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闇夜の死霊〜人形の肩越しに〜

作者: 大庭園

 腕のいい超能力者なら「死霊」と即断できただろう。

 霊能力が目覚めて間もない津田隆介16歳にも、少しずつ、状況が飲み込めてきた。

(生臭いな。女の霊か?)

 午前1時32分――。自宅二階の自室。

 月明かりが入ってこぬよう、雨戸を閉めた。電気はすべて消した。豆電球だけつけておく、ということもしない。電球はひとつ残らず消して、部屋を完全に真っ暗にした。

 そして、午前一時にベッドに入った。

 30分ほどで、隆介のまぶたは重くなった。

 心地よいまどろみが、意識をやわらげてゆく。夜の海水を思わせる暗闇を、隆介の意識はしんしんと沈んでゆく。意識はそっと眠りの底についた。これから一晩、ここで体を休めることになる。そろそろ夢でも始まり、異世界を演出してくれるにちがいない。それとも、意識は眠りの底の砂をもかきわけて、さらに深く沈んでゆくのだろうか。夢すらない眠りの没頭へ――。

 だが、五分と経たずに目が覚めた。

 瞼を開けると、暗闇の向こうに、自室の天井が見えた。

 部屋の空気が、しんしんと乱されている――。部屋の中に、黒い霧状のものが、侵入している―。

 霧は、天井をすり抜けてやってきた。眠っていて気付かなかったようだ。隆介が目を開けたときにはすでに、霧は自分を構成するすべての要素を、部屋へ侵入させていた。

 他人の家へ入ることへの躊躇や、中に住む住人への遠慮は、まるでない。自分がこの家に入り込み、人を呪うのは当然――そう言いたげだ。

 霧の周囲にある空気は、冷やされると同時に、ぬるく暖められて、横へどかされてゆく。生暖かい空気は、電気をつけていないから、という原因ではなく、別の何かによって、黒みを増している。そして、ドブ川の水流で舞うヘドロのように、寝ている隆介の上を漂う。

 霧はこの空気で場を埋めつくして、「ここは自分の部屋である」という隆介のよりどころを、穴だらけにしている。

 隆介がくるまっている布団では、霧が発する寒気をはね返せない。霧の寒気は、布団の繊維をすり抜けて、なんら弱まることなく、隆介の体へ到達する。瞬時に皮膚は冷やされ、鳥肌が全身へ広がる。この寒気は、体温では対抗できないようだ。皮膚の下の、暖かい血が流れる体までも、急速に冷やされてゆく。筋肉や脂肪、そして骨の芯まで――。寒気は、隆介の体のどこへでも、意のままに侵入してくる。布団の暖かみは寒気に負けて、どこかへ消え去ってしまった。

 氷山のそびえる氷の世界へ、一人取り残されたような気分になる。だが、氷の単純な冷たさとは、少しちがう。霧の寒気には、悲しさがある。それでいて、生暖かさも含んでいる。

 十分に寒気を浴びせた後で、霧はふわりと乗しかかってきた。

 布団越しに腹の上に乗られたことになるが、重さはまったく感じない。感触がまるでない。だが同時に、鉄球のようなずしりとした重みが、腹を圧迫しているのも確かだ。実際、布団は二つの足が乗っているように、二箇所がへこんでいるではないか。

 生臭い匂いが、隆介の鼻をついた。この生臭さには覚えがある。

 隆介は三ヶ月前に、人生初めての恋人ができた。16歳。同い年の少女だ。付き合って一週間そこそこで、彼女とラブホテルに入った。

 そこで、大きな落胆を味わった。

 隆介が想像していた性体験に比べて、現実の性体験は、味気も、可愛らしさもなかった。女性の裸は、小さなものでも、すべすべしたものでも、やわらかいものでもなかった。隆介は、女性の体とはつまり、男性の体に丸みを少しつけただけの肉塊だと知った。

 なによりも、女性の体に触れてまっさきに得た印象――「なんて生臭いんだ」。

 鼻をつく、あの生臭さ――。

 その生臭さを今、この霧が発している。間違いない、女性の死霊だ。

 霧の生臭さは、布団の上を這い回り、そして中へ染み込んできた。隆介の体へ到達すると、生臭さはヘドロのように湿っぽくなって、隆介の体を這いずり回った。

 寒気に生臭さも加わって、隆介の精神は恐怖による沈黙から、死霊への対抗心に変容した。

 このままでは、身が持たない――。

 隆介は枕から頭を上げ、布団の上にいる霧を目で確認した。形は人間だ。シルエットはやわらかい。やはり、女性の霊だ――。

(やり過ごすことはできないみたいだ)

 暗闇に目が慣れるように、目は、霊を見ることにも慣れるのだろう。霧状の人間の細部が、少しずつはっきりしてくる。布団の上に、女性が立っている。黒髪を後ろへ束ねて、黒いスーツを着ている。女性の二つの足の裏が、布団越しに隆介の腹部を圧迫してくる。

(今年の四月に、どこかの企業に就職した新人のOLさん?)

