『独眼竜政宗』(大河ドラマ)
ほとんど荒筋紹介みたいになってしまった。ネタバレ有。歴史ドラマでネタバレって言うのかどうかわからないが・・・
最近、大河ドラマでも見てえなあ、と急に感じ始めたので、今までの大河で一番評価が高いと言われている『独眼竜政宗』を借りて見ることにした。全50話。長い!
しかし見始めるとすごい引き込まれて、50話というのも密度が高く、むしろたった50話で武将一人の生涯をここまで描き切ったのか、と感心するくらいである。
話は政宗の父親、輝宗の代から始まる。輝宗に母親である極道の女・岩下志麻、もとい義姫が嫁いできたところからスタート。どのセリフも小気味よく、テンポよく流れていくが、脚本だけでなく、原作が山岡荘八だからであろうか。この人の書く時代小説はどれも面白い。
父親の代から伊達家は周囲の大名と戦争していた。東北地方の大名は複雑な婚姻関係で結ばれており、親戚同士の骨肉の争いを止められなかった。さらに一族内でも内紛が多く、それが余計に群雄割拠に拍車をかけた。伊達家も祖父の代に内乱があったし、隣国の最上家でも義光(と書いてよしあきと読む。このドラマみて初めて知ったよ……)が弟と家督を争った。後に最上家は伊達家のライバルとなるも、さらに悲運によって家運が大いに傾いてしまうのだが、それが伊達家と対比されていて対照的だった。
政宗誕生時はちょうど信長はまだ美濃取りが終わった頃くらいであろうか。政宗の成長と同時に、信長も急激に勢力を伸ばして天下へ近づいていく。
そんな中央情勢に東北の大名ながらも父親は早くから目をつけていて、信長に献上の品を差し出すなど、根回しが早い。戦でも、本当か知らないが、ドラマを見る限りでは堅実で手堅い戦をする、知勇兼備の武将だと思う。
まず幼少の政宗の教育係、虎哉和尚である。大滝秀治が演じているのだが、このドラマ、約30年前である。出演者は今見るとみんな若いのだが、大滝秀治はいつ見ても年寄りであり、「生まれたときから年寄りだった」という説も本当かもしれない。
出演者ということで思い出した。主役は渡辺謙なのだが、あまりに今と違っていて最初は全く分からなかった。ラストサムライと見比べても、全然分からない。ただ、伊達政宗の役にピッタリで、本当に政宗がよみがえったかのような演技だった。
虎哉和尚の教育もなかなか面白い。禅問答的なんだけど、思わず視聴者も考えてしまう。あの有名な手を鳴らして「音がしたのはどっちの手じゃ?」というのも出てくる。
この虎哉教育で一番印象深かったのは、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という語源だ。これは延暦寺の住職が残したもので、信長の焼き討ちの際にこの言葉を発して従容として寺と一緒に焼け死んだという。
これを「やっぱりやせ我慢じゃん」と受け取るか、「信仰を守った立派な和尚」と取るか。
同じく山岡荘八の『織田信長』では、延暦寺焼き討ちのシーンで光秀と信長の政策論争が交わされており、作者は答えを提示せずに、あくまで当時の考え方を二つ示すにとどまった。
むろん、虎哉和尚は同じ仏門として延暦寺焼き討ちは暴挙である、という意見だ。しかし政宗は違った。天下取りという輝く道をばく進する信長は、政宗にとってこの頃から憧れだった。本当かどうか分からないと言えば全部そうなるが、政宗が天下人として信長を目標にしていたのは面白いし、多分そうだと信じたい。だとすれば、子供の頃から信長ファンだったとしてもおかしくない。
とにかく、そこではじめて政宗は、ただ単に先生の言うことを聞くだけでなく、自分の意志、夢のようなものを持ち始めたのだ。
むろん、和尚も認めるものの、僧侶としてたしなめることも忘れない。「武将の道は、修羅の道じゃぞ」と釘を刺す。この釘は政宗だけでなく、このドラマ全編に渡って深くささる釘であることも、またこのドラマを多層的にして奥深くしている。
虎哉和尚は幼少期にこのような印象的な役回りをいくつもこなすことになる。この和尚がいなければ、独眼竜もこれほどの深みがあったかどうか。ストーリー上、重要な人物である。
ちなみに私個人としては、延暦寺焼き討ちは時代が動くために仕方ないことだと思う。延暦寺には中立を守る約定を信長と取り交わしており、それを一方的に破ったのは延暦寺の方だからだ。この頃の寺社はただの寺社ではない。武装した政治結社でもあるし、座や市や関所などの利権をもつ利権団体でもある。延暦寺が悪とは言わないが(戦国時代に丸腰でいるのは無理だから)、信長のやったことを暴挙と一方的に批難することもできまい。
さて、もう少し成長し、幼年期を抜け出し少年へと成長した政宗。
