ワンダと巨像(全クリした!)――ネタバレ有り考察
※完全ネタバレありの考察です。それが嫌なら汚いケツをこっちに向けてとっとと失せろ。
「ワンダと巨像、全クリおめでとう!」
もはや誰も声すらかけてくれないので、俺の脳内の美少女(全裸)にそう言わせることにする。そういえば今日はバレンタインデーとかいう巫山戯た記念日らしかったが、もちろんチョコなんてなくてただ残業が続くだけの一日だったことは言うまでもない。下痢気味だったのかウンコだけ非常によく出た。チョコの代わりに箱に詰めてリア充に送ってくれたまえ。
それはさておき、やっぱり『ワンダと巨像』は素晴らしかった。「ゲームのアカデミー賞」があれば間違いなく全部門制覇していただろう。いや、ていうかもう「ワンダ賞」とかいうの作れ。巨像をかたどったトロフィーでさ。もう音楽といいストーリーといい、全てが素晴らしかった。どこぞの記念日にもらう泥みたいな甘いお菓子より余程素晴らしかったね。チロルチョコ以外貰ったことないけど。あのチロルチョコ、ホワイトデーにそのままもらったあいつのマンコにねじ込んでやりたい。んなもん義理にもならねえんだよ。
それはさておき、ニコニコでワンダ動画を見てたら、動画にゲロコメントを吹きかけるだけが能のクソガキユーザーが「ワンダは悪」とかほざいててひっくり返りそうになったね。
「一体どこを見てそう言っているんだ?! お前らは巨像以下のアホタレだって早く気づけよ!」
こういう人たちはいい加減「悟空がフリーザを倒す」以外の正義感というか、善悪の概念を一刻も早く身に付けてもらいたいですね。とりあえず、話をいったん整理しよう。まずバレンタインはクソ。リア充はアフリカのカカオプランテーション農場で労働100万年の刑に処しますです。
それはさておき、まずは巨像の成り立ちというのについて。これは攻略本の見解と自分の考察も入っている、という前提でだが。
大昔にドルミンという悪魔(的な存在)がいたが、人間に打ち倒された。しかし完全に消し去ることはできず、仕方なく体を16の部位に分けて封印した。とはいえ祠に石を置いておくだけじゃ不安だったので、巨大な像をつくりそこにドルミンの一部を封印した。こうしておけば、封印を解こうとするものがいても、巨像が勝手に倒してくれる。だが巨像も何の代償もなく動くものではなく、人の魂を生贄にしなければならなかった。結局はそうすることで封印を維持していた。古えからそうやって封印を守ってきたが、そこへついにワンダの恋人(それか妹など肉親も考えられるが、恋人が一番しっくりくるだろう、リア充め)が生贄に捧げられさあ大変、ワンダは少女を復活させるため、ドルミンと契約し禁忌を破って巨像を倒すことにしたのだ……
と、だいたいこんなところではなかろうか。このワンダの暴走を止めるために、村長らしいエモンなる人物がワンダを追って登場。しかし登場したときにはすでにドルミンはワンダの体を借りて復活。びっくらこいたどらエモンは封印を発動、巨像たちのいた古えの大地ごと封印して自分たちはその場所から逃げてしまう。泉の中へ吸い込まれてゆくドルミン。
やがて少女は復活して目を覚ます。そしてドルミンが封印された場所に行ってみると角の生えた赤ん坊が。
まず、ワンダの体を借りて復活したドルミンだが、実はこれは操作できる。半分ドルミンだが、半分はワンダの意識というか魂的なものが残っているのだ。
そして泉に残された赤ん坊。こいつもボタンを押すと鳴き声を上げる。つまり操作できる=ワンダなのだ。
攻略本に載っている公式見解では、「ワンダの一途な想いによってドルミンは浄化されたが、完全に浄化されていない部分は角として残った」となってある。実際にゲームのエンディングを見れば、この公式見解は十分納得できると思う。
んで、だよ。これのどこをどう判断したら「ワンダ=悪」になるんだよ。
『ペット・セマタリー』のように、自分の愛する者を取り戻すために邪悪と分かっていてもその力を使ってしまう、というのは、ある意味自分勝手なことだとは、確かに思う。それでも、その行為を単純に「悪」と呼んでいいものなのか? まるで「強姦されて妊娠しても中絶は絶対悪なのでしてはいけない」と主張している頭の固い人間みたいだぞ。
しかも、ワンダの場合は『ペット・セマタリー』と違って、結果的に「最終的な犠牲者の数は遥かに少なくて済んだ」ということなのだ。
考えてもみて欲しいが、このままワンダが諦めていたら、この生贄の風習は未来までずっと続いて、さらに多くの犠牲者を生み出しただろう。ところが、今回のワンダの活躍によって、ドルミンは(一部残ったとはいえ)浄化されたし、これで生贄の犠牲者が出ることはなくなったのだ。
ワンダのせいでさらに犠牲者が出たなら、それは確かに結果的には「悪」と言えるだろう。ところが実際は、犠牲者は少なくて済んだのだ。社会の悪しき風習、あるいは社会の抑圧そのものの象徴とも言える巨像を倒した結果として。
むろん、エモンも悪ではないだろう。エモンにはエモンの立場がある。ひとりの命で共同体全体の安全が買えるなら、そうするのは首長として、苦渋だがある意味当然の決断と言える。巨像自体も、そういう意味では「悪の象徴」ではないし、公式見解の通り「巨大な力」の象徴と捉えるのが正しいと思う。もちろん、巨像は「自然の驚異の象徴」と捉えてもいいし、バレンタインデーにチョコレートをひとつももらえない、あいつはいっぱい貰ってるのに運命はなんて不条理の象徴という見方もできると思うし、個人の内面にある「恐怖」の象徴としてもいいし、とにかく「大きな力」ならなんでもいいと思う。実際、なんか一部の巨像がすごく怖かったのを覚えている。ホラーじゃないジャンルだと特にクル。『デッドスペース』とはまた違った怖さがあったよ。
善悪単純な二元論を超えた、人間の尊厳や強さを描き、それに成功したからこそ、『ワンダと巨像』は不朽の名作として語り継がれるにふさわしいと思う。
最後は意外と綺麗にまとまったので、脱糞しそうなくらい驚いてる。