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『繁栄~明日を切り拓くための人類10万年史』(マット・リドレー)vs『食糧の帝国~食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』(エヴァン・D・フレイザー&アンドリュー・リマス):(新書)

長い上にまとまりにも書くので、読まない方がいい。

 最近、気になる新書があるので読んでみた。アマゾンで適当にネットサーフィンしていたら発見した。多分、アマゾンでなければ置いてなかっただろう。思うのだが、アマゾンができて本屋は売り上げが落ちたのではないだろうか? これだけの品ぞろえに対抗できる書店など国立国会図書館くらいじゃないかな。本屋は本屋で細々ながら存続していくと思う。だいたい、本屋で取り寄せると2,3週間は待たされるのに、アマゾンなら次の日か遅くて明後日だ。これでは本屋も衰退してくのも仕方ない。

出版業界は置いておくとして、両書とも久しぶりに読んで良かったと思える重厚な内容だった。

 とりあえず、まずは『繁栄』から大まかな内容の紹介を。

 この本は世間に蔓延る悲観主義を合理的・科学的な視点から徹底的に打ち砕く本である。悲観主義とは、主に「このまま環境破壊が進めば人類は滅亡してしまう!」というような人たちである。また「経済の発展に伴って人々は拝金主義的になり、道徳が失われてしまった!」という人たちのことも指す。

 こういった主張を打ち砕くために、まずは人類のテクノロジーの進歩を10万年前から俯瞰して眺めることから始まる。そのテクノロジーの進歩を強力に推し進めたのが「交換と分業」であると本書は主張する。人類が他の動物と違うところとして、普通は「言語能力」とか「知能」とか「道具を使う」ということが一般的に知られていることだろう。しかし本書の主張ではそのどれもが動物も(原始的とはいえ)持っている能力であり、人間との決定的な違いにならないとしている。

 ただ、「交換」は人間だけにしかみられない特徴で、これこそが人類の発展を決定した、というのだ。この説自体が科学的に証明されているのかどうかはよく分からない。ただ、確かによく考えてみると「交換」する生き物は人間くらいしかいない。最も、植物のように地中の細菌と栄養を交換し合っている場合もあるが、それは少し本質が違うか。とにかく、交換こそ人類の進歩を大きく促した、という主張は確かにある程度は正しいと思う。実際に交換によって複雑な社会が構築され、やがて貨幣の登場によってそれはさらに加速してゆく。

 考えてみれば物凄く簡単なことだ。交換しないとどうなるのか? 自給自足するしかない。これはとても大変なことで、毎日食べ物、水の確保をしなければならない。そう、休みなく毎日だ。ブラック企業どころの騒ぎではない。住む場所の確保も非常にめんどくさい。こんなことを毎日一人でやっていては生きていくのに精いっぱいで、そこから何か文明が発展していく余地などどこにもないだろう。交換によって、たとえば農民は農業に専念して農作物をたくさん作り、あまった穀物を魚や肉や服やその他もろもろの日用品と交換することができる。交換によって、ゼロサム以上の効果がもたらされるのだ。

 この「交換と分業」こそが人類が他の動物と決定的に違う点であり、人類の発展を促した、という本書の主張は、シンプルで分かりやすく、また様々なデータから解説しており説得力があった。

 文明の発達、人類の発展の歴史というと、だいたい農業の開始から始まっていることが多い。本書も農業の開始によって確かに人類の発展の速度はさらに早くなったことは認めている。だが、本書では農業ですら「交換と分業」の延長線上に起こったイノベーションでしかない、という位置づけだ。つまり、「食糧の生産を他の生物に任せる」ことが農業の本質であり、これは交換(農作物は世話してもらい、代わりに農産物をもたらす)と分業そのものに他ならない。

 その「交換と分業」を観点に、人類の歴史を見直したのが本書の半分の部分にあたる。タイトルには『10万年史』と刻まれているが、実際には10万年前についてはあまり触れられていない。ただ、長い狩猟採集生活の間に、人類は「交換と分業」に基づく社会を構成しており、これが後の農耕へとつながっていった。そういった始まりとしてサラッと触れられている。

 このあたりの歴史に関しては、前に読んだ『銃・鉄・病原菌』でも触れられていたので、その内容もオーバーラップしたりした。『銃・鉄・病原菌』も、狩猟採集社会は一般人が思うよりも高度な社会を築き上げており、相当な遠距離とも交易があったことを描いている。

 本書『繁栄』を読んだとき、日本はどうなのだろうか、という考えが頭をよぎった。日本の農業開始は相当遅く、ほぼ縄文時代が終わって同時期に農業、金属器、文字などが輸入されている。日本は大陸と距離があるが、太平洋のど真ん中くらいで隔絶されているわけではない。隔絶のせいで、古代以前の日本は後進国だった。それに比べて当時の朝鮮半島は、先進国は言い過ぎにしても、日本よりも先進地域だっただろう。その内、朝鮮半島を経由して大陸から様々な文化、技術が伝えられた。このあたりは、船の技術進歩とかの関係もあるのだろう。ただし、中国、朝鮮半島は時代が下るにつれて段々と旧態依然とした後進国へと後退していくことになる。特に近現代以降はそれが顕著だ。逆に日本は一番早く近代を迎えることになる。江戸時代も世界的な交易は大々的に行ってなかったが、それでも一部文物は日本にもたらされた。また、日本国内の長期間の平和によって、国内では、まさに「交換と分業」がかつてない規模で行われるようになった。経済が発展し、都市ができた。江戸は当時の世界でも有数の人口100万都市になった。江戸時代は対外的には閉鎖的な時代ではあったが、国内では割と開放的だったのではなかろうか。織田信長が行った政策は「関所の撤廃・楽市楽座」である。中身ももはや言わずもがなだろう。生産、流通、販売の各所にあった利権や障壁をすべて廃止したのだ。信長は金山銀山を持ってなかった。他の有名な戦国大名はだいたい持っている。しかし、いくら金銀を持っていても、それが「交換と分業」を通じて実際の”富”につながらなければ、何の意味もない。それは本書でも「資源の呪い」という言葉として出てくる。とにかく、信長の政策はその後も引き継がれ、江戸時代の平和と繁栄の基礎が築かれた。秀吉の政策「刀狩」も、分業のひとつだろう。もちろん、本音としては「農民がお上に反抗しないように」という意図があったし、むしろそっちが主な意図だったに違いない。それでも刀狩によってまさに「農民と武士」という身分が明確に分かれ(それでも郷士などグレーゾーンは残ったが)、それぞれが「分業」していくことになる。兵農分離によって、農民はもう戦争に駆り出されなくてよくなった(ていうか戦争自体がほとんどなくなった)。日本史を見てみると、確かに「交換と分業」を推し進めた政権が結果的に天下を取ったのだ。