早いけど、この頃にはすぐに元服して政宗と名乗る。政宗とは、9代伊達当主で、伊達家中興の祖と言われていた。それにあやかってのことなのだが、今ではこの「二代目」政宗の方が有名になってしまった。
少年期には、もう婚約がとりなされる。相手は三春の領主の娘、愛姫。けっこう可愛かった(小並感)。そんなわけで、少年と少女のぎくしゃくした生活が始まったり、初陣を飾ったり、何だかんだでイベントが多い時期でもある。
この頃の教育係は、虎哉和尚だけでなく、父親からも色々教えてもらっていく。その内容が戦国の武将感があって面白い。
初陣で血気にはやって敵中へ駈け込んでいった政宗を叱責する輝宗。その後で「家臣は主君のために死ぬのが務め、主君は家臣のために生き延びるのが務め。大将が死ねば一家は散りじりとなり、家臣は路頭に迷う」と常識論を説いた後で「家臣と主君……死を挟んで向かい合っておる。それが武士の道じゃ」と説く。先の虎哉和尚と併せて考えると、なかなか深い。これから政宗は家臣と死を挟んで向かい合っていくことになる。
そしてついにやってきました、政宗、家督継承である。この原因が面白い。
少年政宗のお守り役は何人かいる。鬼庭左月斎の娘、北と、白石小十郎である。二人とも、自らの命をなげうってでも政宗を立派な名将に育て上げようとする。この頃から「死と向か合う」は始まっているのだ。
その守り役の小十郎が、功績を認められて出世した。守り役だけでなく、政宗が大人になっても補佐して欲しい、ということである。普通なら「良かったじゃん。優秀な補佐役として頑張ってくれそう」と思うところだろうが、これが家中に大争乱を巻き起こすことになる。
小十郎はいわゆるぱっと出なのだが、それが出世することで代々伊達家につかえている譜代の家臣が文句や不平を言ってきたのだ。
現代人なら「なんて器の小さい奴らだ。実力ある人間が出世するのは伊達家全体の利益にもなるし、いいじゃないか」と思うだろうが、今の官僚や大企業を見ていると笑えないことにお気づきだろうか。高学歴出身者で固められ、エリートの意地とプライド以外何も守る物がない彼らに対して、もし「高卒バイトだけど、優秀だから、今日からこいつが君らの上司ね」と言ったところで、そう簡単にみんな従うだろうか。きっと陰口を言うに違いない。曰く「あいつはうまいこと上に取り入ったんだ」とかである。
小十郎もこれと全く同じ目にあった。いわれなき誹謗中傷に対して、一時期はくじけそうになるものの、主君への義務を果たすべく、自らを奮い立たせて責務を果たす。小十郎はまさに男の中の男である。
評定でも、血気はやる政宗や家臣に対して、常に一歩引いた冷静な意見を述べる。この小十郎を見出した輝宗の眼識に、間違いはなかった。
ただ、とにかく今は家内の分裂である。こういう時には普段は表に出ない不平不満もドンドン出てくるし、ましてや戦国時代、最悪の場合は他国へ寝返るものも出る可能性もある。
そこで輝宗が取った手段は、隠居&政宗への家督継承である。
これは戦国時代ではときどき見られる。ちなみに武田信玄も、父親を追放したが、元は父親の信虎が他国者を優遇したために、譜代の家臣が不満を抱いたのが原因と言われている。それくらい、譜代というのは厄介な家臣なのだ。
では、なぜそんな厄介な譜代を大切にしたのだろうか。言うまでもないが、何世代にも渡って主君を支えてきたという信頼と実績は抜群だからだ。それに全ての譜代を敵に回せば、主君と言えど簡単に、かつ文字通り首が飛ぶ。
譜代は誇りがあるが、それは欠点だけではない。譜代というエリート意識、家名があるからこそ、戦場で敵を前にしても逃げずに戦えるのだ。主君が危機のときに、自らの命と引き換えにしても守り通すのだ。
よそ者にはそれはない。別に主君が死んでも、またどこかへ仕官すればいいだけだ。だからこそ、信長のように他国人を使いこなすのは、よほどのカリスマが必要だった。あるいは、政宗と小十郎のように、ただ単に「主君と家臣」だけでなく、個人的な友情や師弟関係などが必要だった。実力主義と言ってもほとんどの戦国大名は不徹底だが、それも仕方ないことだろう。
歴史の大まかな流れとしては、信長だけがそういった天下取りへの体制を徐々に固め、最終的に天下寸前まで行ったが志半ばで倒れ、秀吉がそれをついで(というか簒奪して)天下を取った。しかし、その天下は跡継ぎの不在、譜代の家臣の不在などの理由により一代であっけなく崩壊、結局は譜代と外様がある程度妥協する形の幕藩体制に落ち着くことになる。
そんなゴタゴタの中、政宗は家督を継いだ。この家督を継いだ時に、少年藤次郎から伊達政宗として、先ほど述べた渡辺謙が登場する。そして視聴者の期待もマックスになる!
