デビルマン:永井豪(漫画)
ネタバレ前提。
言わずと知れた日本漫画界の古典的名著。フェイス氏から借りたのがきっかけで、借りてからその日のうちに一気に読み切ってしまった。もちろん内容が面白いことは言うまでもないが、巻数も全5巻とちょうどいい分量だったこともある。最近のズルズルと連載を長引かせて巻数だけ何十巻も出し続けるような、そんな陳腐な「商業」を超えた面白さが確実にこの作品にはあった。それは本来作家が失ってはいけないものだ。だが、最近の漫画は完全に商業に全ての優先順位を捧げているため、いわゆるテーマ性、あまり好きな言い方ではないが芸術性というのが軽んじられているように思う。
何も「漫画家は清貧だろうがなんだろうが耐えて全てを犠牲にして自らの芸術に準じるべきだ!」とかいうことを言いたい訳ではない。プロとしてやっていく以上、「金を稼ぐ」ことができなければ生きていけない。ただ、それに甘んじて自らの意思を貫くことを放棄して商業一辺倒になるのは、読者としては非常に痛ましい。自分のやりたいこと、商業的な需要。この二つで葛藤することこそ、むしろ作家の仕事ではなかろうか。まさに天使と悪魔との戦いのように。
『デビルマン』というタイトルを聞くと、どうしてもキリスト教的悪魔というイメージが思い浮かぶが、今作にキリスト教は全く関係ない。魔女狩りに酷似した展開はあるが、それはあくまで魔女狩りという狂気を参考にしたのであって、キリスト教がどうのこうのということはない。
ダンテの『神曲』はキリスト教における天使と悪魔、天国と地獄というイメージの原型を形作ったが、この『デビルマン』はそれから連綿と受け継がれたイメージを元に永井流に換骨奪胎したものだと私は考えている。
とはいえ、まずはキリスト教の世界観から確認していきたい。
キリスト教における悪魔とは、第一に神に対する反逆者という位置づけだ。神というのは造物主、宇宙を含む全てを想像した存在であり、その範囲には悪魔自身をも含まれる。
そう、つまりキリスト教の悪魔とは、造物主の存在を前提として成立するものだ。超越した神=創造主=絶対的善の存在に対して、悪魔=被造物=絶対的悪という対立が成り立つ。
翻って『デビルマン』に登場する悪魔(作中ではデーモンと呼称)は、太古の地球(恐竜時代くらい昔)に住んでいた、いわゆる先住民族だ。その後気候変動によって氷河の中で長い眠りにつくが、数百万年の時を経て覚醒。その頃には進化した人類がすでに地球を我が物にしていた――という感じだ。
まるで現在のイスラエル問題みたいだ。実際のイスラエル問題は宗教問題も絡んで複雑になってしまっているが、人間とデーモンの間にはそれはない。ただし、種としての壁はあるが。
まあ、それは置いておくとして、つまりデーモンとは、確かに科学や常識では理解できないような悪魔的な能力を持ってはいるが、あくまで「すごい力を持った生物」でしかないということだ。デーモンという存在自体は悪ではない。
一神教の悪魔というイメージを借りながら、それを利用して作り上げたのは多神教的世界観。この換骨奪胎の見事さ。作中のデーモンとは、ギリシャ神話で言うタイタン族のようなものに近いかもしれない。強大な力を持っているし、神々と対立しているが、中には神々に協力する者もいる。
芥川龍之介は自らの作品で「日本には造り変える力がある」ということを述べていた。これは「日本は外から来たものを何でも受け入れるが、自分たちに合うように作り変えてしまう」という意味である。
まさに『デビルマン』は、キリスト教や聖書や『神曲』に代表される「キリスト教的世界観」を日本風に作り変えた漫画だろう。絶対的な存在を相対的な存在に置き換えてしまった、だが、それゆえにこの作品は奥が深いのだと思う。
これとは逆のパターンが「ダイの大冒険」に登場する大魔王バーンだ。バーンの目的はまさしく「神への反逆」であり、その神とは世界、人間、魔族を作り出したという設定で、創造主に通じるものがある。JRPG的な世界観でキリスト教的世界を包み込んだ形になるだろうか。こっちは言ってしまえばそれほど深いテーマはないが、それゆえにエンターテイメントとして気軽に読める。