 本書の著者は専門的な経済学者ではないが、どうやら読んでいると基本的には自由経済のスタンスのようだ。ちょっとあまりに何でもかんでも市場に任せすぎではなかろうか、と時々思った。確かに、基本的には市場に任せた方がいいと私も思う。しかし、過労死やらブラック企業の問題を見ていると、市場に任せてもうまくいかないことは多い。著者は「物品は市場経済でうまくいくが、金融市場は投機的動機がはたらくためにある程度規制が必要かもしれない」と言っている。私は物品もそうだが、特に労働市場も規制が必要だと思っている。労働者と企業は市場で対等な取引相手ではないからだ。

また独占した企業も、消費者に対して圧倒的に優位に立つことから規制されている。何の市場が、というよりは、市場における力関係の不均衡を均す規制(もちろん、「交換と分業」は妨げない)はどこでも必要なのではないだろうか。結局、力関係の不均衡はそのまま一方的な利権を生み出し、全体の「交換と分業」を妨げる。結果、交換ではなく強奪が行われるようになる。今のテレビ業界とかまさにそうだ。電波利権で数社が業界に胡坐をかいている。生産される番組はだいたい芸能人が何か食べている番組ばっかりだ。あとは学校の教科書の中身をそのまま持ってきたクイズ番組か、芸能人が集まってしょうもない話を繰り広げるバラエティーか、動物モノか。ニュースは、一昔前はひどい偏向報道だったが、最近は少しマシになってきている。全体的にテレビ業界は利権とよく分からない自主規制でダメになっていった典型例として経済の教科書に載せてもいいくらいだ。新規参入も全くない。逆に最近の海外ドラマは、規制を緩くしたケーブルテレビの登場で今までにないほど賑わっている。元々、映画産業が盛んなアメリカだから、そういう映像作りのノウハウはあるし、人材も溢れていたのだろう。そういう点を差し引いても、日本の映像産業はやっぱりダメだ。新規参入なんてほとんどない時点でダメだ。若者のテレビ離れとは逆に盛況なのは、ニコニコ動画か。映像ではないが、ピクシブも人気だ。そしてこのサイトも人気だ。認めたくはないが、人気だ。そんな人気の一部すら来ないことに不満を感じないではないが、確かに人気だ。それは認めなくてはならない。だから認めてやるよ、チクショウめ。今や情報発信の場は完全にテレビからネットへ移っている。そこは新規参入なんてレベルではない。誰もが情報を発信できる。参入障壁は究極のゼロなのだ。新規参入はどんどんやりやすいようにすべきだろう。最近は東電問題で「送電分離」が取りざたされたが、送電分離はやはりやるべきだと思う。何でも自由経済、とは言わないが、自由経済という競争にさらされなければ、ああも腐敗してどうしようもない会社になってしまう。そういう意味では公務員などももっと参入障壁を低くすべきだと思う。まずはキャリアとノンキャリの区別を完全に廃止することだろう。それから、できればもっと民間からの採用を増やすということか。実力ある人間の中途採用など、公務員で聞いたことがない。一般企業でも行われているのだから、公務員でもそういうことはできると思うのだが。最近橋下市長が行った教員の民間採用や区長の民間採用はダメだったが、あれはトップダウンで「これをやりなさい」と押し付けたからだろう。ピクシブ、ニコニコ、なろうサイトを見ればわかる通り、運営は「クリエーターが活躍できて、利用者が使いやすくかつ作品を評価しやすい場所」を作ればいいのであって、作品そのものを作る必要はない。しょうもないパフォーマンスのために民間採用を大々的に行う必要はなかったのだ。そういう制度だけ作っておいて、あとは現場の必要性に応じて判断してもらえばそれでよかった。

脱線しまくっていた話だったが、ここに来て奇跡的に本書の内容にも被さってきたので驚きながら本書の内容の説明を続けると、これも本書でも言われていることだ。つまり、「トップダウンではなく、ボトムアップ」である。もちろん、本書でも述べられている通り、トップダウンが必要な公共事業、社会福祉などもある。裁判や警察など、治安維持もトップが行うべき仕事だろう。ただ、市場経済に関しては、政府は基本的に市場に任せておくべきだ。私は上記で述べた規制は必要だが、経済自体にはトップはノータッチでいいという意見は全くその通りだと思う。トップが経済と結びつくと大抵は腐敗が横行する。社会主義の失敗を見れば分かるように、社会主義の下管理された経済では一部の官僚や政治家に富が集中して資本主義社会より酷い格差が発生する。今の中国などは完全にその典型だろう。表面上は自由経済だが、中の制度は社会主義のために余計ひどいことになっている。本書でも中国の経済発展について言及されており、やはり暗い予想をしている。所有権が明確に保護されていないために、やがて経済は失速すると見ているようだ。多分、そうなるだろう。今や日本企業は中国から撤退できなくて困っているのだから。

