『アイアムアヒーロー』4巻まで:(花沢健吾)漫画
読みました、噂の漫画を。ややネタバレあり。
近頃、漫画喫茶で『アイアムアヒーロー』という漫画を読んでみた。それよりずいぶん前に、ツタヤで一巻だけ立ち読みして何の話かさっぱり分からなかったので「これはないな」と思っていたのだが、後のツイッターオフ会でどうやらゾンビものであることが判明、急遽確かめてみた、というわけである。
ゾンビもの、ということを念頭に置いて一巻から読み直してみると、確かにそれらしい伏線がいたるところに張り巡らされているのに気付く。一巻はホラーなのかミステリーなのか悲惨な日常系なのか、底辺漫画アシスタントルポなのかよく分からない描写が続くが、それらはもちろん全て意図的だ。確信犯と言ってもいい。
主人公は35歳の漫画家アシスタント。かつて一度は雑誌で連載したのだが、それ以降は鳴かず飛ばずで極貧アシスタント生活で年だけ食っていく――という完全なまでのバクマンの逆パターン。登場人物も美男美女など全く無関係で、むしろブサイク寄り(というか今風に可愛くデフォルメしていない、というべきか)。
絵柄でもストーリーでも好き嫌いが分かれると思われるが、それと一巻を乗り越えれば急展開が待っている……と言いたいところだが、それでもちょっと先の展開はやや遅めか。海外のソンビ漫画『ウォーキング・デッド』は最初からフルスピードで展開され、非常にスリリングでアクションに満ちていた。筆者としてはこちらの方が好みなのだが、もちろん『アイアムアヒーロー』には『ウォーキング・デッド』他、いかなるゾンビ映画にもないような魅力がある。
それは、主人公があくまでも、このゾンビだらけで崩壊した世界の中で、いまだ「世間」というものを執拗なまでに引きずっている、というところだ(道徳や倫理と違うところがミソ)。
ゾンビものでよくある、「大切な人(家族や恋人)がゾンビ化してしまったが致し方なく殺す」という、道徳が問われる場面もこの漫画にはある。ていうか、それがいちいち長いので「もうちょっと早く進んでくれないかな」と思うほどである。こういうことは、すでに今まででのゾンビ映画でも散々描写されてきたことで、特に今更強調して描く必要もないだろうと個人的には思う。だがこの主人公の行動、道徳や倫理、というには少しズレているのだ。
例えば、第三巻(もしかしたら二巻だったかも。よく覚えてないが)でタクシーを拾って町の外へ脱出するシーンがある。
このシーン、タクシーの中で相乗りした客は実は感染者で、走っていくに連れて次々とゾンビ化していく、その描写も秀逸でスプラッターの中にユーモアも含まれていて、それが絶妙のリアリティーをもって描かれていて抜群に面白い。和製ゾンビ漫画でよくここまでやってくれた、といいたくなる。一巻の展開の遅さなど、すでにどうでもよくなる。
話を戻すと、タクシー運転手もゾンビ化してしまう。もちろんのこと運転などまともに出来るわけがなく、タクシーはそのまま横転して炎上。主人公は何とか脱出する。
このあと海外なら「サービスの悪いタクシー会社だぜ」とかアメリカンジョークをかましつつ、潰れた車の下敷きになっているゾンビ化運転手の頭を撃ち抜くだろうが、この漫画では「あ、運賃、これでいいですよね?」と言って、道端に一万円を置いて立ち去ってしまうのだ。
このあたり、いかにも日本人らしい、と言える。助けようとはしないが、かと言って今までの規律を破ってまで思い切ったことはしない。後で言い訳できるような、「限られたルールの中で最善を尽くしたし、緊急の事態でよく分からなかったからこうしとけばよかったと思ったんだ」という主張がぷんぷんする。まるで東電の対応のようである。
一応4巻まで読んだ。だがその中で主人公の主張、意見というようなものが全く見えてこないのである。普通なら「ゾンビ化しても治せるかもしれない。だから殺すのはよくない」とか逆に「ゾンビ化した以上、殺すしかない。そうしないと自分も殺される」とか「こりゃあいい、略奪し放題だぜ、ヒャッハー!!」など、極限状態に対して一種の割り切った意見を持つに到り、基本的にはそれに沿って行動する。
だがこの主人公は今までと状況は明らかに変わったのに、今までの「世間」に沿った行動を、執拗にとり続ける。「空気」は変わったのに、以前の「空気」に従い続ける。もしこの漫画が翻訳され、海外に輸出されたとしたら、ここらへんの描写はガイジンには全く理解できないだろう。特に欧米では全く理解されないと思う。『ウォーキング・デッド』の主人公は警察官で、状況を判断するとすぐさま決断を下し、皆を率いていく。まさにヒーローである。
しかしそれは『アイアムアヒーロー』ではありえないだろう。まだまだ続いていく漫画だから、もしかしたら後々そういう風な描写も出てくるかもしれない。だが、この主人公が主体的に行動し、皆のために対立する意見をまとめて決断を下す――ありえない。この主人公がもしそんな「ヒーロー」になったとしたら、それこそこの漫画の最終回といってもいい。そして「世間」、ここでいう「世間の決まりごと」のようなものは、大抵「現状維持」を至上命題にしているため、テンポが遅いに決まっているのだ。
タクシーの前の電車の中の描写も、似たようなことがテーマになっている。
電車と言えばマナーの話題によくなるが、まさにこの漫画でもそれが最初に描写されている。オッサンがDQNに、携帯のマナーを注意するのだ。その間にも、隣の車両では乗客はドンドンゾンビ化していき、ついにこっちの車両にまで乗り移ってくる。オッサンが乗り移ってきたゾンビ(そのときは乗客も状況をよくわかっていない)を何とか取り押さえるのだが、ゾンビの力が強くて一人では抑えられそうにもない。そこでオッサンは周囲の乗客に助けを求めるのだが……乗客は誰一人助けようとはしない。それは「俺/わたしがそんなメンド臭いことに巻き込まれるのは嫌だから」なのだが、本音は言わない。「私は女子供だから(だから非力だから無理)」というような建前を用意するあたり、真の日本人と言えよう。だが主人公は今までの町の状況を見てきたのだから、ここでオッサンを助けると思いきや、それをしない。
しかし、ゾンビ化した元恋人は、自己防衛のために殺している。
なぜか?
