめくのが聞こえた。俺は目を閉じたままその音を聴く。ざわざわ、がさがさ、がさ、がさがさがさがさ。
黙って聴いていると、まるで、大桜の上で誰かが枝の上を縦横無尽に走り回りながら花をかき鳴らしているような音にも聞こえた。もしかすると、桜の精とか、そういう類のなにかが、いるのかもな。
がさがさがさ、がさがさがさがさ、ざざざざざ。
……いつまで鳴っているのだろうか。若干しつこいような気がする。それになんだか、桜の精にしては音が即物的すぎる気もするし。
ざっざざざざざざ、がっさがさがさがさがさ!
俺を挑発するかのようにどんどん大きくなっていくその音にこらえきれなくなった俺は、半ばやけくそにくわっと目を開けた。
「あっ!?」
目を開いた俺は驚愕する。いつのまにか大桜の上には、“何か”がいた。あまりに上方の枝に乗っているので、あれが何なのか、判別することができない。恐らくは人だろうが、あんなところで遊んでいるんだろうか。
まあ、他人の遊びにまで干渉するつもりはないし、こんな時期に咲いている大桜を見て気分が高揚するのもわからなくはない。俺は踵を返し石段を降りようとしたが、そこでふと思いとどまった。さっき老人からもらった双眼鏡をナップサックから取り出す。この満開の大桜を目にした、俺以外の人間の表情に、少し興味があったのだ。双眼鏡の目を当てる部分に墨が塗られていないことを確認してから、俺は双眼鏡を覗き込んだ。
その人は女性だった。桃色の長髪を風にたなびかせ、枝の先へと歩いている。その背格好からして、中三くらい、つまりは俺と同い年くらいの女子だとわかる。透き通った空のような真っ青な服を着ている。外見だけを見れば桜の精と言っても差し支えないくらいの華奢さであったが、どこか様子がおかしい。
目はうつろで、どこにも焦点が合っていない。裸足であり、足にはケガをしているのか、細く長く赤い線が見える。彼女はどんどん枝の先へ、細い方へ、彼女の体重を支え切れなくなる方へと歩いていく。ぎし、ぎしぎし、と枝が悲鳴を上げる。
「おい! 何してんだ!」
俺は大声を張り上げる。彼女のいる場所まで、高さにして70メートル、距離にして200メートルほどか。声が届かないのか、彼女がこちらに気付く様子はない。その時、彼女が、今朝夢で見た人物にどことなく似ていることに気付く。
「ぐッ!?」
続けざまに鉄バットで殴られるような衝撃が脳を揺さぶった。ぐらぐらと視界が揺れ、オーバーヒートしたレンジのようにバチバチバチと雷を発しながら世界が明滅する。桃髪をかき上げて微笑む少女、水色のタオルで汗をぬぐうアイス売りの男、青葉の茂る大桜、アスファルトに転がる少年を蹴りつけるどす黒い革靴、うつろな目でマンションのベランダの柵をまたぐ黒塗りの男、狼のような鋼製の銀仮面をつけた人間、それらの視覚的情報が走馬灯のように次々と現れては、消えた。
身を切るような痛みと心の奥底から湧き上がる負の感情をなんとか抑え、再び顔を上げる。彼女はもう、いつ落ちてもおかしくないような枝の先端にいた。俺は、それを見て見ぬ振りできるほどの冷静さは持ち合わせていなかった。
「ちっ、許してくれよ、神様ッ……!」
俺はお社のそばにあった大きな蛙の石に飛び乗り、お社の屋根へと跳躍した。すんでのところで足が届かず、屋根の縁を両手で掴んで何とかよじ登り、体制を整える。
枝の上で彼女が踏み込んだ右足が枝を外れた。とたんに彼女の体は傾き、落下を始める。枝を掴もうだとか、どうにかして体制を立て直そうとする意志は、どこにも感じられない。
「くそッ!!」
俺は闇雲に駆け出す。舞い踊る桜の花弁が、俺をあざ笑うかのように視界を塞ぐ。落ちていく彼女は頭を下にしてもはや完全に逆さま、地面に対して垂直になっていた。彼女に当たる太陽の影は、一瞬ごとに彼女を塗りつぶしていく。このままだと、このまま彼女が地面に激突すれば――――彼女は確実に、死ぬ。
「うぉおおおおおおおおっ!!!!!」
お社の屋根の一番端、大桜にもっとも接近している場所で、俺は思い切りジャンプした。落下していく桃髪の彼女を完璧なタイミングで空中で抱きとめ、跳躍した勢いのまま大桜の幹に向かって飛んでいく。桃髪の彼女を抱きとめた衝撃でスピードが落ちてはいるものの、このまま幹にぶつかれば俺も彼女も無事では済まない。俺はなんとか空中で体を捻り、大桜の幹に背中から激突した。その拍子に、ポケットに入れていた五円玉が吹っ飛んでいく。俺は、彼女をしっかりと抱えたまま、ずるずるずる、と幹をずりおちる。10メートルほど滑り落ちてどう、と地面に倒れた。彼女を見ると、彼女は、静かに、しかし確かに、息をしていた。生きている。
俺は肩をなでおろし、ため息をついた。自分でもなぜこんなに必死になったのかはわからない。俺は彼女を本能的に助けたかったのかもしれない。俺と彼女には、なんらかのつながりがある気がした。
彼女の顔を、そっと見る。ちょっと顔色は青白いが、全体的に優しそうな顔立ちだった。下がり眉に細い鼻、薄い唇小さな顎、目は、今は閉じているのでわからないが、さっき双眼鏡で見た感じだと、結構大きい目だった。少女漫画的、といえばわかりやすいだろうか。少し気弱なお姫様、そんな印象だ。桃色で長い髪は、さらさらというよりはふわふわに見える。その髪があんまりきれいだったので、俺はなんだか気恥ずかしくなり、後ろ髪はもう跳ねてないよな、と左手で後頭部をなでる。
――ぬる。
べっとりした重油を触るような感覚がした。左手にはぬっとりと、赤い液体がついているのがわかる。血の気が一瞬で引いていく。血だ。どこかでぶつけたんだ。幹だろうか。
真っ白だったYシャツは紅に染まり、袖からはぽたぽたと赤の滴が垂れていた。キィーーン……と耳鳴りが響き、視界が明転し、ぷつん、と何かが切れる音がした。そして視界は、唐突に暗転した。