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東京都の「青少年保護条例」改正とその騒動について

今更感アリアリだが、なんか突然書きたくなった。


 まあ、結論から言ってしまうと、やっぱり反対である。

 たしかに、一部表現が行き過ぎているとは、思うときはある。

 もう数年前のことになるが、あるクソ暑い夏のしみったれた日のことだ。私はあまりの暑さにコンビニに避難したのだが、そのとき漫画本コーナーでこれまた頭の悪さをハリウッドの最新CGで再現したかのような小学生が数人たむろして、ある漫画を読んでいた。そいつらが立ち去ったところでその漫画を見てみたところ、いわゆるエロ漫画だった。

 いや、正確に言うとエロ漫画ではない。“本当のエロ漫画”はエロ本コーナーに、カバーをかけて陳列されている。

 ではこれは何なのか? 一応の分類では青年誌になるようだ。

 だが、そこに描写されている内容はまぎれもなくエロ漫画だ。これは上記のような誇張でも私の見間違いでも催眠術でも暑さゆえの幻覚でもなく、本当のことだ。唯一違っていたのは、局部の消しだけだ。この“エセ・エロ漫画”は局部全体を白く飛ばして消していた。ただ、何度も言うように、描かれている内容はどうみても“本当のエロ漫画”だった。

 もうここまでエロ漫画描きたいなら、エロ漫画雑誌に行けよ……そう思ったことを鮮明に覚えている。

 実際問題、ここまでエロに徹するならもうエロ漫画にしろよ、と思うような漫画はたくさんある。そういう調子に乗った漫画のせいで、エロ漫画自体まで悪く言われるし、世間の風当たりもきつくなるのも当然だろう。

 そもそも、コンビニに表紙だけとは言え普通にエロ本置いてあること自体おかしくないか? さすがに表紙だけとはいえ、コンビニは老若男女問わず来る場所である。そこにわいせつ物を圧縮陳列するのは、確かにもうやめた方がいいと思う。

 東京都の青少年保護条例も、そういう類のものであれば良かったと思う。実際は内外に論争を巻き起こし、先の改正は小手先の規制に留めたようだ。

 しかし、ここで問題にしたいのはその改正の背後にある“思想”である。

 要するに、表現の規制よりその規制しようとする理由が気になるのだ。

 規制派が表現を規制したがる理由は、上記のようなコンテンツが「性犯罪を助長している」ということ、もう一つが「子供の教育に悪い」ということ。

 私の意見は先に述べたが、もう一度要約すると「しっかりした住み分けはなされなくてはならないが、表現自体は自由でいい」ということだ。

 表現規制派の大義名分である「犯罪(性犯罪、暴力犯罪など)の助長」に関してだが、この数自体は過去数十年のデータと比べても減ってきている。もし漫画やアニメやゲームなどで犯罪が助長されているなら、今頃悪質コンテンツにまみれた日本ではゾンビとモンスターが溢れかえりモヒカンたちが改造車を乗り回して略奪しながらクラスの女子を全員妊娠させている頃合だろう――おっと、すまない、ふざけすぎた。

 これを逆に捉えると、規制派は「表現を規制すれば犯罪はもっと少なくなる」と言いたいらしい。

 ここで話は少し変わるが、昔「ゲーム脳」なる言葉が巷で流行ったことを覚えているだろうか? ある学者が『ゲーム脳』という直球タイトルで出した本が発端だ。その本の内容を要約すると“ゲームをすると脳が溶ける”そうな。私から言わせてもらえば研究室に閉じこもっている学者や教授たちのほうが余程脳が溶けていると思われるが。