本書では政府というものに対して辛辣である。とにかく政府は無能、官僚はクソ、と連呼している。最初は私もそれに同意していたのだが、だんだんと著者も熱くなっていったのだろう、「政府なんて必要ねえ、ただの寄生虫」とまで言うのは、少し言い過ぎではないだろうか。確かに、政府と役人は無能だ。今の日本では特にそれが顕著だ。完全に民間の力で持っているだけの国だ。ただ、もし政府や役人が社会の寄生虫で何の役にも立たないなら、どうしてそれがなくならないのであろうか。ただの寄生虫ならもっと昔に無くなっていてもよさそうなものだが。結局、政府というのがないと、上記のような安全保障、治安維持が行えないからだろう。権力や社会がなければ、結局人間というのは暴走してしまうのではないだろうか。キングの『ザ・スタンド』で崩壊した世界などは完全にそうだ。終末系のフィクションもすべてそうだ。結局、権力が消えてもまた新しい権力を作り出す。人間とはそういう生き物だと思う。それこそ、ボトムアップ的に「お前が王になってくれ」という風にして。権力というものも一回よく考えてみるにふさわしいテーマだと思う。権力を得る側の心境は野心と呼ばれるが、権力として担ぎ上げる側の心理もあるし、民衆の権力者を求める心理もある。

まあ、それは置いておくとして、今まで述べてきたように、トップは最低限の仕事だけしていればいいと思う。本書の言うように、政府がなにか事業を行うと大抵失敗するし、成長産業と見込んで出した補助金も大抵はドブに金だ。著者も私も「政府も官僚も、何も余計なことはしなくていい」という意見であることは間違いない。著者は最近倒産したGMジェネラル・モーターズにも補助金をわざわざだしてやる必要はないと言うし、アメリカの農業補助金にも批判的だ。私も両方とも批判的にならざるを得ない。あれだけ「自由経済」だのTPPで「関税障壁をなくせ!」だの昔には「日本は経済を守りすぎだ!」だの言っていた国が、自国農業は補助金漬けにして、自国企業は税金で救済しているのだから、あきれ果てるばかりだ。短期的には倒産を防いだことによって雇用を確保できたかもしれない。しかし長期的にみると、そうやって甘やかしていくと必ず最後には市場経済で生き残れないゾンビ企業をひたすら延命させることになる。日本の銀行などその典型だ。何かあってもすぐに公的資金投入である。結果、国際金融市場で全くの無力な存在に成り果てた。日本政府の国債を買うだけの簡単なお仕事です。国民の貯金を守るために保護したのだろうが、いい加減国民も痛い目を見て、ちゃんと銀行を選んだ方がいいと思う。でないと利子はつけてくれないのに税金だけドバドバ注入されることにまたしてもなるだろう。TPPに関しては、「自由に貿易しましょう」という理念には賛成だが、アメリカが「自分の産業だけは保護しちゃうもんね」と言っている限りは反対したほうが無難だろう。多分、これから協議して日米双方が自分に都合のいい条件を付け合ってどこかで落とし込むのだろうが、そんな妥協の産物はおそらくTPPの理念からは程遠いものになっていることだろう。

また話が脱線してきた。今度はタイタンくらいまで脱線してしまったので、ここで今までの本書の主張をまとめていきたい。

・人類の特徴は交換にある。原始的な物々交換から始まり、それは徐々に加速して複雑な経済を作り上げていった。

・交換によってそれぞれが仕事を分業できるようになった。その結果、ますます交換と分業が進んでいった。

・交換は物だけでない。サービスもあるし、現代では情報やアイデアもある。そしてその速度はインターネットの登場によってさらに加速している。

・資本主義経済はこうやって交換と分業が進んだ結果、ボトムアップから生まれたものである。誰かが「今から資本主義をやろう!」と言い出して始まったわけではない。

・だいたい資本主義で市場に任せておけばうまくいくよ。

・交換と分業の発展により、人類のテクノロジーは他の動物には見られないような飛躍的な進歩を遂げた。


さて、最初に本書は「悲観主義に対する鉄槌」と言っていたような気がする。なにしろずいぶん前のことなのであまり覚えてないが、確かそうだったと思う。とりあえず、悲観主義の代表的な意見を今ここでもう一回まとめておく。

1、資本経済によって拝金主義がはびこり、人間にとって本当に大切なもの(主に心の豊かさや思いやりなど)が失われてしまっている。つまり経済の発展によって道徳が悪影響を受けているのではないか。

2、このまま人類の科学技術が進歩し続けた場合、環境破壊がますます進むのではないか。市場経済では人々は利己的になるので環境破壊には対応できない。不自然な遺伝子組み換え作物はやめるべきだし、化学肥料も使うべきではない。もっと自然に帰るべきだ。


なんとなく左翼系の人がよく言っていそうな意見だ。簡単にいうと1はお金と道徳問題、2は環境問題である。本書はこの二つの批判に対して徹底的に攻撃する。もう読んでいるこっちが気持ちいいくらいに。

 まず1からいこう。最近になって「国民総生産ではなく、国民総幸福度を高めよう」と言う人をちょくちょくテレビで見かけるようになったが、そんな人に対しては「じゃあ、その幸福度の高い国に移住してみろ」と言っている。「先進国は経済的に豊かになったが、心は荒んで幸福なのでしょうか?」という意見に対しては明確にデータを出して反論しており、あらゆる指数からみても経済的に豊かな国民ほど犯罪率も低い。また出生率も低くなる傾向にあるようだ。乳幼児の死亡率が低いから、産んだ子供を確実に育て上げることができるからだろう。また「貧しくて幸福とかありえないし、不幸でも豊かにこしたことはないじゃん」と一刀両断。その通り、不幸でもいいからお金欲しいです。

 例を出すと、水道のない国では一日の起床時間のうち約20%近くを「水を汲みに行く」ことに費やしている。汲んだ水は清潔とは限らない。赤痢やコレラにかかる可能性もある。また、アフリカではワニに襲われる危険もある。昔話の4行目でおばあさんはワニに喰われました、じゃどんな昔話も崩壊するだろう。ある意味、日本はそういう意味でも「水に恵まれている」のかもしれない。