まず、最初は、当主交代の挨拶である。周辺の諸大名も、当然ながら全員敵ではなく、中には懇意にしている者もいる。そんなご近所づきあいで、あいさつに来る大名や領主と対面するのが、家督継承の第一の仕事だ。
それを立派に成し遂げる政宗。ときには恫喝じみたことも言うが、全て伊達家のためになることである。特に二本松家の対応が印象的だ。
「二本松の松は二股と聞く。今度確かめに参る!」。要するに、弱小大名二本松は、周辺諸国へコウモリ外交をしていたのだが、それを政宗に見透かされていた、というわけだ。二本松も「こいつは厄介だな」と思ったはずだ。
そんな名将っぷりからスタートし、順調に家督継承したかに見せかけるも、次の初陣が不味かった。この初陣は全軍の指揮官としての初陣である。華麗に勝つものと思いきや、家内の不統一が裏目に出たのか、裏切り者から情報が漏れて敗北を喫することになる。
この時、19歳の政宗は怒り狂って敵陣へ突撃しようとするが、それを制止したのが白石小十郎である。「むやみに戦って死ぬなど、匹夫の勇にあらずして、なんぞや!」とむしろ政宗を完全論破、被害が少ないうちの撤退をなんとか決意させる。
それからの落ち込みっぷりが凄まじい。今までイケイケだっただけに、敗戦によって家臣だけでなく、母親にすら「本当に当主の器に相応しいのか」と疑われる始末。特に母親は極道の女ということもあって、政宗を責めたてた。まさに小言ババアなのだ。また、この義姫(結婚してからは館の東側に住んだことからお東の方、お東様、などと呼ばれることになる)というのが戦国時代でも群を抜いての気の強い、激情家なのである。この性格は、後のちまで様々な事件というか、エピソードを巻き起こす。
とにかく、そんな中でも隠居した父親はしっかりと息子を見守っているのが、親子の情の深さを感じた。ただ、安穏とはしていられないのも事実だ。一部では政宗の弟を持ち上げる勢力、大殿(隠居した輝宗のこと)に再出馬を願う者と、家中の不統一は広がるばかりである。
当然、政宗もそれは憂いていた。先ほど譜代のところでプライドや家名と言ったが、君主も当然家名を負うわけである。その家名の重さを、敗戦ゆえに政宗も視聴者もいっそう重くのしかかってくるように感じるわけである。
さらに政宗の悩みとして、なかなか子宝に恵まれないというのもあり、政宗の焦燥ぶりと消耗ぶりは見るに堪えない。このまま押しつぶされるのか……
という不安がありつつも、やがて政宗はそれから立ち直ってゆく。今度は家臣を固めて手堅い戦に臨んだ。また、初陣は父親の代からの功臣を避けていた。若い、気の合う者だけで、口うるさい年寄り共に気を使わず思い通りの戦をしたかったのだろうが、結果は以前の通りだった。この頃から、政宗は人の使い方も徐々に学んでいくことになる。
とにかく、敗戦を教訓に臨んだ再戦では、プレッシャーの中で見事な勝利を収めた。これからの政宗は、連戦連勝である。
ただし、政宗の野望はそう簡単には達成されない。天下取りの前に奥州制覇を目指す政宗。家督を継ぐ数年前にすでに織田信長は本能寺で自害しており、またしても天下は乱れた。次の天下人が出てくるまでに、いや、つぎの天下人こそ俺だ! という思いを胸に、覇道をばく進する政宗。
そんな野望は周辺大名からみれば、ただの絵空事だった。周辺大名がドンドンと伊達家に襲いかかってくる。この時から政宗の苛烈な戦いが本格化する。
ただ、この戦の中で滅ぼすことだけでなく、味方に引き込むことも学ぶことになる。特に大内定綱がそうだ。大内は最初こそ敵だったが、負けた後は政宗に帰順。最初は政宗も快く思ってなかったが、そのうち忠勤に励む大内と長年働くうちに、だんだんと懇意になって行った。まあ、ドラマを見ていると「お前いつの間にそんな仲良くなってんだよww」と思ったが。
ちなみに、この大内定綱は、ムスカの中の人である。人がゴミのような人である。