 もちろんのことながら、後で「ゲーム脳」には何ら科学的根拠がないことが判明した。ゲーム(特にいわゆるテレビゲーム)をすることと、頭の善し悪しには何ら関係がない。

 ないが、普段ゲームをやらない人にとっては、この「ゲーム脳」という言葉だけが残って、何となくゲームの印象が悪くなってしまったのではないだろうか。

 私には今回のこの改正条例の騒動には、同じような人間の政治的意図が感じられて仕方がない。(無論、これも私の予想であって科学的根拠などないが)。

 本当にこれらコンテンツによって犯罪が助長されていることが何らかのデータでもいいからはっきり示されているなら、「残念だが現実に被害が起きているなら仕方がない。少しいちびり過ぎた」と思うし、表現の規制も致し方ないだろう。

 だが、そういった科学的根拠は、全く示されていない。

 示されていないが、一度規制されてしまえば元に戻すことは限りなく困難だし、何より日本のコンテンツ産業は大打撃を受けるだろう。

 それによってたくさんの人々が職を失い、たくさんの受け手がエンターテイメントを不当に奪われることにしかならない。トークとグルメとクイズと動物感動モノくらいしかやらなくなって衰退していったテレビのような現象が、あらゆる分野のコンテンツ業界で発生することは十分予想できる。

とりあえず、次の規制理由として挙げられている「子供への教育的配慮」に進もう。

 さんざん繰り返してきたがもう一度言うと、「明らかに教育的に良くないものは住み分けが必要」である。ただし、表現自体の規制には反対。

 これも誰が考えても明らかなことだが、漫画やアニメは何も子供だけが見るものではない。むしろ大人が見る娯楽であると思う。子供、子供と連呼しているが、子供はコンテンツの受け手のいち客層に過ぎないことをお忘れではないだろうか。何でもかんでも「子供に配慮」していては子供の娯楽しか残らない。おもちゃには子供用もあれば大人用もある。それがスッポリ抜けている。

 そして「教育に悪い」ということだが、私はこれにすら疑問を感じる。

 まず「悪い」という単語が時代、地域、個人によって千差万別であり、どうとでも解釈できるということだ。

 昔の話だが、古代ローマ帝政末期、ローマの石像を破棄する法律が作られ、実行された。理由は「キリスト教(その頃のローマはキリスト教が国教となっていた)では偶像崇拝は禁止されているから」というもの。そしてもう一つは「道徳的によろしくない」という理由。古代ギリシャ、キリスト教以前のローマでは、裸体はもっとも美しいものとされ、それを神へ捧げるために裸体の像が大量に作られた。キリスト教では裸体はいわゆる罪の象徴だから、たしかにそんなものを町中に大量に安置しているのは「けしからん」となったのだろう。

 今の私たちにはこの石像破棄の法律が、イスラム教徒のバーミヤン仏像破壊のような、ただ単に文化を破壊しただけの文明の名を借りた蛮行だということが分かる。(むしろ宗教のほうが歴史的に見るとよほど教育に悪いように思われるが、規制派の理屈を適用するなら宗教も規制するのだろうか。むしろ規制派の方こそ何かの宗教にとりつかれているように思えるが。)

 もう一度言わせてもらうが、世の中には子供お断りなコンテンツは間違いなく存在する。だが、「子供に悪影響を与える」というのはどういうことだろうか? 受け手の表現の受け取り方は自由であり、それをも規制できると考えているのだろうか。世の中には、見せるかどうか判断のつきかねる「キワドイ」(いわゆるボーダーゾーン的な)作品は大量に存在する。

 これは個人的な意見だが、ある意味「キワどい」作品を鑑賞するのも一つの教育だと思う。先にも述べたが、子供というのはいつまでも子供ではない。いつかは親の庇護を離れて独り立ちしなければならない。世の中にでれば、いくらでも理不尽なことや非道徳的なことに満ち溢れている。そういった事柄に、善悪の判断をつけて身を持ち崩さぬようにせねばならない。そして、それらの判断は当然ながら成長した子供がひとりで決断していかねばならない。

 私は子供が善悪の判断をつけるかっこうの材料に、コンテンツはなると思う。映画の中なら、たとえ人が何人死のうが日常生活に全く支障はない。結局表現の規制というのは、コンテンツや文化物で社会に出た時の予行練習ができる機会を奪うことにほかならない、と感じている。