 とにかく、そうやって危険と労力を顧みずにようやく水を手に入れたわけだが、その水だけではお風呂など入れるわけもない。節約しながら飲んでいく。しかし水道があれば、そんな危険や労力からは解放される。お風呂にも入れるかもしれない。水道料金を払う必要はあるだろうが、それは空いた時間を仕事に充てれば十分稼げるだろう。そして水道料金を払っても十分お釣りがくるだろう。

 これが今まで述べてきた「交換と分業」の威力である。様々なテクノロジーの進歩の歴史と一緒に、さらに詳しく説明されているから、気になる人は本書を買うことをお勧めする。いろんなことを書いてあるが、ようするにこういうことである。心の貧しさを物質の豊かさに結びつけるのは間違いだ。本書の例ではないが、東南アジアの海賊も一時はかなりの規模で、自衛隊も海賊取り締まりに協力しに行ったくらいだ。海賊の大半は地元の漁師で、昼間は通常の漁師なのだが、夜になると漁船に船外モーターを取り付けて武器を手に海賊行為を行う。地元の警察も腐敗していて、取り締まるどころか逆に賄賂をもらって見て見ぬふりをしている。もっと酷いと警察が海賊行為を支援していたりする。だが、最近になって東南アジアに工場が立てられるようになってからは、めっきりと数を減らした。物質的な豊かさは、犯罪を駆逐する。まっとうに働いて生きていける道があれば、人間はそちらへいく。すべての人間ではないだろうが、それはほとんどの人間がそうするであろうことは簡単に想像できると思う。

 一時期話題になったホリエモンのように、「金さえあればなんでもできる」ということを言ってしまうとアレだが、これも大体の場合はあっていると思う。もちろん、世の中に声を大にして言ってしまうと確実に嫌われるだろうが。ホリエモンを批判する人は是非とも時給800円のバイトでもやって生活してほしいところだ。逆にお金の有難味がよくわかるだろう。もちろん、金のための犯罪もあるだろうし、汚い金儲けもあるが、じゃあ貧しければ誰も悪いことをしないのだろうか。金は諸悪の根源ではない。本書の主張はそれである。もう一度繰り返すが、豊かな国は貧しい国に比べて圧倒的に犯罪率が少ない。データをよく見ると経済的豊かさは確実に心の豊かさにもつながっている。

 いや、むしろ、とこの著者は続ける。「むしろ資本主義経済は人々の思いやりによって成立しているんだ!」というのだ。何という勇気だろう。ここでも本書はいろんな例を挙げているが、私はアマゾンのレビューを挙げたい。アマゾンレビューをいくら書いたところで、一銭の金にもならない。ところが、実際にはたくさんの人がアマゾンにレビューを書いている。それを評価するのも、一銭の金も発生しない。資本主義が利己だけで発展してきたのなら、アマゾンレビューなど誰も書かないのではなかろうか。自分も書いてみたことがあるが、けっこう書くのに時間がかかるし、「忙しい中何やってるんだろ」という考えもときどき頭に浮かんだ。実を言うと、この本もアマゾンのレビューを見て買ってみたものだ。もちろん、全てのレビューを信用しているわけでもないし、「ダメでもともと」という気持ちもあったことは確かだ。ただ、そうやっていろんな人がレビューすることで豊饒なレビューの世界が出来上がっている。たまに荒らしが湧いたりするが、悪質なレビューは削除されるし、そうでなくとも「参考になった」票が明らかに少ないレビューは信憑性に乏しい。レビュー全体の質も物凄く高いと思う。ゲームならゲーマーがする細かい批評は大抵的を得ている。ファミ通の「金で買われたレビュー」より遥かに参考になるし、メジャー作品ならレビュー数も何百と集まるので、より正確な評価が出る。個人的にはアマゾンの星評価には参考になった度合も加味してほしいと思う。

 まあ、アマゾンの話はこれくらいにしよう。他に例を挙げるならそれこそこの「なろうサイト」もまさしくそうだ。商業化という餌も投稿者にはぶら下げられているが、別にそうでない人も多いはずだ。ちなみにこの「つれづれレビュー」に関しては、基本的に「書き散らしたいだけ」で、ピクシブで落書きをアップしているようなものとお考えいただければそれで正解だ。遠まわしに「自分は善意で書いているんだぞ」と主張しているわけではないので、ご注意いただきたい。実際にたまに自分のレビューを読み返したりすると「何言ってんだこいつ」と自分でも思うこともある。それだけ主観とノリで書いているので、くれぐれもこのレビューを鵜呑みにして語ることだけは自重していただきたい。ていうかそんな人いないだろうけど、念のため。

 とりあえず、1については大体こんなもんで。経済的豊かさは、十分心の豊かさももたらすのだ。

 さて、2についてだが、これは一見もっともに見える。反論なんてできるのか……そう思っていた時期が私にもありました……本書を読むと価値観が逆転する。

 むしろ、経済的発展は自然保護につながる。人々が都会に住めば住むほど、郊外の自然は開発されることなく、破壊されずに済む。

 悪の代名詞のように言われる遺伝子組み換え作物だが、悪いだけなら遺伝子組み換え作物はとうの昔になくなっているだろう。虫の付きにくい作物は、殺虫剤をばら撒かなくてよい、または使用量が少なくなる。そうなると、土壌に与えるダメージは軽減される。また、単一面積当たりの収穫量が増えれば、それだけ食糧生産に必要な土地の広さも少なくて済む。農地が少なくていい=その分自然が破壊されることはない、ということなので基本的にいいことだ。それに遺伝組み換え、と聞くと何やら不自然でやばそうな雰囲気がする。なら今までの品種改良は安全なのかというと実はそうでもない。昔の品種改良は掛け合わせだった。たとえば、小麦で実の大きな個体同士を掛け合わせることで、だんだんと実の大きな品種が出来上がる、という感じだ。ところが、今の品種改良は実験室で放射能を当てて強制的に突然変異を誘発させている。遺伝子組み換えの危険性を声高に叫ぶ環境保護論者はこういう事実に目をつぶっている。