ゾンビ化した恋人を殺した場所は恋人の部屋の中で、他に誰も人がいなかった。そのため、周囲の目を気にする必要がなかった。もちろん、自己保身もあるし、それが第一原因だろう。
一方、電車の中では人目があった。この主人公、いち早く状況を察知すると銃(主人公は銃所持の資格があるから、これは違法とかではない)を持って恋人の家を訪ねたのだが、その時点で薄々状況を分かっていたのは間違いないと思う。
電車の乗客から「あんた男だし助けてやれよ」と水を向けられても、「いや俺、力弱いんで」みたいな言い訳に逃げる。噛まれたら感染すると(薄々)分かっていたから、ゾンビに触れるようなことはしたくない。だったら、持ってきた銃でゾンビの頭を撃ち抜いてやればいい。ところがそれは出来ない。
なぜなら、電車の中で銃を撃ったら銃刀法違反になるからだ。
オッサンは他人だから見捨てた、というのもあるだろうが、主人公はオッサンを助けることがすなわち自分も助けることに薄々気がついていたはずだ。まず、もうスピードで走る電車という密室で、次にゾンビが暴れたら、最終的に自分の身も危険になるに決まっている。35年も生きてきたなら、これくらいのことは確実に分かるはずだ。そしてこの主人公が本当のヒーローなら、オッサンが抑えたゾンビの頭を撃ち抜き、乗客に今までの状況を説明し、皆を指揮して隣の電車からゾンビが乗り移ってくるのを防いだはずだ。
本当はこうしなければならないのに、ついつい周囲の乗客の「空気」に流されて本来とるべき行動が取れない――だからこの漫画の各話のラストは、主人公が一人きりの空間で変なポーズをとりながら「アイアムアヒーロー」と言って終わる。ヒーローなのは名前の「英雄」だけ。
なんだ、この魅力を語ろうとしたのにむしろ貶しているようにしか見えない批評は。
しかし、今まで述べてきたことこそ、この漫画の白眉たる所以だと思っている。
あとは絵が凄い。上手いのはもちろん、異形と化したゾンビをこれでもかと執拗に描写している。一回この人に平山夢明の小説を漫画化して欲しいくらいだ。
中には思わず笑ってしまうような形状のゾンビもいる。こうやって「恐怖の中にさりげなくユーモアを混ぜる」し、「恐怖の中だからこそユーモアを感じる」といった描き方は本当に上手い。ホラーはただ怖いだけではなく、こういったユーモアのセンスも大切だと思っている。主人公が一人闇の中に取り残されたとき、「だいたい幽霊なんて設定がおかしいんだよ、なんで哺乳類だけなんだよ、そんなのが本当にいるならウィルスとか細菌の幽霊とかもいるだろ」みたいなことを言っているのも、最高に笑える。
4巻を終わったところで、ようやく他の生存者と合流。これからゾンビvs人間から、ゾンビもののお約束「生存者vs生存者」という方向に発展していくのかどうか。発展していったらそこで主人公・英雄は本当に「英雄」になれるのかどうか。
いやあ、多分無理だろうなあ。
追記。
この漫画の一巻、英雄の「世間との距離のとり方」が肝になっていると思う。先ほど述べたとおり、英雄は漫画アシスタントである。アシは長時間労働+時間不定期。詳しい時間は忘れたが、一般人とは生活している時間帯がズレているのだろう。正確な時間は筆者も分からないが、完全昼夜逆転とまでいかなくとも「世間一般」とは微妙に生活時間がズレているようだ。そして仕事はアシなので、いったん仕事を始めれば後は買出し以外で仕事場の外に出ることはない。そして長時間労働と極貧のため旅行も無理、空いた時間は自作の漫画作りに当てることが多いため(これは漫画家志望なので多分そうだろうという推測だが)、プライベートでも「世間」に接する機会が少ない。せいぜい出版社に漫画の持ち込みに行く時くらいか。
「世間」を知るのはニュース番組のみ。英雄が現実のような幻覚を見るのも、これと無関係ではあるまい。英雄たちにとって、現実の方こそテレビの向こう側の、実態のない幻想のようなものだろう。
英雄にとって、世間とは現実であると同時に幻想であり、希望(将来漫画家になれたらいいな)であると同時に恐怖(このままアシで一生終えたらどうしよう)であり、「世間なんて関係ねえ!」(ヒット飛ばして金さえつかめばマンコから寄ってくるんだよ!)であり「でも世間体は気にする」(だから早くヒット飛ばして自慢してえ)である。
元々「世間」からすると、英雄はある種の部外者でもあり構成員でもあるという、非常に複雑な関係になっている。だから世間から距離感があるおかげで英雄は感染ルートが限られ、生き残ったという作中で述べられた理由は十分に納得出来る。普通のサラリーマンだったら、朝の通勤ラッシュでそのまま天国へ快速急行だろう。
何か、『キック・アス』をさらに滑りウケさせたような作品みたいですな。『キック・アス』は最後に主人公が「主人公になる」が、この主人公は最後までヘタレだろう。むしろ精一杯ヘタれて欲しいと思っている。
なんだ、この久々の真面目なレビューは。真面目すぎる自分が怖い。