そして私がもうひとつ、ここで声を大にして言いたいことが、そしてより本質的な問題だと思うことがある。

 それは「規制派の人々は犯罪の増加や子供の教育など本当はどうでもよくて、ただ単に自分たちの政治的パフォーマンスのために規制しようとしているのではないか」ということだ。

 本当に子供の教育を考えていたら、なぜ表現の規制に行き着くのだろう? 子供にとって一番大きな影響を受けるのは親と学校教育だろう。そこに問題がないならともかく、実際は問題だらけである。

大体の大阪府の教員は日教組の組合員である。そこでは日本の戦争の罪悪だけがことさら強調されて教えられている。そして彼らクソ教師どもは言う。「軍隊を放棄すれば平和になる。平和が一番大切だ」と。しかし他国が攻めてきたら一体どうするんだろうか?

「その時は徹底的に話し合って解決すればいい」と彼ら脳みそウンコ教師は答える。

  私の中には持って生まれた善の素質と悪い素質が、一般の人間と同じようにあると思う。だが、それ以外の悪い精神は、全てこの現実から由来している。そして私の中に備わるそれ以外の善い精神は、僅かな現実と大量のコンテンツ・文化物から由来している。私はもしこれらコンテンツがなければどんなしょうもない人間になっていたか(まあ、今でも充分しょうもないが)、想像すらできない。現実だけでは、人生に耐え切れなかっただろう。

 私は人間を救済できるのはこれらの文化物、コンテンツだと固く信じている。救済というのが言い過ぎなら、つまらない人生にわずかでも潤いをもたらしてくれる娯楽として、人生の悩みを少しでも紛らわせるエンターテイメントとしての価値はある。

 私はそれらを自分の政治的パフォーマンスのためだけに規制という名の破壊を行うことに対して、激しい怒りを感じる。このような世の中を騒がす偽善者たちこそは、死後ダンテの『神曲』のように金メッキを施された鉛のマントを着せられ、地獄をさまようがいい。

規制派が見落としていることはまだある。

 ちょっと鋭い方ならすぐお気づきだろうが、仮にコンテンツが悪い影響を与えうるなら、いい影響も与えているのではないか、ということだ。実際、規制派もこのことに気づいたのか「巨匠の作品や文学作品は例外」などという中々ふざけたことを言い出した。

 話は突然変わるが、私はつい最近、葛飾北斎の展覧会を見に行った。それは中々見ごたえがある展覧会だったが、残念ながら期待していたものはなかった。

 期待していたものは、北斎の描いた春画である。春画とは、現代風にたとえるならエロ漫画のことと思っていい。北斎は国内のみならず、海外でも知られた偉大な芸術家だが、それでも巨匠としてデビューしたのではない。若い頃はエロ漫画のようなものを描いて生活費を稼がねばならなかった。

 私は、これは北斎の偉業とともに必ず伝えられなければならないことだと思っている。他にもこういう画家、漫画家はいる。水木しげる氏など特にそうだし、漫画の神様手塚治虫ですらいわゆる“低俗な”作品を山のように描いているし、実際『火の鳥』にも『ブラックジャック』にも(わずかだしギャグとしてだが)低俗なネタは入っているし、今でいう差別用語もある。

 規制派が俗悪な部分だけ編集して持ってくるのは、卑怯としかいいようがない。

 ヨーロッパの偉大な芸術家を見て欲しい。中世、近世の大半の芸術家は貴族か教会からの支援を受けて創作を行っていた。

 だが、日本は違う。基本的に日本の文化は庶民文化だ。

 戦国時代に、歌舞伎役者で出雲の阿国という女性がいたことはご存知だろうか。コーエーのゲームにも出てきているから、最近は知名度も高いかもしれない。

とにかく、阿国は女性だ。だが、江戸時代に入って歌舞伎役者は全部男になってしまった。これは「風俗を乱すから」という理由で幕府が女性の歌舞伎役者を禁止したためである。現代からみればアホくさい理由だが、これでも何百年と経つと「伝統」と言う名の恐ろしい金メッキが施され、現在では見事にマイナー文化として保護されながら辛うじて命脈を保っているに過ぎない。まあ、歌舞伎がマイナー化したのはいろんな要因があるだろうから、この規制だけのせいにはできないが、一因であることは確かだろう。