 化学肥料というのもそうだ。化学肥料で一番重要なのは窒素肥料だ。全ての生物の体にはタンパク質が使われている。そのタンパク質の材料が窒素だ。窒素は空気中に豊富にあるが、それを直接取り込める植物は豆類とクローバーだけ。それ以外の植物は土中の窒素成分を吸収して、タンパク質を作っている。農業は作物を収穫して窒素分を奪ってゆくため、それを肥料で補給してやらねばならない。そこで登場するのが化学肥料である。化学肥料によって、農地を破壊せずに収穫を上げ続けることが可能になっているのだ。ちなみに化学肥料は空気中の窒素を天然ガスや石油などに含まれる水素を結合させて作られる。そう、人間は間接的に化石燃料を食って生きているのだ。そうやって化学肥料で育てられた作物は全体の3分の一以上。つまり人間の体に含まれる窒素分の3分の一は化石燃料由来ということなのだ。そしてその割合は増えることはあれ、減ることはないだろう。もはや化学肥料はもはや現代の農業になくてはならないものになっている。

 もし化学肥料がなかったら、どうなるのだろうか? 農地を休ませなければならない。耕作地と同じだけの休耕地を用意しておかねばならない。それは、その分また自然を切り拓いて=破壊して農地を増やすことを意味する。それも今の倍の農地をだ。環境保護論者は「昔の農業=環境にいい」というイメージでしか語っていない。著者は強調する。遺伝子組み換えと化学肥料は確実に環境への負荷を減らしている、と。

 この化学肥料の話で思い出したのが日本の食糧自給率だ。日本のカロリーベースの食糧自給率は約40%。昔からこの計算方法については「農林水産省が補助金欲しさに操作している」と言われてきた。肉類は国産であっても、餌が外国産だと自給率に含めない、というものだ。これは確実に補助金狙いの操作だろう。仮にこれが認められるなら、植物の餌である化学肥料が海外産なら食糧自給率には含まないはずだ。日本の農業のほとんどでは化学肥料が使われている。そうなると、日本の食糧自給率はゼロに等しい。さらに言うと、そもそも野菜などの種も海外から輸入して育てている。こうやって本当の意味で「自給自足」できている国など、本当はどこにもないのではないか。本当に食糧の自給をしたければ、戦争でもやって海外の資源を取りに行くしかない。それは20世紀前半に行って失敗した。そして各地の植民地も次々と独立し、ブロック経済は消え、世界的な交易が盛んになった。今や農業と一口に言っても、それはどっかの田舎だけの話ではなく、世界市場の中で行われていることなのだ。肥料だけではない。今どきの農業は機械類を使うことが多い。機械の原料は海外産だろうし、部品はアジアの工場で作られているのかもしれない。そして日本で組み立てて使っている。種もそうだ。そうなると、今後必要な農業政策は自給自足を目標とした保護ではなく、世界市場の中にどうやって日本の農業を位置付けるか、ということではないか。TPPで農業が崩壊するとわめいているが、ではいつになったら日本の農業は自立できるのか。

 他に環境保護論者と言えば、いわゆる「再生可能エネルギー」だろうか。この中でもバイオエタノール燃料は全くの笑いものにされている。人が食べられるものをわざわざ燃料にする。しかもバイオエタノール燃料を作るためには、結局化石燃料を燃やしている。それに見合った燃料効率がバイオエタノールにあるわけでもない。そのまま化石燃料を使えばいいのに、そこからバイオエタノールの製造、流通という余計な手間が加わる。結局バイオエタノールを使うならそのまま化石燃料を使ったほうが効率的だ。

 そしてもう一つが太陽光発電、風力発電だ。太陽光発電は、現状発電効率が低く、これで電力をまかなうとすると相当の広さの土地に太陽光パネルを敷き詰めなければならない。砂漠がある国ならそこに敷き詰めればいいだろうが、日本なら森を切り拓くしかない。それに太陽は24時間照ってるわけではない。夜はもちろん、曇りや雨の日も発電効率は落ちる。安定した供給ができない。風力も欠点は同じだ。発電効率が悪い、不安定、場所を取る。しかも風力発電は風車に鳥が巻き込まれて死ぬことが多いし、強風で折れてしまうこともある。あまり安全な発電方法でもないのだ。特に日本のように定期的に台風が来る土地では。あとは水力、波力や地熱発電か。これらは発電に適した場所が少ない。水力発電所はもう作れる場所には大抵作ってしまっただろう。

 こうしてみると、日本の反原発、というのがかなり現実を見てないというのがよく分かると思う。先も述べたように、化石燃料は「人類の食べ物」でもある。日本が原発を止めたとして、その分の電力はどうやって補うのだろうか。ほとんどが火力発電で補うしかない。そうなると化石燃料は高騰する。化石燃料の高騰=肥料の高騰=食料品価格の高騰とつながってゆく。希望としてはメタンハイドレートくらいだろうか。どれほどの埋蔵量か、詳しいことは知らないが大量に埋まってそうだし、発電にもすぐに使用できるという。廃棄物が水と二酸化炭素というのも大きい。ただし、深海から採掘して実用化までには、長い年月がかかりそうだ。

 著者も原発を高評価している。事故の可能性があるものの、限られた資源で、狭い土地で、しかも安定して大量の電力を生み出せる原子力発電所は、実は環境に優しい。元々、日本で原発が導入された理由も環境からだ。

 日本の反原発派は、その顔触れも信用できない。左翼筆頭の田嶋陽子に大江健三郎である。特に大江健三郎は過去に中国の核実験を礼賛しており、本当に原子力の恐ろしさを訴えて反原発なのか疑問だ。他のメンツも、だいたいが安っぽい反権力をやるための口実ではないのか。原発そのものの危険性と、東電のずさんな管理をいっしょくたにして批判しているのも気に入らない。国民を騙しているようなものだ。原発自体はメリットもあるし、危険性(放射性物質漏れ、廃棄物の処理など)もある。しかしそれは再生可能エネルギーでも同じなのだ。東電の利権体質を批判するが、別に原子力発電だから利権問題が生じたわけではあるまい。太陽光発電でも利権は生じるに決まっている。先も言った通り、再生可能エネルギーは軒並み効率が悪く、発電には広大な土地が必要だ。それだけの土地を買い占めて大量の設備を整える費用は原発どころではあるまい。