そんな苛烈な戦いのさなかに大事件が派生する。先の二本松家が降伏交渉に来たものの、政宗と条件が合わず決別、父親の輝宗に相談しに来たのだが、そこで輝宗を人質にとって逃走するという事件が発生したのだ。大殿の拉致である。一歩間違えれば、お家の存亡にもつながる。
ていうか、その前日なんだけど、政宗と輝宗が久々に会って酒を酌み交わす場面が出てくる。そこで輝宗が「政宗、大きくなったな……」とか「小さい頃はあんなに気の弱かったお前が、こうも気性の激しい武将になるとは……」なんて死亡フラグを建設ラッシュするのがいけないのである。挙句に「梵天丸(幼名)、藤次郎、政宗……お前なら、本当に天下を取れるかもしれんな……」なんて言ってたらそら、死にますよ、ええ。
そんな立てまくった死亡フラグをたった一日で回収した律儀なお父さんは、しかし中々決心のつかない政宗に対して「撃てー! 俺を撃てー! 天下を取りたくないのかーーーー!!」と絶叫。政宗も、泣く泣く二本松もろとも、父親を鉄砲隊で撃ち殺す羽目になった。
ただ、この辺でちょっと引っかかったのが、輝宗が鉄砲ではなく、二本松の刃によって死んだことである。史実はどうか知らない。ただ、ドラマでは政宗にせめてもの情けか、手を汚させないようにしているのかもしれず、そこが少し引っかかった。死体はその後、すぐに火葬されたため、結局銃弾で死んだのかどうかは分からずじまいだった。
ただ、普通に考えれば銃弾で死んだからこそ、火葬にして証拠隠滅したと考えるのが妥当だと思う。二本松が刺して死んだだけなら、むしろ死体はそのまま持ち帰って、「俺が父親を射殺したわけじゃない」と言えばいいのだ。事実、このあとあの母親にまたしても「本当は政宗が撃ち殺したから、証拠隠滅のために火葬したのでは?」と疑われ、親子の溝がさらに深まることになる。むろん、側にいた家臣たちは、政宗の苦渋の決断を知っているし、あの状況で大殿が拉致されていいようにされれば、伊達家はまさに存亡の危機となる。政宗の決断は致し方なかったというのが、だいたいの家臣たちの心情ではないだろうか。
ただ、この事件はこれだけにとどまらなかった。大殿は人望の厚い武将だったのだろう、遠藤元信をはじめとする、先代の功臣、老臣たちが次々と殉死していったのだ。これには政宗も真っ青である。やはり老臣たちも家を支える大きな柱であり、それが次々と折れていっては伊達家の大損失である。大殿が死んでせっかくの戦勝でも士気が上がらない中、殉死が続けば気分も沈む。すぐに殉死禁止令を出したが、それでも何人かは殉死していったという。
この頃から「家臣を失う」というのも視聴者、政宗も経験する。特に大きなのは、この直後の激戦で、鬼庭左月斎という、いかりや長介を失うのである。役者的に存在感が大きいが、実際も長年戦場を駆け回った功臣であり、ドラマでも重要な役回りが多かっただけに、その死は印象深く、また哀愁を感じるものとなった。いかにも戦国武将らしい、潔く華々しい討死だった。
そして激戦は、最後の決戦へと向かっていく。当時の奥州を二分する勢力として、伊達と蘆名があった。どちらも名門で奥州探題を自称していただけに、対立は根深い。周辺諸国の包囲網を切り抜けた政宗は、ようやく積年の対立に終止符を打つべく、決戦を挑む。
ところで、このドラマは政宗だけを描いているわけではない。この頃くらいから天下人の様子も描かれるようになる。この時は秀吉である。着々と織田家を乗っ取り、小牧長久手から家康との講和、そして次は小田原城攻め……ただ、秀吉に関しては老齢になってから描かれており、初登場時からかなり耄碌した印象を受けた。勝新太郎の秀吉は、実物とは容姿は違うだろうが、「天下人のオーラ」はビンビン出ていた。このときは確か小牧長久手後の家康との講和だったと思う。そして総無事令が発布される。大名の私闘を全て禁ずる法律である。要するに、この瞬間に天下人は秀吉に決定し、戦国時代は形式上終わりを告げた。残っているのは消化試合だけである。信長の野望の終盤だと思えばいい。
