『アイ・アム・ア・ヒーロー』(11巻まで):漫画
漫画喫茶でついつい読みふけってしまった。それにしても面白い。ひょっとしたら『ウォーキング・デッド』より面白いのではないか、と思ってしまった。やはり日本人が日本人に受けるように、日本人の感性で描いているからだろう。それに絵のリアリティ。背景は最近流行りのトレースだろうが、それでも十分唸らされるほどの濃密で繊細な描き込み。人物のリアリティとデフォルメのバランス。主人公の相変わらずなヘタレ具合など。とはいえ、主人公は途中で銃撃の才能に目覚めて、ゾンビどもをバッタバッタと撃ち殺してゆく。ありきたりだが、この漫画では珍しい光景だ。簡単に重火器を手に入れた『学園黙示録』に比べて、ちゃんと銃器不在の日本でどう戦うのか、というのを見せてくれている。しかもゾンビの強さはこっちの方が上なのだ。L4D並に猛ダッシュしてくるし、力などの筋力も通常の人間より強い。その中で圧倒的に不利な立場の人間たち。そんな人間が戦うにはどうすればいいのか。
知恵と団結だろう。
そのあたりは、巻が進んでからはそういった描写が中心になってゆく。もちろんお決まりの「人間vs人間」の構図へと物語の中心軸は移っていく。
今回はいろんなことが発生した。物語の進むテンポも段々早くなっていくし、何より英雄がヒーローになろうとしていく過程も描かれている。一番笑ったのは作中に出てくる2ちゃんの書き込みを装ったモニュメンタリーだ。作者は2ちゃんねらーなのかと疑いたくなるようなリアルな”書き込み”だったと言っておこう。昔の戦国武将は辞世の句を残したものだが、ネット上で引きこもりたちが残す”辞世の句”は、高尚さは感じないものの、滑稽さと哀切に満ちており、またリアリティにも満ちている。この題材だけで小説が一本できそうなくらいだ。また、本当にゾンビ災害が起こったとしたら、人との関わりの少ない引きこもりが最後まで生き残る、というのはリアルであると同時に滑稽でもある。そういうリアルさの中に含む滑稽さ、滑稽さの中のリアルの描写は、この漫画最大の見所だろう。
途中、富士山5合目にある神社に避難することになるのだが、これもなかなかいろんな含蓄があって面白い。まず、この富士山五合目への避難は、完全に噂話なので確証があるというわけではなかった、という点。「寒いしゾンビウィルスもここでは繁殖できない」という、まことしやかな“科学”が囁かれているが、もちろんこれはデマだった。そしてそのデマ情報に踊らされる人々の何とも奇妙な光景。
「デマだったらどうする?」
「こんだけ人がいるからデマじゃないだろ」
日本人の性格がよく表れていて面白い。また、主人公自身も半ばその可能性に気づいていたにのかかわらず、「他に安全な場所もないし、とりあえずついて行っとくか」という戦略性のなさ。
完全に平和ボケの日本。かつて植民地時代にアジア唯一の列強だったとは思えないくらいだ。アメリカ人の占領政策は大成功だと褒めておこう。
それはとにかく、この漫画の英雄は、ほとんど一般市民となんら変わらない性格、風貌なのだが、ただ単に銃を所持しているという、平時では全く役に立たない特技のおかげで生き延びたという設定なんだろう。
英雄は「俺は脇役だ」と嘆いているが、実際この漫画には確固たる主役など存在していない。全部脇役である。序盤、英雄の編集長が「ヒデオさんの漫画って主人公不在なんですよね」という台詞は、この漫画に対する作者の冷笑的な自己批判なのか、それとも「俺は主人公不在でもいい漫画を描いてやる!」という意気込みのあらわれなのだろうか。こうして振り返って見ると、かなり複雑でいろんな心情を含んだ言葉だったことが分かってくる。ストーリー的に伏線になっているわけではないだろうが、テーマ的な意味で伏線になっている。伏線をこういうふうに使えるというのは、物語作家としてもかなりの力量を誇ると言っていいだろう。絵かきとしての力量も絵をみればわかる通り、凄まじいものがある。日本に誇るゾンビ漫画として、全く恥ずかしくない出来だ。むしろ、日本に来た外国人にはこの漫画を読んでもらいたい。日本人の性質が、この漫画を読めばよくわかるはずだ。少なくとも有事には全く頼りにならない、多数決主義の事勿れ主義、ということは嫌でも分かってもらえるはずだ。