 話がそれた。

 要するに、巨匠の偉大な作品、精神性の高い傑作というのは、特に日本では、いわば蓮の花のようなものである。規制派はそこだけあればいいと考えているのだろうが、花を咲かせるためには社会のクソにまみれた底辺に根を下ろし、葉を広げ、ようやく綺麗な花を咲かせることができる。巨匠にしてもそうなのだ。水木しげる氏の極貧生活時代は誰でも同情を誘う悲惨さに満ちているが、氏はそれを覆す不屈の精神の持ち主だった。

 「花はきれいだけど、他は汚いからいらない」と根や葉を切り捨てれば、花も咲きようがない。

 もう一つの規制の動機として「イジメにつながる」というのがある。

 これに対してはひとつの実例を挙げるだけで十分な反論になるだろう。

 私が小学生高学年位の頃だったろうか。複数の男子がひとりの標的に向かって「かめはめ波ぁぁぁぁ!」と叫びながらボールをぶつけまくっていた。幸いなことに被害者は私ではなかったが、見ていて胸くその悪い思いを味わったことだけは確かだ。

 はっきり言って、上記のような理由を挙げる人間は、本当にイジメの本質を理解しているのだろうか。

 たまに「○○という作品の真似をしたイジメが~~とか犯罪が~~」などとやるが、それらは手法を真似たに過ぎない。手法を規制したところで、彼ら創造的な人種(思わず皮肉が出てしまった、失礼)は自ら何らかの手法を考え出すだろうし、それでイジメや犯罪自体が防げることはありえない。

仮に孫悟空がかめはめ波の代わりに、敵を一切傷つけることなく悪い心を改心させる「道徳的ビーム」を放っていたとしても、彼らの叫ぶ単語が変わるだけで、全く同じ光景が教員の死角で繰り広げられたことだろう。そして、私は全く同じ胸くその悪さを味わっただろう。

 上記の通り、私には「表現を規制すればイジメがなくなる、教育にいい」という理屈が全く理解できない。

 私がこの条例改正騒動から感じるのは「自分たちは善良な人間だからお前たちの悪いところを直してやるよ」という尊大な自尊心しかないし、創作者という社会的にあまり守られていない弱者を悪者にしたてあげ、自分が権力をふるい思うがままにしたい、というイジメの精神構造すら垣間見える。最も似ているのは中世の魔女狩りの光景か。

 もちろん、創作者だって何でもかんでも自由ではない。最低限守るべき節度はあるだろう。ただし、彼らは自らの作品に対してそれ相応の責任を、常に負っている。

 自分勝手な理屈をこねて規制しようとする無責任な偽善者・為政者とは根本的に違う。根本的なクソ作品を描けば、創作者はその責任を自分自身で背負わねばならない。最悪、業界を追放されることもある。

 さらにもう一つ、規制派が完全に見落としていることがある。彼らは「創作物が社会に影響を与える」というが、実際は圧倒的に「社会こそ創作物に影響を与えている」のである。これはもはや科学的に証明する必要のないことだろう。

 漫画業界を見れば、近年のデジタル化の進行などは時代の影響をもろに受けていると言える。ゲーム業界はコンピュータの進歩が直接影響するため、さらに顕著だ。

 こうした技術面以外にも、作品の中身も相当な影響を受けている。

 ナポレオンなしではゴヤの絵画もベートーベンの『英雄交響曲』も誕生し得なかっただろうし、ローマの石像彫刻の完成度はローマ帝国の盛衰に比例しているし、あらゆる傑作は「その時代にしか成し得なかった」からこそ傑作とも言えるくらいだ。