反東電なら話は分かる。東電の杜撰な管理の責任を取らせることと、東電の利権の解体は今すぐにやらねばならない課題だ。逆にここをうやむやにして「原発止めるから許してよ、ね?」みたいな誤魔化しにもっていくことは断固阻止しないといけない。最近小泉前首相が反原発を表明しだしたが、もしかしたら過去に東電を真黒な繋がりがあったからかもしれない。何にせよ、私は反原発派の言うことは信用していない。東電と同じくらい言っていることがいい加減だからだ。原発を悪の親玉にして、それを廃止すれば全て丸く収まる、代わりに再生可能エネルギーだ、という主張は日本軍悪玉史観、日中友好を至上価値とする左翼の基本思想に重なるものがある。

さて、日本の話を盛り込んだら、何となく話が脱線した。他にも様々な例を、データを取り上げて、環境に対する負荷は技術進歩に従って軽減されていることが示されている。単純に科学と自然を対立させるのは、やはりナンセンスだろう。こうやってバシバシと悲観主義の主張を打ち砕いていく。

さらに最後の方では特許や著作権についても触れられている。特許で保護しなくても発明やイノベーションの妨げにはならない、いや、それどころか特許で雁字搦めになって、逆に新たな発明を妨げているのではないかという懸念。著作権にもついても同様に「いばらの道」になりうる、と言っている。特許はよく知らないが、著作権は確実にそういう弊害はある。アメリカは2003年頃、著作権が発表から75年のところを100年に引きのばした。これは有名なディズニーが議会に働きかけて実現したもので、通称「ミッキーマウス保護法」と揶揄されている。2003年付近にちょうどミッキー発表から75年を迎えていたのだ。もしミッキーの著作権が切れると膨大な著作権料を失うことになるが、それだけに話はとどまらない。時間がたてばミニーもドナルドも次々と著作権を失ってゆくことになる。夢の王国を守るために、ディズニーは立ち上がった、というと何かかっこいい感じがするが、要するに自分の財布を守るために無理矢理著作権を延長した。これによって、今まで著作権を失ってした作品も新たに著作権が復活することになる。「ラプソディー・イン・ブルー」の曲もそうした著作物の一つだ。このことで一時コンテンツ業界はちょっとした混乱に陥った。結局、著作権の本来の意義である創作物の保護を通じて創作意欲を高めるどころか、利権の温床になっている感は否めない。

日本で著作権というと真っ先にコミケが挙げられるだろう。これもよく批判されるが、コミケで売っているのはあくまで「同人作品」である。同人作品というのが一般に知られていないからよく誤解されるのだが、要するにパロディ、二次創作である。これは現状の著作権でグレーゾーンになっている。

たとえば漫画をコピーしてネットにばら撒くのは著作権違反だ。そのことによって元の漫画が売れなくなるからだ。ネットでただで転がっているのに、どうして本屋で金を払って買うのだろうか。明らかに作者や出版社の商業的利益を侵害している。それに引き換え、パロディがはそうとは言いがたい。元作品を読んでいる、知っている人が、その元作品を共通認識として楽しむもので、元作品ではないからだ。たとえば、ドラクエに対する「ドラクエ4コマ漫画劇場」なんかがそれだ。出版社がちゃんとした書籍として出版する場合は、もちろん元作品の権利者(この場合はスクエア・エニックス)に許可を取ってから販売している。

しかしコミケではそんな許可は取ってない。それはあくまで個人が勝手に趣味で描いた漫画だからだ。ただ、コミケはそれで金を取っている。それで槍玉にあげられてしまう。実際に法律上何の規定もなく、宙ぶらりんの状態だ。

私はコミケでお金を取るのは別に構わないと思う。印刷所に頼んで刷ってもらうのも金がかかるし、そもそも描くのも大変だ。全て自己負担のボランティア、では誰も描かなくなるか、書き手の大幅減少は避けられまい。そういうパロディもののニッチな需要がある以上、趣味的な範囲でのお金のやり取りは許容範囲ではなかろうか。同人で家を建てた人もいるそうだが、大抵の同人は赤字でよくてトントンくらいだ。コミケの趣旨としては、書き手は自分の好きな作品をテーマに、自由に二次創作でき、買い手はこの世に二つとない漫画を買うことができる、そういった「作家ごっこ」をやることだ。また、コミケを通じて同じ趣味の人が集まることになる。これも重要なことで、人が集まることでアイデアの連鎖も生まれるかもしれない。金が介在することで、書き手は自分の作品の評価をシビアに見ることができ、本格的にプロを目指す人の修練場にもなっている。なのでコミケを廃止したら、おそらく漫画業界はかなりのダメージを受けるのではないだろうか。出版業界は、出版社を頂点とした専制君主社会で、出版社以外は奴隷しかしない。例外は出版社の側近である取次くらいである。出版社と取次が、業界のおいしいところを全部持っていき、残りで本屋や作家は生活している。よく漫画家が編集者の悪口を言っているのを聞くが、それも無理からぬ話だろう。最近の出版社は余裕がなくなって、ますます新人作家を育てる余裕がなくなっている。そんな中、コミケという修練場をなくしてしまうと、その影響は決して小さくはない。新人作家が育つ場所がなくなってしまう。また、趣味で描いている人の作品発表の場所を奪うことになる。金銭的な面だけでなく、趣味的な面でも成り立っている、というのを分かって欲しいところだ。

