楊令伝:北方謙三(小説)
水滸伝19巻の壮大な続編、それがこの『楊令伝』だ。
読み始めてから読み終わるまで、非常に長いときがかかった。それは、発売から最新ハードカバーで読んでいたから、次の巻が出るまで待っている間に他のことに興味が移ったりしたことも大きいし、就職などで自分自身の環境が変わったことも大きい。そしてそうやって日々を過ごしていくうちに、『楊令伝』の存在自体も忘れかけようとしていた。
しかし、それが完結した、というのを聞いたのが、また読み始めるきっかけとなった。それからすぐに再読にかかったわけではないが、やや暫くしてから『楊令伝』の最後を見送るべく、続きを読み始めた。
それがたった今、終わった。終わったところで思ったのが、「こんな結末、俺は認めねえ」。
ラストの幕引きが呆気なさ過ぎて、こっちが索漠たる思いにとらわれた。いや、呆気ないというか、無理やり史実と合わせるために強引な終わらせ方をしたという形か。なんかさらなる続編として『岳飛伝』(全17巻の予定)が始まるらしいが、どうせ岳飛が英雄でシンカイ(漢字の変換がめんどくさいのでカタカナで失礼)が悪役になるんだろ?
他にも不満があるのは、『水滸伝』に登場した英傑たちが次々と死んでいく様子だ。もちろん、長年闘ってきた者たちだから、年を取ったり病気で死んでいくのは十分あり得る話だ。だが、『楊令伝』での死にざまは、まさしく呆気なさすぎる。本当に死ぬ必要があったのか? そう思うこともしばしばだった。そのくせ、岳飛だけは史実の力でガードされているから中々死なない。ていうか結局死なない。
あとは英雄たちの乱発。すぐにすごい剣術の使い手とか体術の使い手とかが出てくる。今までの『水滸伝』は何だったの?という気がするし、むしろ『水滸伝』の方が「ゼロから強大な敵に向かって反逆する」感じがあってよかった。その中で死んでいく者にも、輝きがあった。『楊令伝』では、その輝きの大部分が失われてしまったように感じる。もっとも、それには読者がだんだん北方節に慣れてきて、読んでいる内に「ああ、こいつ死ぬな」というのが分かってくるのも大きいと思う。そりゃ19+15=34巻も読んでいれば嫌でも分かってくるって。
とまあ、不満もややあるものの、全体としては「やはり北方」といったところか、それなりに面白い。とくに10巻までの童貫とも決戦までは、水滸伝の正式続編として遜色ないおもしろさを持っていた。また、その決戦までの過程でそれまであまり描かれなかった童貫の人物造形が語られるのも面白かった。
その後の梁山泊が塩の道に頼らずどうやって糧道を作り上げていくか、というのも面白いし、歴史的に見ても近世的というか、少し先の時代を先取りさせているので違和感がない。楊令のやったことは、日本でいうと織田信長がやったことに近いのだろう。
さらなる続編『岳飛伝』は読むかどうか分からない。腐れ縁で最後まで付き合うかもしれないが、そこら辺は何とも言えない。
ただ、最後に生き残った梁山泊メンバーが、最終的にどうなるのか。もしかしたら岳飛の下に集まる可能性もありない話ではない。ただ、北方先生ならもっと突飛な展開を見せてくれるかもしれない。
とはいえ、結末はもう分かっている。
破滅だ。
史実でも、岳飛はシンカイに無実の罪を着せられ処刑される。だが、たとえ史実を知らなくても、北方小説の特徴からみても破滅へ向かうのは分かる。
結局、北方謙三作品というのは全て「破滅の美学」であり、それをどう描くか、ということがテーマになっている。『楊家将』でもそうだったし、『三国志』もそうだった。
北方氏自身は、元は純文学志望だったが、結局それが叶わずいわば「第二志望」的な感じでエンターテイメント小説に転向した過去をもっている。いや、それ以上に安保闘争に参加したが、結局「ただの学生の暴動」に終わってしまったという経験が最も大きい。
安保闘争で成し遂げられなかったことを、小説で追い求め続けている。そういう側面もあるのだろう。
話は変わるが、北方小説というのは『源氏物語』に似ているな、と思う。
『源氏物語』は源氏の物語、ということだが、源氏というのは当時藤原摂関家に対抗していた貴族だ。結局は藤原氏との政争に敗れて没落したが、その敗者である源氏に焦点をあて、小説化したのが世界初の長編小説『源氏物語』だ。
敗者に焦点を当てる、という点で似ているように感じる。
負けた人間にも、美学や意地がある。
世界的にもそういう「判官ビイキ」は見られる現象だが、特に日本人はその傾向が強い。
ただし、北方先生は義経がモンゴルに渡ってチンギス=カンになったとか、『源氏物語』みたいなハッピーエンドにはしない。どちらかというと『平家物語』的な感じだ。
ていうか『平家物語』のハードボイルド版が、この『水滸伝』、『楊令伝』といった水滸伝サーガなのかもしれない。