 最近、漫画の中でもイジメなどの描写が多くなっているように“感じる”が、もし本当にそうならそれは「漫画がいじめを助長している」のではなく、「イジメが多い社会が漫画に影響を与えている」可能性の方が圧倒的に高い。

 せっかく漫画家が漫画という形で社会の歪みを描き出しているのに、それを「漫画は社会に悪影響を与える」と言うのは問題の本質を見落としている。

 こういう根本的な事柄を見落としている、いや、見ようとしない人たちに規制されることは害悪でしかない。蓮舫議員の事業仕分けで一時期話題になった「一位でなきゃダメなんですか?」という台詞があるが、このセリフは学問や芸術などの本当の価値を知らない人間が、何の戦略もなくただパフォーマンスのために仕分けていることを如実に示している。

 それと同じことがこの表現規制にも言えないだろうか。

 槍玉に上がっている漫画やアニメやゲームが、もしも国から予算をもらってやっている「公共事業」なら彼らの主張も理解できないでもない。税金を使う以上、それにふさわしいかどうか問われるのは当然でもある。

 あるいは、ヨーロッパ貴族のように彼ら自身が金を出してクリエーターを養っているなら、パトロンが注文をつけるのも当たり前だろう。

 ところが、彼らは漫画の読者ですらないし、アニメなど見ないし、ゲームもやらない。

 ただ、文句だけはつける。こういう、「悪者」を躍起になって作り上げそれを攻撃するという構図は、どこか日教組教員の「日本軍を悪玉にしてとにかくそれを批判すればいい」という精神性と大いに繋がっているように見える。

 こういう言論こそ、一切規制して欲しいものだ。

 最近アメリカでまたしても銃乱射事件があったが、そのときまっ先に槍玉に上がったのがアメリカの銃社会ではなく、犯人の自宅にあった『コール・オブ・デューティ』というFPSゲームだった。どこの国にもバカはいるということだろうか。

 とにかく、嘆いているだけでは始まらない。

 業界各関係者が団結して政治的に訴えていくとともに、私たち有権者もそういう政治家に投票しないことだろう。

 それにしてもまあ、人生のささやかな楽しみさえ脅かされるとは、嫌な世の中になったものだとつくづく思う。

 こういう頭の固い人たちは、もっと漫画やアニメを嗜んで柔軟な思考を身につけて欲しいものだ。



補足……実際に規制派による害悪の一例を挙げたい。

 「人体の不思議展」というのがあったことを、ご存知だろうか?

 もう5年くらい前だったと思うが、テレビでもCMしていたので覚えている人もいるかもしれない。人体の標本を展示して、人体という一つの世界を知ってもらおうという展示会だ。

 これが「死人を見世物にしている」という抗議を受けて何と中止されることになった。あれから随分と時間が経つが、まだ「人体の不思議展」が再開したとは聞かない。

 東南アジアへ行けば、聞いた話によると死刑囚の死体が見世物として「展示」されているそうだ。ただ、もちろんのことながら「人体の不思議展」はこのような見世物とは違い、純粋に科学的、学術的目的から行われていた展示会だった。

 それが抗議のせいで二度と開かれることはなくなってしまった。

 このせいでどれだけの人が人体の不思議を知る機会を奪われたのか考えると、廃止に追い込んだ人たちの罪は大変重い。人体は人間が今まで作り上げてきたどの精密機械より精密な構造をしており、その一端でも垣間見ることができるのは、生命の大切さを知ることにもつながるはずだ。

 その機会が無残にも、一部の人間によって奪われた。

 ひょっとしたら展示をみた子供の中に、生物の不思議さに惹かれて生物学者になる人や医者になる人もいたかもしれない。こんなことでは「理系教育の充実」など程遠い。彼らは博物館などにある昔の人のミイラにも同じ抗議をするのだろうか。

 これは人権の名を借りた「現代の魔女狩り」である。

 そして全く同じ魔女狩りが、今度はコンテンツ業界でも行われようとしている。


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