コミケも『繁栄』の視点で眺めてみると、完全にボトムアップの世界である。コミケにはコミケのルール、作法があるが、基本的に作品発表も買うのも自由だ。自由なボトムアップの結果、ここまで大きくなったのを、著作権というトップダウンで縛ろうとするのは、結局貴重な市場を潰してしまうだけに終わることだろう。赤松氏(『魔法先生ネギマ!』とかが有名なあの漫画家)は、著作権の項目に「黙認」の追加を提唱した。これは著作権は放棄しないが、コミケでの二次創作に関しては見て見ぬふりをしますよ、という意味だ。素晴らしいとは思うが、イチイチその作品が黙認してくれているかどうか、調べるのも大変だ。法律的に実現されると望ましいとは思うが、現実的に実施するのは不可能に近いと思う。そもそもコミケ自体、そこまでするほどたいそうなものではない。何度も言うが、アレは趣味だ。趣味を法律で規制しようとしてもつまらないだけだ。


グダグダと脱線しながらここまで来たが、要するに「交換と分業すげー」が主題だ。そしてそれは決して非人間的でも反自然でもない。人類は科学技術の進歩を信じて楽観的に生きていけるよ、ということだ。



それに一部反論する形なのがこの『食糧の帝国』だ。これは食糧の生産、流通体制が、どれほど文明の興隆を決定づけたか、人類の歴史を食の視点から徹底的に分析した本だ。

本書は前半部分で人類の食糧生産がどのようにして発展していったのか、ローマ時代から紹介してゆく。その過程で、人類の食糧生産体制は脆く、何回も崩壊を繰り返しながら、また再建されてきたことが述べられている。また、大航海時代になると本書の“案内人”とも言うべきカルレッティが登場する。この人は16世紀の大航海時代に実在した商人で、地球上の様々な場所を交易のために旅していた。彼の旅路をたどりながら、現代の食糧帝国も古代から続く問題に相変わらず直面している、というのが本書の大体の主張だ。

先の『繁栄』の言葉を借りると『食糧帝国』は悲観主義の書だ。『繁栄』の食糧生産は単純明快で、「それぞれが得意な作物を作ればいい」、つまり「分業で効率的に食糧を生産し、余った作物を交換し合う」ことで誰もがおなか一杯になれる、ということだった。

『食糧帝国』はそういう「食糧生産の分業体制」について警鐘を鳴らしている。まあ、警鐘なんて古代エジプト時代からずっと鳴り響いてるんでしょ? と大半の人間は思うだろうが、まさに古代エジプトどころかそれ以前から食糧帝国には警鐘が鳴り響いていた。

単純に、何がいけないのだろうか? それぞれが専門化し、交換と分業すれば確実にみんなおなか一杯になる。たとえば日本は米だけを作り、アメリカは小麦だけを作る。そしてそれを交換し合う。これは経済学用語でいうところの「比較優位」だ。知らない人は調べれば分かると思うので各自で調べて欲しい(説明めんどくさいから)。

とにかく、「交換と分業」で日米双方が小麦も米も豊富な食生活を送れるはずなのだが、そうは問屋が卸さない、というのが『食糧帝国』の主張だ。

まず、集中して一つの作物を作るということは、当然ながらそこの地域が天候不順に見舞われれば即全体が飢饉に陥る、ということである。経済学ではこういうことを「卵を一つの籠に入れるな」とたとえている。

そう、経済学も互いに矛盾しているのだ。『食糧帝国』では「なるべくなら地産地消がいい」と述べられている。むろん、今の時代に全てを地産地消で賄うことは無理だが、全てを分業して単一作物の栽培に頼るべきではない。結局そうなると気候の気まぐれ一つで甚大な被害が発生する=脆い食糧帝国が出来上がるからだ。単一作物の栽培による被害は農業の始まりとともにある。そして気候も常に変化を続けるものだ。しかもこうした集中的な農業を行うと、気候の変動だけではなく自然破壊も発生する。メソポタミアは今でこそ砂漠だが、古代では緑豊かな土地だった。農耕によって自然が破壊され、気候が変わってしまったのだ。

さて、『食糧帝国』では古代から続く、農業自身の根本的な問題も指摘されているが、現代的な農業も批判されている。

『繁栄』では「化学肥料も遺伝子組み換え作物もバンバン使え」だったが、『食糧帝国』では批判的だ。化学肥料は土壌のステロイドであり、一瞬の収穫向上をもたらすが、最終的に土地を疲弊させてしまう。また、遺伝子組み換え作物では農薬の使用量を抑えられるというが、結局は遺伝子組み換え作物を食い荒らす抵抗をもった害虫が新たに登場している、という。『食糧帝国』が代わりに提案するのは、化学肥料に頼らない、人の手のこもった農業、汗で作物を育てる農業だ。大規模農業ではなく、中小農家中心の農業生産体制だ。

地球の人口は今も増え続けているが、だいたい100億人あたりでストップするだろうと言われている。実際に人口の上昇率は以前ほど急激ではない。それについては『繁栄』も『食糧帝国』も意見は一致している。だが、それを養う手段についてはまちまちだ。

果たして中小農家中心の“食糧共和国”で、安定した食糧供給が行えるのだろうか。

大規模だと安価に大量の作物を生産できるが、農地を破壊してしまう恐れがある。

小規模だと効率が落ちるが、農地が破壊される心配はぐっと減る。その分、値段が高くなる。

どちらがいいのかは判別がつかない。『食糧帝国』では食糧の管理についても言及しており、国際的な管理が必要ではないかとしている。現代の食糧の供給バランスはかなり不平等だからだ。世界中で十分な食料が生産されているにも関わらず、10億人が肥満に苦しみ、10億人が飢餓に苦しんでいる。ここでも『繁栄』の自由主義経済とはだいぶ違っている。