 女性は、うなだれている。今にも涙を流して、苦労話を始めそうな雰囲気だ。

 顔立ちも認識できるようになった。見れば、鼻筋はきりりと通っているし、目もきれいだ。髪の毛もしっとりとしている。この女性は十分、美人の部類に入ると思うが――。

 表情から察するに、社会に適応できずに、思いつめて自殺した――そんなところだろうか。自分が味わった苦しみに気づいてほしい。自分の苦労話を、誰かにトコトン聞いてほしい――女性からは、なりふりかまわず助けを求めるような、焦燥と混乱を感じる。

(僕は高校生なので、就職して働くことの辛さはわかりませんが、あなたは本当に苦しんだんですね――とでも言えば良いのかな?相手を受け入れるようなことを言ってあげなくちゃ)

 無神経な説教をすれば、悪意のこもった憑依をされるかもしれない。このような霊は、本人が納得ゆくまで、話を聞いてあげたほうがいい。朝になるまで付き添ってあげれば、悪さはせずに去ってゆくだろう。この女性が思い描く理想の親になって、理想的な受け答えをしてあげればいいのだ。

 女性は美人である。そして、うなだれている。この二つの事実だけを見て、美人なおかげで得をして生きてきたくせに、自分だけが不幸とうぬぼれている。甘やかされて育ったから、軟弱な心しか持てずに自殺したのだ――などと早急に分析し、言いくるめようとするのは危険だ。

 心を刺激せず、苦しみに深く共感し、ともに泣いてあげよう――。

(いや、待て!)

 隆介が心の中で、自分に向かって叫んだ。

 女性の肩越しに、もう一人、女性がいる。

 前方の女性に隠れるように、肩越しからこちらをのぞいている。前方の女性の体で自分の全身を隠し、顔の、両目から上だけを出して、こちらを見ている。

 肩越しにこちらをのぞく二つの目には、自信がない。この女性が、自分の姿を見られることに、激しい抵抗を感じていることがわかる。目は、女性の持つ不安と混乱を、はっきりと示している。美人とはほど遠い容姿で生まれたのだろう。自分に自信がなく、非社交的で閉鎖的な生活サイクルを繰り返した女性であることが、容易に推察できた。

 髪の毛は一部分しか見えていないが、前方の女性と同じ黒髪のようだ。が、束ねてはいない。そのまま垂らしている。伸ばし放題といったところだろう。この後ろの女性は、髪の毛の手入れをほとんどしたことがないと、隆介は直感した。

(後ろの女の重みなんだろうな)

 腹部を圧迫してくる、ずしりとした重み。これは前方の女性のものではなく、後ろの女性の重みだ。体重といったものではなく、悲しさの重み。虚しさの重み。憎しみの重みなのかもしれない。

 いや、それ以外の何かが、この重みを生み出している気がする――。前方の女性は差し置いて、隆介は後ろの女性を見た。注意深く、目を合わせる。女性の目つきを観察する。彼女の目つきから、その心の深遠を察すれば、重みの答えがわかるかもしれない。心の深遠を見出してしまえば、それを形にすればいい。

 この目つきが語るもの――

(疎外感)

 隆介は察した。答えに、にじり寄った。

(途方もない疎外感。未来を想像できない疎外感。生きている間中、味わい続けることがはっきりしている、逃げようのない疎外感。希望がなく、改善も見込めない)

 この女性が、悲惨な人生を送ったことが見えてきた。

 最初は黒い霧として現れた。彼女は、自分が悲しい人生を送った事実を、誰かに知ってほしいと願っている。「私を見て!」と渇望しているのだ。その一方で、惨めな人生を送った自分を恥じている。「私を見ないで!」と悲鳴をあげている。

 自分のことを見て欲しい。だが、直視はされたくない――彼女の葛藤が、その姿を黒い霧に変えたのだろう。

 そして自分の前に、本来なるはずだった自己の姿を浮かび上がらせ、その後ろに隠れているのだ。前方の女性は幻であり、死霊ではない。死霊は後ろの女性だ。

(それならば――)

 隆介は、死霊と目を合わせたまま、イメージを膨らませていった。

(俺みたいなブ男君に慰められても、成仏できないだろうからな)

 自分の顔を変えてゆくイメージ――。隆介の目は一重だが、これを二重に変更する。自信と誠実さを併せ持った、大きな瞳ができあがった。低い鼻も、高くしてゆく。西洋人を思わせる誇り高い鼻になった。たるんだ輪郭も引き締めてゆく。短い手足も、すらりと長くする。

