楽園喪失
単発のバイト帰り俺は酒を飲み上機嫌で家路についた。鍵穴に自宅の鍵を差し込む。入らない。
「酔いすぎたかな・・・」
何度もその行為を繰り返すが、いっこうに鍵は入らない。俺は鍵を開けることを諦め、インターホンを鳴らすことにした。チャイムがなる。応答がない。もう一度鳴らす。やはり応答はない。
おかしい。寝床に入るにはまだ早い時間である。間髪入れず何度も繰り返し鳴らした。
扉に向かう足音が聞こえ、ついに家人が顔をみせた。チェーンロックをつけたままの扉の隙間に見える顔に俺は全く見覚えが無かった。
「佐藤宅ではないでしょうか」
俺はおそるおそる尋ねた。
「佐藤さんなら今日引っ越されましたよ」
迷惑そうな表情を浮かべ、家人は答え、扉を閉めた。
なんということだろうか。俺の両親は俺に告げることなく、まさに今日家を引き払いどこかに消えてしまったのだ。茫然自失である。混乱する頭の中で打開策を絞り出す。ポケットを探りスマートフォンをにぎった。アドレス帳から母親の電話番号指定しかける。
「この電話番号は現在つかわ・・・」
非情にも流れてきた音声は俺を絶望させるに十分なものだった。父親にかけたところで同じ音声が流れるだけだろう。
「ああああああああああああああああああ」
何て計画的なんだ、俺がいない間に引っ越し、しかももう入居者もいる。おまけに電話番号も変更だ。完全な絶縁である。
なぜこんな目に合わなくてはならないのか。俺が何をしたというのか。ニートだからか。小遣いだと渡されたあの金は手切れ金だったのか。
俺は楽園を喪失した。
俺はしばらくの間、ただ立ち尽くした。やがて、地下鉄がまだ動いていることに思い至り先ほどまで飲んでいたgirl's bar "paradise"に戻ることにした。
俺はここのキャストのリンゴちゃんに入れ揚げている。彼女とは男女の関係にもう一押しでなれそうなのである。今の俺の可哀想な境遇でゴールインまで行ける。そうポジティブな気持ちが湧いてきた。
もうすぐリンゴちゃんは上がりの時間である。"バイト代"と"手切れ金"の大半を使い果たし金の無い俺は、その時間がくるのをparadiseのあるビルの前で待つことにした。はたして彼女は現れた。
「リンg」
名前を呼び終わる前に彼女は俺の方を一瞥しビルの中に戻っていった。1分2分ほどのち今度は強面の男を連れ彼女はビルを出て俺の方に近付いて来た。俺は身構えた。男はその強面に似つかわしくない穏やかな口調で
「キャストへのつきまといはハウスルール違反ですよ」
と言った。
「あ、いや・・・」
なんとかリンゴちゃんに俺の窮状を伝えようと彼女の方を見る。リンゴちゃんはもの凄く嫌そうな、ゴミを見るような目で俺を見ていた。
「出禁です」
「えっ・・・?」
「出入り禁止です」
強面から静かに告げられた。本日2度目の楽園喪失、まさにparadise lostである。禁断の果実、食べていないのに。
俺は途方にくれ繁華街をさまよった。明日をどう迎えるかそれだけを考えていた。金も何もない。このままでは野宿だ。1日どころではない。これから先もである。
美しい声が聞こえた。繁華街の騒がしい雑踏のなか俺に向けての言葉だった。
「行くあてが無いのだろう」
女がいた。黒髪ロング。黒のライダース。弾けんばかりの2つの膨らみ。傍らには黒いバイク。
さっきまでの喧騒は消え、俺と彼女しかこの空間にいないかのようだった。
「私のもとへ来い、修一」
俺の名をなぜ知っているのか。それが疑問だったが。とてつもない美人にナンパされているのだ。そんなことは些細な問題だ、どうでもいい。これまでの悲劇は今この瞬間の布石なのだ。
俺は彼女の方向へ一歩足を踏み出した。
その時轟音と共に一台の車が、俺と彼女しかいないこの空間に現れた。
俺は突然の侵入者に体を固くした。
車は真っ直ぐ弾丸のように女の方へぶっ飛んでいく。その射線がまるで走馬灯のように俺の目に映る。体がすくみ女の方へ駆け寄ることができない。車はバイクをなぎ倒し、女を下にひき、10メートルほど進み止まった。
全てがスローモーションだ。赤黒いシミがゆっくりとアスファルトに広がっていくのが見えた。
「ヒッ・・・」
呼吸が荒く、思考が定まらない。
「早くこっちに来い、佐藤修一」
怒声が聞こえた。声の方に顔を向ける。2メートル近い筋肉質の大男が女をひいた車の側にたっていた。
(こいつも俺の名前を)
混乱は俺の体をいっそう硬直させた。
「私のもとへ来い、修一」
反対側からひかれたはずの女の声がした。
目を向けると、そこには傷ひとつ無いライダース姿の女が宙に浮いていた。
(そんなばかな)
「早くしろッ」
男の声が響く。俺の足は恐怖で動かない。
その時、車の後部座席のドアが開き、小さな影が動いた。その小さな影は俺に対して一直線に向かってくる。速さで一体何が近付いて来たのか分からなかった。しかし、俺にもっとも接近した時それがなんだったのかを視認することができた。小柄な無表情の少女がドスを構えるがごとく脇腹に何かを突き立てる。
「あっ・・・」
体全体が大きな衝撃に包まれ俺の記憶は途切れた。