実際にはもうこの中でうまいこと折り合いをつけるしかないんじゃなかろうか。大規模と小規模の差だって、アメリカと日本でまず違う。アメリカでは小規模農家でも、日本で同じ広さの土地だったら絶対大規模農家だろう。農地というのは世界の国で同じではない。実際に農業も国際市場に組み込まれており、国際的な競争というのは無視できないものになっている。結局は国際的市場を見据えて、各農家が競争していく、ということになるだろう。それに大規模農業法人は全部農地を守っていないというのは少し偏見ではないだろうか。収穫を見込める農地というものを整備するにも投資が必要だし、大規模農家、大規模農業法人も出来れば土地を破壊したくないはずだ。市場原理から言っても、農地を破壊したくないというのは理に適っていると思う。

農業に関しては、一番規制されるべきはアメリカの補助金だろうか。あれのせいで本来の価格より安い穀物が大量生産され、世界中へ輸出されている。結果、現地の食糧農家は他の換金作物を作らざるを得ない。アメリカは自由経済を標榜するのなら、まずは自国の異常な農業保護を止めてみてはいかがだろうか。農産物の補助金に関しては、世界的な取り組みがもっとなされてもいいと思う。この各国の勝手な農業政策は民主国家ばかりの現代において特有な現象ではないだろうか。政治家は農民票が欲しいから補助金をばら撒きたい。TPPではないが、もっと食糧生産についての国際的な取り組みは必要だろう。

とにかく『繁栄』の「分業と専門化」に対して、『食糧帝国』では「一極集中の危険性」がこれでもかと述べられている。

その鋭い批判も読むべきところなのだが、それより今までの食糧帝国の歴史もかなり面白かった。

特に気を引いたのは最初の方に述べられていた中世ヨーロッパの食糧生産の歴史だ。

簡単に言うと、中世では教会が食糧生産を取り仕切っていた。教会は国家権力(この時代だから王や地方領主)と結んで様々な利権を得ていた。

これは戦国時代の座や市とほぼ同じ構造だ。関所も置けば完璧に一致する。これを打倒したのが織田信長だ。中世ヨーロッパはどうやってこの利権構造から抜け出したのか、ちょっと気になった。

歴史も農業の始まりから近現代まで網羅されているが、どれも濃厚な書き味で、よくこれほどの歴史を調べたと思った。一つ一つの知識が非常にためになって面白い。一回、日本史で本書のように食糧の観点から切り込んだ本を作って欲しいくらいだ。

現代になって、ボーローグの品種改良が取り上げられている。食糧の増産に寄与したとしてノーベル平和賞を受賞したのだが、『繁栄』と『食糧帝国』で全く評価が違っている。読み比べてみると面白い。『繁栄』だけを「読むとこんなにすごいのか!」となってしまうが、『食糧帝国』を読むと何か考えさせられてしまう。

全体的な印象としては『繁栄』は右派で、『食糧帝国』は左派といった感じであろうか。また『繁栄』の自由経済主義に対して、『食糧帝国』は統制された経済を望んでいるように見える。むろん、社会主義のような理不尽な統制ではなく、公平な取引が行われるように統制すべき、という意見だ。

ただ、全体的に『食糧帝国』で述べられていることは理想主義に感じた。現実問題として食糧の増産は待ったなしの状態だ。世界の人口は100億人で止まる(両書ともに一致した意見なので、この推定が正しいとして)とはいえ、100億人というのはかなりの数だ。それを有機栽培や自然をまねた農法で養えるのだろうか。「ローカルな農業とグローバルな農業が混ざった形が理想」と書いてあるが、結局それには「法律で規制」というまたしても「国家権力の手」が必要になる。

別に、国家権力の手がなくても、市場経済でも近所の農家が出品している一般向けの市場がある。和歌山のめっけもん市場とか。近所の農家が直接卸しているので割安な値段で買える。高品質で値段も手ごろなので、常に満員状態だ。有機栽培かどうかは分からないが、地産地消であることは間違いないし、だれが作ったのかも分かるようになっている。

『食糧帝国』が指摘する危機は確かに頷ける部分がある。ただ、結局のところ問題点の指摘に終わって解決策は有効なものは導き出せてないような気がする。有機栽培と言えば聞こえはいいが、要するに土地効率の悪い農法であり、結局はそのような農法で食糧を生産しようと思えばより広い農地が必要となり、結果自然が破壊されるのではないだろうか。『繁栄』を読むとそう思える。ただ、『食糧帝国』はその欠点があっても食糧生産の歴史を網羅しており、その歴史だけでも十分読むに値する。その重厚な専門知識から導き出される現在の食糧生産体制に対する懸念は十分耳を傾けるに値する。

ただし……私はどちらかというと『繁栄』の楽観主義の方に説得力を感じた。『食糧帝国』に書かれてあることはよく昔から言われていることだ。20世紀には「21世紀には人口が増えすぎて食糧が足らなくなるので、虫を食べるようになる」とかいう噂というか都市伝説のような類もささやかれていた。実際にそんなことは全くないし、これからもなさそうだ。むしろ牛肉の値段は下がって、牛丼屋はファーストフードになっている。むしろ虫を食べるとしたら高級ゲテモノ食材としてだろう。

その他にも、地球温暖化や道徳など、主にテレビの中で何となく形作られる空気を一刀両断してくれた『繁栄』は、読んでいて無双ゲーのようにスカッとした。また、データを用いているために分かりやすいだけでなく、信憑性もある。といっても、データはいくらでも改竄できるために注意が必要だが。

皆さんもぜひ買うなら二冊とも買って読んでほしい。人によってどちらの本に信憑性を感じるか、まちまちだと思うからだ。ただ、どちらともあなたの頭の中の図書館の貴重な一冊になることは間違いない。日本の新書ももっとこういうレベルの高い本を出してもらいたいものだ。クソビジネス書を乱発するなら、その紙をトイレットペーパーにした方がマシというもの。両書だけでなく全ての人が言っていることだが、地球上の資源には限りがあり、また自然は貴重だ。そんな資源や自然を大切にするためにも、一刻も早く電子書籍が普及して欲しいものだ。と言いつつ、アナログ人間なので紙の本ばかり買ってはいるが……


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