人間に視点が移っていく中で、有事の際のリーダーシップというのが全く描かれていない。これも日本人のリーダーシップのなさと同時に、リーダーシップというもの自体を日本人は好まないという”事実”を見事に表現している。それがほぼイコールで主役不在の漫画へとつながっていく。途中で出てくる”クルス”と呼ばれるネットで救世主扱いされた男も、実態は指導者というよりただの変人。実際にその集団は全員のパワーバランス、合議制で保たれていた。その前のショッピングモールの立て篭りの場面でも、実体は有力者たちの「合議制」だった。これは日本の歴史から見てかなり的を得た慧眼だが、おそらく作者は日本史などに詳しくもないだろう。普通の教科書レベルの知識しかないはずだ。それでも作家としての感性でこれだけの事実をえぐり出して描き切った。
このショッピングモールの合議制の描写は奥が深い。そこでは様々な胸糞の悪くなるような行為や制度がはびこっていたが、一応の秩序はあった。ただ、そこに英雄と途中で助けたものの半ゾンビ化した女の子がやってきたことによって、集団内合議制のパワーバランスは崩壊して、最終的に悲劇的な(そしてあまりに滑稽すぎる)結末へとつながっていく。
だが、これも非常に皮肉としか言いようがない。このショッピングモールの集団は、銃をもっていない。ところが、英雄は銃を持っている。つまり、英雄がやってきたことによって、このショッピングモール集団は大幅に戦力が増強することになる――はずだった。これが皮肉なことに集団を崩壊させる黒船にしかならなかったところに合議制の弱さがあるのだろう。普段はいろんな利害の対立をなあなあでおさえることで安定していられるのだろうが、こういう新しい事態に戦略的、総合的、根本的対策を打てない。新しい強大な力が目の前に飛び込んでくると、それを使って優位に立とうという、コップの中の権力争いに容易に発展する。幕末や戦国時代の有様だ。漫画の状況はそれよりさらに酷い。人間社会そのものが崩壊して、もはや道徳による歯止めも何もかもなくなっているからだ。
最初は英雄の煮え切らなさ、ヘタレさにヤキモキしたものだが、ここら辺から英雄のお人好しな性格は、むしろこの残虐悲喜劇において唯一の清涼剤にすらなっていったように感じた。そりゃ、現実的には英雄のような人間は表舞台にも出てこないだろうし、お人好しな性格を利用されてオシマイだろうが、創作物ではそれを精一杯生かして活躍させてやることができる。『ショーン・オブ・ザ・デッド』にも、ある意味この漫画に近い味があるのかもしれない。ただ、あっちはコメディー成分がかなり強調されておりその点で違いはあるが。
あと、この漫画はゾンビの特性も面白い。最初からそうだったが、ゾンビには生きていた頃の生活習慣が若干残っているらしい。それがゾンビという無個性なクリーチャーに独特で奇妙でユーモラスで、胸糞の悪い特性を付加することに成功している。
となると、様々なゾンビが想像できる。生前ピアニストだったゾンビは、きっと今頃自宅でクソを垂らしながらピアノを弾いていることだろう。警官だったら、交通整理をしているのかもしれない。作家なら血のインクでゾンビ漫画でも書いているのかもしれない。
あと、ゾンビものと関係はないのだが、この漫画の漫画業界の描かれ方も気になった。作者は漫画業界というものに、あまり好意を持っていないのだろうか。あと編集者がやたら憎たらしいえなりかずきみたいに描かれているのだが、編集者に何か恨みでもあるのだろうか。それともえなりかずきに何か恨みでもあるのだろうか。そしてこの原稿を、編集者はどういった心境で読んでいるのだろうか。
ただ一つ言えるのは、この作者は道徳とか良心とか人権とか、何も信じていない「こっち側」の人間ということが分かって非常に嬉しい。まあ、自分もかなり信じていない方だが、この人はさらにその上をいく。上には上がいるもんだなぁ。
とにかく、『アイ・アム・ア・ヒーロー』は巻が進んでも面白い、というか巻が進むにつれて面白くなってゆく。英雄の出番が急になくなったが、それも含めてどういう風に英雄視点に戻ってゆくのか。これから最終回がどうなるのか、さらに楽しみだ。