ただ、それでも政宗は夢を諦めきれない。秀吉には子がいない、つまり跡取りがいないから、すぐに天下は乱れると予想、その前に切り取れるだけの領地を切り取って勢力を温存し、チャンスが来たら天下取りの戦を仕掛ける……こういう「天下取り構想」はこのときだけでなく、政宗は常に持ち続けることになる。
そう、だからこそ、蘆名との決戦を急いだ。なるべく早く決戦し、蘆名を滅ぼし、既成事実化しなければならない。
蘆名との決戦より、むしろその「時限爆弾」の方がハラハラする。これによって、「仮に勝ってもこの先どうなるの?」といういい意味での漠然とした不安が視聴者にしこりのように残り、次への伏線になっているという作劇技法も見事。
結果的に蘆名との対決は、蘆名家臣、猪苗代家の裏切りによって有利な場所に陣取った政宗が優勢で始まった。さらに蘆名家の当主がちょうど代替わりで、しかも跡継ぎがいなかったので、親戚の佐竹家から養子を迎えて当主にしたのだが、まだ当時17歳の新人では荷が重すぎた。蘆名家臣も、この新人当主になついておらず、また佐竹家から連れてきた家臣が幅を利かせたため、土着の譜代家臣は当然面白くない。関が原の裏切り劇のように、決戦というのに蘆名家臣は動かず静観をするもの多数、あっけなく蘆名は滅びることとなる。
決戦が終われば戦後処理である。とりあえず、祝宴で戦勝祝いである。この席にはちゃっかり大内定綱もいる。いるだけでなく「それがし、殿の人柄に惚れました。まさに名将の器でござりましょう」なんて言い出して、「お前ちょっと前まで裏切ってまで戦い合ってただろww」という突っ込みが視聴者と周囲の家臣から浴びせられることになる。ただ、大内もこれから先、知将として伊達家を大いに支えていくことになるし、何か憎めない奴ではある。
戦勝によって手に入れた蘆名の本拠、黒川城をいたく気に入った政宗は、信長よろしくここに本拠を移すことを決定する。家臣は父祖代々の土地を捨てることに少し戸惑うが、政宗の野望は果てしない。このまま佐竹、北条も切り取りまくるぞ! と思うじゃん?
そこに来たのが小田原攻め。この戦いに対して、最初は静観を決め込む政宗だが、そのうち家中の中にも「どうせ秀吉が勝つんだし、それなら早めに参陣した方がいいんじゃないの?」という声が家臣から上がるようになる。それに対して、家中随一の猛将にして、古き武士の価値観を大事にする伊達成実(ちなみに政宗の一歳下)は猛然と反対する。ここで、小田原早期参陣派と、小田原参陣無用派によって、またしても家中が割れてしまうことになる。この家中分裂に、仲の大してよくなかった母親、東の方が絡んでくるから話がドンドンこじれてゆく。
小田原参陣派の家臣が、政宗の弟を新当主として迎えよう、と画策し始める。さらにこの計画に東の方が決定打を引き起こす。そう、政宗毒殺である。
結果的に早期の救助によって一命はとりとめたが、このことによって政宗の決心はついた。家中分裂を防ぐ決心。つまり、弟を斬る(ついでに母親追放)、ということである。
この場面の悲痛さは果てしない。弟自信は担がれる可能性がある、というだけで、何も悪いことはしていないのだ。ここで思い出すのは虎哉和尚の修羅の道、だろう。そう、この時こそ、政宗が本当の修羅の道の厳しさを思い知った時だった。このことは政宗の人格にも影響を与えただろう。特に風呂場で弟の幽霊を見て半狂乱するさまなど、決して独眼竜ではない。ただの哀れな夢破れた敗残者の姿であろう。
とは言え、政宗にも決断の時限が迫ってくる。伯父でもライバルでもある最上義光は参陣を勧めるが、政宗は中々決心がつかない。というのも、東北地方の大名はみな争っているため、参陣で首脳がいない間に攻めてくるのでは? あるいは向かう途中に打ち取る気なのでは? という疑心暗鬼に陥っているからだ。
