『悪の教典』:貴志祐介(小説)
ネタバレあり。一度読んだ人以外は読まないほうがいいと思う。
最近、教育現場の崩壊が社会的にも問題視されている。大津のイジメ事件ではそれがもっとも顕著になって現れ、ニュースはまさに「イジメ一色」に塗りつぶされた。それからしばらくして今度出てきたのは「体罰」。むろん、体罰という名の暴行ならそれは犯罪だが、相手が何も知らないクソガキなのだから体罰は教師の「最後の切り札」としては必要だろう。だが、この報道ではほとんどのマスコミは「とにかく体罰は悪」としてそれを糾弾し続け、ついに体罰の現状を学校が調査するに到る。
だが、先のイジメにしても体罰にしても、もはや調査してどうこうなる問題ではなく、特にイジメはこういう調査もあってかアラブの油田のように掘れば掘るほど湧き出てくる始末、ついにイジメ件数は大幅に増加、という結果になった。つまり、今まで認知されていないだけで、水面下でイジメは盛んに行われていた。学校という箱庭空間の中で。
悪の教典が描いている学校も、まさにこういう「暗黒面を抱えた箱庭空間」として描かれている。主人公であり大量殺人鬼である蓮見セイジ、通称ハスミンは一際異彩を放っているが、こういうフィクションに出てくる大量殺人鬼としてはある意味ステレオタイプだといえる。
軽く紹介しておくと、ハスミンは生徒からも職員からもPTAからも慕われている、学校の名物的教師だ。授業も上手く、クラス運営も卓越しており、中にはハスミンの「親衛隊」までいる。だが、その優秀な教師は実は他人の感情に全く共感できない異常者であり、大量殺人鬼だったのだ――といった感じ。
なんとなく吉良吉影に似ているかもしれない。吉良は優秀というよりむしろ平凡を装っていたが、頭脳など優秀だ。
教師ではなく生徒という立場だが、『ゴールデンボーイ』も似たような感じだ。アメリカ的な典型的優等生が、ナチスの暗黒面へ惹かれて堕ちてゆく。
まあとにかく、主人公のハスミンというキャラクターだけ見ればよくある典型なのだが、これが先に述べた「暗黒面を抱えた箱庭空間」である学校を舞台とすることによって、見事な文字通り「悪の教典」へと姿を変えることに成功したのだ。
このハスミン、当然悪役として描かれているが、周囲の教師も大抵悪いやつらばかりなので、その中では一番魅力的なハスミンを思わず応援してしまうようになってしまう。「あんなケチな悪党、吹っ飛ばしてしまえ、ハスミン!」とまるで親衛隊にでもなったようだ。「悪の教典」とは、読者に対する教典という意味なのかもしれない。巨悪が、みみっちい悪を潰してゆく様はある意味ヒーローとも言えなくもない。もちろん、下巻ではハスミンの巨悪が遺憾なく発揮されてゆくのだが、それはまた後で述べよう。
まずは上巻の感想から。
上巻では問題のある学校で「自らの王国」を築き上げようとする。それは自分の担任のクラスを完全に掌握し、管理することである。そのために様々な策略を用いて問題を解決してゆく。その頭脳戦は、読んでいて痛快だ。ただし、ここの問題解決は一時しのぎ的なものに過ぎない。
巻末の三池崇史の解説が秀逸だが、同じくこれは小説全体のテーマにもなっているので引用する。
『小さな民家が目の前に迫ってくる。かなり老朽化した平屋の日本建築で、屋根瓦の一部が脱落しており、ブルーシートで“恒久的に応急補修”してあった。』
解説では「これはハスミンの環境、または町田高校の現状を表現しており、ひいては今のわたしたち、日本の現状でもないだろうか」(筆者要約)と書いてあるが、まさにその通りだと思う。このレビューの冒頭でも述べた、現在の教育制度は、まさしく『老朽化した日本家屋』であり、かと言って抜本的な立て直しがされることなく、その場しのぎで応急処置をしながら、なんとか運用している。
では、その応急処置はいつまでも持つのだろうか?
それに対する答えが、下巻で象徴的に示されているように思えてならない。
下巻ではハスミンの必死の努力も虚しく、上巻でやってきた悪事がバレそうになり、全てを隠滅するために、文化祭の用事で学校に集まった自分のクラスを猟銃で皆殺しにするという展開になってしまう。ここでも暴力と謀略がひしめき合い、まるで『ダークゾーン』のようなゲーム的展開となっている。ここら辺はまるでジョジョのスタンドバトル並だ。ただ、最後のネタがちょっとあっけなかったかな。
ついでに思い出したので書いておくと、「共感能力」というテーマも『新世界より』で扱われていたテーマだった。
さきに述べた三池崇史氏だが、この『悪の教典』の映画版の監督だ。最近、この映画の方に対して某AKBが生意気にも「わたしはこの映画が嫌いです。なぜなら命が簡単に奪われていくから」というようなことを述べていたが、こういう読解力のない人間はいつの時代でもいるものだとため息が出てくるのを禁じえない。
この発言には「プロとしての自覚」という問題もある。そもそも仕事でやっていることに対して「嫌いだ」と言い切ってしまうのは問題がありすぎる。私自身は関係ないが、金を返せと言いたい。クライアントは「お金が簡単に奪われていく」と心の底から思ったであろう。
そしてこれはAKBの意図ではないが、この発言によって「表現規制派」がしゃしゃり出てきてしまった。「こういう表現が社会に悪影響を与える」から規制しろという意見で、意図せざるとはいえ、そういう意見を一時的にとはいえ、勢いづかせるようなことを言った罪は非常に重たい。自分たちの集団の利益だけを考え、それ以外はどうなってもいい――もちろん、積極的にこう考えているわけではないだろうが、全体のことについて何も考えていないことは確かだろう。せめて業界のことくらいは考えられないだろうか。そしてこういう大人ばかりになったときに制度には重大な欠陥が生まれ、それを応急補修し続ける――自分の利益のために――ことになる。結局、その現状が最も顕著に現れている場所が(またしてもこのレビューの最初に戻るが)現在の教育制度、つまり学校だ。
自殺者が出るほどのイジメと体罰がまかり通る「命が簡単に奪われていく場所」「モラルが徹底して軽んじられる場所」としての学校があり、ハスミンはただ単にそれを象徴したキャラクターに過ぎないだろうと思う。
これは現状の日本のことだが、イジメにしても体罰にしても、実際には臭いものにフタ的な対応しか取られていない。抜本的な改革が必要なのは言うまでもないが、それを行える者はいない。そうやって、学校で悪影響を受けた人間が次々と生産されてゆく。そもそも表現規制派という存在自体が「ブルーシートによる恒久的な応急処置」でしかない。
最終的にハスミンは逮捕されるが、その後裁判でどう裁かれたのか、それに対する答えは結局ぼかされている。これは学校の暗黒面自体がどうしようもない、裁きようのないことだという暗示にも見える。
ホラーには答えはないが、いいホラーには答え以上の鋭い問題提起が含まれている。悪の教典は厳密に言うとホラーではないかもしれないが、それに近い場所に位置していることは確かだ。せっかくの教典から何も読み取れないなら、そっちの方がよほど共感能力に欠けているだろう。
ある意味、日本の問題点が凝縮された小説でもある。それを改革するにはハスミンのように全てぶち壊してしまうしかないのか、それとも何か他の方法があるのか。
ただ一つだけ言えるのは、この小説は「命が簡単に奪われていく」だけの小説ではない、ということだ。




