文章において一番大切な「文章力」というもの
結論から述べると、私は「文章力=思い遣り」であると思っている。
私はそれを俳句という文学から学んだ。俳句とはたった17音で言いたいことを言わねばならない。しかし、17音で説明できる情景など高が知れている。
そこで、俳句では読者によって景を完成させるという形態を取っている。作者は多くを語らず、読者の想像力によって足りない部分を補完するのだ。
一例として私の俳句を一句だけ紹介する。
羽ペンに鳥の名を聞く夜寒かな
この句において、私が与えた情報は「羽ペンに鳥の名前を聞いている。そんな寒い夜(厳密には、冬のようになってきたと感じる夜)だ」ということだけである。
しかし、読者であるあなたの頭にはそれ以上の情報があるのではないだろうか。例えば羽ペンの色は白だとか、その羽は鳩の羽(実際に何鳥の羽なのかは別として)だとか。
さらに、人によってはその先まで想像する。そんな夜に羽ペンで何をしているのだろうか、手紙だろうか、誰に宛てて書いているのだろうか。そういったことを。
しかし、これは作者が適度な情報を与えた場合のみ生じる現象である。過度に情報を与えると想像の余地がなくなるし、情報が足りなければ何も想像できない、または想像が作者の手の届かないところまで広がってしまう。
よって、作者がすべきことは、相手が想像しやすい情報量によって句を構成することである。そして、その「適当な情報量」とは読者を意識する=読者への思い遣りによって形成されるものだ。
何もこれは俳句のみに通じることではない。小説でも同じだ。
「江戸時代の町並み」「中世ヨーロッパの町並み」で、読者が理解できるならそれで良い。「A県B市Cの端にあるD百貨店のような店」と言えば情景は具体的だが、まず伝わらないだろう。
だが逆に、読者が理解できるのならどんな難しい単語だろうと使えば良い。誰も困らないし、自分の表現の幅が広がることだろう。
つまり、俳句でも小説でも、読者がその作品を構成しているのだ。ならば、すべきことは見えてくる。
自分に文章力がないと思っている人は、自分の文章を読み返してほしい。その文章で言いたいことは伝わっているのかどうか、見直してほしい。
そして、作者は読者を大切にしてほしい。pv数が少なくても、その作品を確かに読んでくれた人がいるのだ。
さらに、読者は作者の意思を全力で受け止めてほしい。あなたには、文章を完成させる義務があるのだから。
どうか、思い遣りにあふれた優しい世界を。