実際に『デビルマン』を読んでみると、それでもやはり思ったのは「やっぱり古い漫画だなぁ」ということだ。絵も古いが、キャラクター造形も古い。主人公はどっかの高校に通っているのだが、そこに絵に描いたような不良たちが出てくる。こいつらこそ漫画界の絶対悪だよ。という訳でもなく、後で主人公の力(本当は手に入れた悪魔の力)に心服して仲間になる。
まあ、古い漫画だから、ここら辺は仕方ない。ただ、デーモンのデザインなどは今見ても斬新で、気持ち悪い。遊星からの物体Xなどをオマージュしているのだろうか。どちらが先か分からないが。
とにかく、この漫画にはエロとバイオレンスが多い。漫画というデフォルメされた表現だからそれほど気にならないが、実写化すると……という話はここでは無しにしよう。実写が見たければアマゾンでデビルマンと調べて、レビューを読んで覚悟を決めてからにしよう。ちなみに私はまだ覚悟できてません。
簡単な荒筋は、デーモンと融合することで人間の心を持ちながらデーモンの力を手に入れ「デビルマン」となった不動明が、人類に襲いかかってくる様々なデーモンと戦う、という話。話だけ聞くとよくある少年漫画っぽいし、事実最初は王道的な少年漫画だった。デーモンもただ襲ってくる襲撃者であり、人類からすれば「理由もなく襲いかかってくる悪いやつ」程度の描かれ方しかしてない。
襲撃者としてのデーモンの描写で一番盛り上がったのは妖鳥シレーヌ編だろうか。作中「愛も慈悲もない、人間とは絶対分かり合えない生物」と呼ばれたデーモンだったが、ここで自らの命を犠牲にしてピンチに陥ったシレーヌと融合するデーモンが登場、またシレーヌから見れば恋人であるアモンを「乗っ取った」不動明に対して復讐の念を燃やして向かってくるなど、ただ単なる戦いから一歩進んだ、精神的な戦いを見せてくれた。
ここからしばらくは同じく「残酷な襲撃者」としてデーモンは描かれるのだが、そこから突然話が変わる。
不動明がタイムスリップして、なぜか過去でデーモンと戦うことになるのだ。舞台は様々で、マリーアントワネット、ヒトラー、インディアン狩り、ジャンヌ・ダルクなど、様々な時代に飛んでそこで悪魔と戦う。中にはほとんど悪魔ではなく人間と戦うだけの場合もある。インディアン狩りの話がそれである。テーマは色々あるが、ひとつ共通しているのは「人間こそ悪魔」であり、ここから急にこの「人間こそ悪魔」というテーマに本編も取って代わることとなる。このテーマも、完全にキリスト教的世界観を逸脱している。どちらかというと仏教や禅の悟りに近いものを感じる。
このタイムスリップ編(と勝手に命名)が本当に謎で、なぜいきなりこれが挿入されているのかも含めてよく分からない。本編との関わりはぶっちゃけあまりないし、もしかしたら本編が完結したあとに挿入されたのかもしれない。
まあ、とにかくだ。『デビルマン』におけるデーモンの描かれ方は、前半と後半で急激な変化を見せる。前半は襲撃者であるから明確な敵なのだが、後半になるとまさに人間という真の「悪魔」が不動明に襲いかかってくることになるからだ。
「人間こそ悪魔」という言葉だけ聞いても陳腐にしか聞こえないが、それを『デビルマン』は様々なトラウマ残虐シーンで読者に提供することによって本当に「人間とはなんて醜いのだろう」と思わせるようになっている。
まず、人々のデーモン狩りの様子が本当にリアルだ。
先鞭をつけたのは権威あるノーベル賞科学者による間違った理論だが、これは魔女狩りが当時の知識階級である教会によって始められたことに似ている。実際にここら辺の展開は魔女狩りを参考にして作られたのだろう。
そうやって人々の不安と疑心暗鬼が折り重なってどんどん急進的に、過激になってゆくデーモン狩り。悪魔の影に怯えるあまり、自らが悪魔になってしまう。これに民族的差別が加わればナチスのユダヤ人狩りにもなりえる。