 ギリシア彫刻を思わせる、優美なたたずまいの美男子が現れた――女性には、そう見えているはずだ。

 隆介は、自分の口は動かさずに、美男子に話をさせた。

「辛かったね」

 話しかけられるや、女性の瞳が生き生きと輝き始めた。私はこれを待っていた――といった表情だ。

 美男子は言葉を続ける。

「君は疎外されてなどいない。君は一人ぼっちじゃない。君みたいな女性がいることを、僕は知っている」

 隆介は、美男子を起き上がらせた。このまま彼女を抱きしめて、暖めてあげれば成仏――

「私は、お前が触れるような存在じゃない!醜い劣等種は私の視界に入るな!」

 前方の女性が、顔を上げて叫んだ。

「醜い劣等種に成仏させられるぐらいなら、私は死霊としてさまよう方を選ぶ!私にもプライドがある!」

(俺がイケメン君を操ってることに気付いてる!)

 期待のこもった目で美男子を見ている後方の女性とちがい、前方の女性は、美男子を見ようとはせず、布団で寝ている隆介をにらみつけてくる。

 二人のまとまりのない反応を、どう解釈すればいいのか――。

 死霊の瞳の輝きは、美男子に出会えて興奮している――という、単純なものなのだろうか。確かに、美男子の幻を作った途端、彼女の瞳は輝いた。だが、その輝きの奥に、星のない夜空のような、味気ない闇を感じるのだ。逆らうことをやめた闇――。悲しい人生に疲れ果て、「普通」と呼ぶものをひとつひとつ諦めてきた人間の、疲れ果てた諦めを感じるのだ。 

 死霊は、美男子は幻であると気付いている――。幻とわかったうえで、抱きしめてほしいと願っている。この幻に寒気を払ってもらって、暖まって、はやく成仏してしまいたいと切望している――。

 死霊の瞳の輝きには、二つの意味が混ざっているのだろう。美男子に会えたという喜びの輝き。そして、美男子が幻と知りながらも、はやく楽になってしまいたいという、諦めの涙の輝き。私を受け入れてくれるのなら、幻でもいい――と。

 その一方で、美男子の本体は隆介である――ということに、死霊は激しい抵抗を感じているのだ。隆介はおせじにも、女性から歓迎される容姿ではない。そのため死霊は、女性としてのプライドから、隆介に抱きしめられることへの抵抗を感じている。その抵抗が、前方の幻に表出しているのだ。

(それならば――)

 作ったイメージを切り離す。美男子と、自分とのつながりを消してゆく。自ら思考する、単独の存在としての美男子を、そこに置く。

(このイケメン君は、僕とは無関係だよー)

 独立の存在だ。自分とは何の関係もない。

 美男子に抱きしめられるということが、隆介に抱きしめられるという要素を含むことはない――と、死霊を説得する。同時に、美男子を近づけてゆく。美男子は両手を広げて死霊を抱きしめようとする。

 前方の女性が隆介に向かって叫ぶ。

「お前なんかに触られたくない!」

(だよねー。そりゃそうだ)

「劣等種は近寄るな!」

(近寄るのは僕じゃないよー。安心してねー)

「来るな!」

(イケメン君、頼むぞ!)

 死霊を、美男子が抱きしめた。その瞬間、美男子は球体になって膨らんだ。そして生き生きと、白く輝き始める。心臓のように脈動しながら、部屋いっぱいに膨らんでゆく。寝ている隆介も球体に包まれた。とても暖かい。冷え切っていた体が、暖まってゆく。

(こんなのに抱きしめられたら、さぞ安心するだろうな)

 そう思いながら、隆介は二人の女性を見た。

 前方の女性は、驚いたような顔をして、呆然としている。

 後ろの死霊は、目に涙を浮かべている。自分の人生に、本当に疲れていたことが見て取れる。彼女は今、ようやく成仏のときを迎え、心の安寧を手に入れたのだ。

 球体は少しずつ収縮し始めて、死霊を包み込んでいった。

 最後はテニスボールほどの小さな星になり、急上昇して天井を突き抜けて去った。

(終わった――)

 部屋は再び真っ暗になり、静まり返った。空気の乱れも、もうない。生臭さも消えて、球体の温もりだけが、隆介の肌に残っている。

(よかった、よかった。ふうー)

 目を閉じて、再びまどろみの中へ沈んでゆく。

 隆介は夢を見た。

 自分が死霊となり、本来なるはずだった自己の幻に隠れながら、霊能力をもつ女性の枕元へ向かう夢を――。

 

  



 


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