『ブロンソン』:(映画)
荒筋程度のネタバレ有り。本編視聴には何の影響もないと思われ。
正に異様な映画。怪作としか言いようがない。
きっかけは、新年会でフェイス氏の家に集まったときのことだった。がちお代表と私と3人で映画鑑賞会のような流れになって、そのときに見たのだが……まさかここまでだとは予想以上だった。フェイス氏手製の超高カロリーピザも予想外だったが。
主人公はチャールズ・ブロンソンという名の、イギリスで「最も維持費のかかる」と言われている囚人。この名前だけで映画マニアの方はある人物を思い浮かべるだろうが、まさにその人物から取って自分で名乗った名前なのだ。
こっちの方のブロンソンは、自分の暴力的な衝動が抑えきれずに暴力事件を繰り返し、ついに懲役7年の実刑判決を喰らう。出廷時に、母親から「4年で出られるわ!」と励ましを受けるものの、刑務所の中でも暴力事件を繰り返し、(途中で仮出所したとはいえ)最終的に30年以上刑務所に入り浸っている囚人――そして今も服役中――それがこのチャールズ・ブロンソンだ。
荒筋だけだとどこの国にでもいてそうな凶悪犯罪者に見えるし、実際最初は私もそう思っていたのだが、ブロンソンは少し違っていた。
ブロンソンが暴力事件を起こした理由、それは「有名になりたいから」。ただし、その割に仮出所して付き合っていた売女に「あなたには野心がない」と言われる始末。実際に野心があったとしても、それをこの売女が理解できなかっただけかもしれない。だから実際のところはよくわからないが、多分通常の意味での野心は持ってなかっただろうと思う。
このブロンソンという人物、最大の謎は犯罪の動機だろう。貧しいから盗む、快楽や恨みのために殺す、金が欲しかったから、というような分かりやすい動機が一切存在しない。がちお代表は「生まれながらの悪」と評していたし、確かに悪というのが「レールの上を走れないこと」なら完全にブロンソンは「人間として脱線しているから悪」という風に見ることができると思う。それでも、よく考えてみると、少し違うような気がする。少なくともブロンソンは「邪悪」ではないと思う。そう考える理由は、殺しそうになったとはいえ、殺人だけは犯していないからだ。強盗も、仮出所してから売女に指輪を買ってやるために宝石店を襲ったが、それくらいだ。普通、「有名になる」≒「金持ちになる」ということだと思う。今ではネット上でたくさんの人が有名になろうとしており、中には金銭をあてにしてない人もいるだろうが、ほとんどは行き着くところは「金」だろう。この「小説家になろう」サイトに投稿している人も、本気で書いて投稿している人ほど「できたら出版したいなあ」とか「あわよくば印税生活」とかいう願望を持っていることだろう。普通はこういうのこそを「野心」と呼ぶ。
想像して欲しい。ある人が、小説をすごく熱心に書いている。それをネットに投稿している。それを見たあなたが「将来小説家になりたいの?」ときいてみるが、どうやら本人は小説家になる気はないらしい。じゃあ定職に就いているのか、というとそうでもないようだ。ただ、ネットで有名になるためだけに小説を書いて投稿している。
本人は「野心に燃えている」のかもしれないが、傍から見れば「野心もないダメ人間」にしか見えないだろう。
ブロンソンは、意外にも一休宗純(もちろんアニメじゃなくて歴史上の人物)と似ているのではないだろうか。両者とも脱線していてどこかすっぽ抜けている。その「脱線せしめた何か」が一休さんの場合は禅の悟りに、ブロンソンの場合は後年の芸術的才能の開花として現れたのではないだろうか。
ブロンソンの場合、「脱線」の原因としては母親が相当甘やかしていたのではないか、とも思っている。これは映画にも何の描写もない、ただの憶測でしかない。ただ、断片的な描写ならある。最初に述べた「4年で出られるわ!」というのもそうだし、子供時代に喧嘩をして相手をボコボコにして、当然教師がやってくるわけだが、それに対して母親は扉 を閉めて無視するという強行な手段をとっている。そして兄弟姉妹の描写がないことから一人っ子である可能性が高い。一人っ子ということで、より甘やかされやすい環境だったのではないだろうか。そしてブロンソンだけでなく、その家族ひっくるめて近所から「変なやつら」という目で見られていたのかもしれない。そういう環境に対して、ブロンソンが「お前ら、俺の本気を見てみやがれ!」と思うようになったとしてもおかしくないし、それが「有名になりたい」という願望にとってかわったとも考えられる。
まあ、動機については映画から導き出された推測はこの程度だ。小説なら人物の内面なども描写されるので動機にも迫ることができるが、映画の2時間で一生涯を全て説明し切るのは難しいだろう。
ただ、映像のインパクトを追求しており、それがこの映画の白眉ともなっている。
それは、司会進行役としてのブロンソンが出てくる、ということだ。
場所はどこともしれないが、多分彼の脳内劇場だろう。暗い映画館のような場所で、よくは見えないが席は観客で埋まっている――に違いない。彼の有名願望を象徴しているかのように。そこでタキシードを着たブロンソンが、観客に自らの人生を解説するのだ。ときにはピエロのようないでたちで、ときには真ん中でメイクが分かれていて、左右使い分けながら一人二役を演じながら。看護婦とブロンソンを、一人で演じていたのが印象的だった。ちゃんと左手の爪にだけマニキュアが塗ってる、など細かいところまでぬかりなかった。
本来狂気的な場面のはずが、とはいえ十分狂気を感じたのだが、映画が進むにつれて狂気というよりむしろ哀愁のようなものを感じるようになってくる。それはまさに映画を見ている“観客”が「ブロンソン劇場」に感情移入しているからだろう。
最初に刑務所に入ったとき、ブロンソンが「刑務所は俺にとってはホテルみたいなもんだ」というセリフに度肝を抜かれたもんだが、その後精神病院にぶち込まれるなど紆余曲折を経て刑務所に戻ってきたときには思わず見ているこっちですら「おかえり」というか「やっと帰ってきたな!」という感情を抱くようになった。これもブロンソンが悪ではあっても(そりゃ刑務所入ってるから当然だが)邪悪ではない、ということなのかもしれない。
社会という枠からはみ出て、そのはみ出しものが集まる場所すら突き破ろうとする――破戒僧一休宗純にどことなくイメージがかぶる。むろん、犯罪者を収容する刑務所と、禅とを一緒くたにして言ってるわけではない。まあ、言いたいことはわかってくれるよな?
悪なんだけど邪悪ではない。強いけど孤独。狂ってるんだけど哀愁が漂っている。いかなる形容詞も突破した、なんとも言い難い人間であり、映画である。
怪作としか言いようがない。
今日もブロンソンは莫大な維持費を消費しながら、あらゆる“枠”を飛び越え続けているのだろう。
マネしたくないけど、ちょっとだけ尊敬するよ。ちょっとだけな。
荒筋どうこう、というより実際に見て確かめてくれ、としか言いようがない映画。