ここら辺のテーマはそれだけでひとつのホラー作品としても成立しそうだ。
そしてここから漫画界3大トラウマ(ごめん、他の二つは各自考えておいてくれ)の一つである、ヒロイン生首晒し上げ事件へとつながってゆく。さらにその前にヒロインの弟も首チョンパされるなど、かなりグロイ表現が。永井作品は子供でも容赦なく死ぬ。どっかのアニメ監督は「子供が死ぬアニメだけは絶対作ってはいけない」とか言っていたが、一回どころか百回くらいデビルマンを読んでみてはいかがだろうか。
どうせこいつらがデビルマンのアニメを作ったらヒロインが殺される直前に不動明が助けに来て――とかいう展開になるのがアリアリと目に浮かぶぞ。(物語上)無意味に死ぬのと、意味を持たせて殺すのとは全くわけが違うのだが、そういう違いがわからないのだろう。こういうやつらが「表現のデーモン狩り」を行うわけだが、その結果もこの漫画に集約されている。
人類の滅亡だ。(表現のデーモン狩りの場合は業界の滅亡)
この漫画、本当に文字通りの意味で人類が滅亡する。自分はここまでキレイに人類が滅ぶ漫画を今まで読んだことがないし、その滅んだ様は虚しさと――それ以上の美しさがあった。ラストには読者と飛鳥了の心情がピッタリと重なる。作者が計算してやったことなのか、本能でやったことなのか。どちらにしても、漫画界に残る名ラストシーンであることは間違いない。
そしてこのラストシーンからさらに胸くその悪い事実が浮かび上がってくる。
それは「人間とデーモンは実は分かり合えたのではないのか?」ということだ。これは飛鳥了=ルシファーの台詞、「強いからと言って弱者の命を奪う権利など誰にもないのに」(細かいところはよく覚えてないが、だいたいこのような意味の内容)と悟ることからも明らかだ。最後に人類が滅んだが、その人類の精神は不動明の望んだとおり、いや、不動明の精神と言おうか、それは間違いなく飛鳥了の心を撃ったのだ。
もし人類が疑心暗鬼に陥らずに団結して戦っていたらどうなっただろうか。勝てないにしても、もしかしたら休戦には持ち込めたかもしれない。不動明と飛鳥了は互いに親友だから、両者を通じて話し合いも可能だろう。たとえば、地球の一部をデーモン居住区としてデーモンに提供することで折り合いが付いたかもしれない。デーモンは凶暴だが、意外にもトップの命令には絶対服従なので、トップの飛鳥了さえ合意すればありえない話でもないと思う。それでも一部のデーモンとデーモンを恨む人間は何かやらかすかもしれないが、ハルマゲドン的戦争はないだろう。
だが、その可能性はヒロインの生首と一緒に葬り去られた。
愛する人も失い、しかも奪ったのは自分が命懸けで守っている人間だった。
案の定自滅の道をたどる人類だが、不動明はもはや人間でもなくデーモンでもなく、デビルマンとして最後の戦いをデーモンに挑む。最終決戦前に不動明と飛鳥了は話し合いをするが、そのとき飛鳥了が言った「デーモンに加われ」という言葉、本来ならまさに悪魔の囁きとなるはずなのだが、これがもはや本当に唯一の救いという点が救われない。
このあと、両者両陣営は神と悪魔の領域を超えて最終戦争に突入する。それは案外人間の領域だったのかもしれない。このラストシーンは妖鳥シレーヌ編のラストといくらかオーバーラップしているように思う。
一見、善悪二元論に見せながらもそれを突き放し、読者をも突き放し、最後に唖然とさせる。ひょっとして作者がデーモン?と思わずにはいられない鬼才っぷり。
この漫画のグロイ表現だけ見るとただの残酷な人間に思えそうだが、この人の描く作品はどれも弱者の視点に寄り添っており、誰よりも優しさを兼ね備えた人間であるのが読み取れる。
逆にデーモンの視点から見れば、デーモンは今まで戦いに生きる凶暴な種族だったが、人間を滅ぼして初めて「強いことの虚しさ」を悟ったのだろう。最後に見せた涙はルシファーではなくやっぱり飛鳥了としての涙なのかもしれない。