そんな中、政宗はあえて遠回りをして危険な大名を避け、情報を隠してひそかに小田原参陣した。結局のところ、秀吉の勝利はもはや決定的で、勝者に参陣しないと次の討伐の対象になるかもしれないからだ。
ここから、政宗の、武将ではなく今度は伊達者としての活躍が始まる。
まずは秀吉に会う服装だ。ただでさえ遅れてきた上に、総無事令を破って蘆名を滅ぼしたわけだから、相当の奇抜な「演出」で秀吉のご機嫌を取らねばならない。やはり総無事令を破ったのは痛かった。最上は伊達よりさらに少し遅れたのだが、それでもギリギリ許された。伊達家はさらに条件が厳しい。その厳しい条件を、白い喪服を着ていくという演出で乗り切る。要するに、「自分はもう死んだつもりで心を入れ替えて天下国家の安寧につくします」という必死の決意表明だった。
これを見て、派手好き、変わった物好きの秀吉は大いに心動かされた。政宗を許したのだ。だが、そこで秀吉も演出返しをした。山の上だったのだが、そこから直接政宗を案内し、小田原城が見渡せる場所に連れてきた。そこでひとしきり自分の軍容がいかに大軍か見せつけた後、立ちションしだしたのだ。ただ、これは完全に大河ドラマの「演出」だと思う。あの豪華な衣装に立ちションできるような機能はないと思うし、いくら秀吉でもそこまでしないと思う。
ただ、ドラマ的にはこれで良かった。これによって、田舎大名政宗と天下人秀吉の格の差が、歴然としたからだ。これ以降、政宗は田舎大名の身分に悩まされることになる。天下を取ると誓った。それもただ誓ったわけではない。実の父親をそのために殺しているのだ。ただのワナビで終わってはならない……
ならないが、結局のところ天下は秀吉でとりあえず収束し、束の間の平和が訪れた。
この時まで子宝に中々恵まれない政宗だったが、この後くらいから待望の長男誕生、それ以降は側室含めて男女合計9人の子宝に最終的には恵まれた。これと対照的なのが秀吉である。暫定後継者である秀次は、最終的に素行が悪いということで、また秀吉に待望の(後の)秀頼が生まれたこともあって「処分」された。両家が対比されていて面白い。ちなみにこのとき、最上義光の娘が秀次の侍女として召し抱えられていたせいで、秀次もろとも処刑されてしまう。秀吉の残忍さもさることながら、最上家の悲運はこの時から始まっている。謀将義光の耄碌ぶりも、見ていてドンドン痛ましいものになってゆくが、それはまだ先の話。
とにかく、国内体制を固めるための領土仕置きと、太閤検地の二大イベントが発生する。
結局、伊達家の蘆名討伐は認められず、旧蘆名領は名将・蒲生氏郷の預かるところとなった。これらの出来事によって最上、伊達の反豊臣は決定的となった。さらに領土だけでなく、太閤検地の厳格な実施も命令される。要するに、今で言う所得隠しをできないようにするのだが、事実上の増税に、民百姓の一揆が東北で起きる。
当然ながら、これを鎮圧するのは領主の仕事である。蒲生は慣れない東北で一揆鎮圧にあたるのだが、隣国の伊達にも協力を求める。ところが、伊達の動きは遅く、むしろ一揆勢と手を組んでいる様子。しかし証拠がない……と思ったところ、一揆勢から政宗の文書が発見される。
当時、大名は書類にサインをしていた。政宗のサインは、形が似ていることからセキレイという鳥にたとえられた。このセキレイが、一揆勢の持っていた文書から見つかったのである。
当然、一揆勢を扇動したとなると明らかな反逆、お家取りつぶしの危機である。ここでもまた政宗はうまい「演出」で言い逃れする。
「このセキレイには眼が開いておりませぬ」と言い出したのだ。
政宗の言い分によれば、本物のセキレイには眼の部分に針で穴を開けてあるのだという。しかるに、このセキレイには眼が開いていない、だからこの文書は偽物だ、というのである。
滅茶苦茶な言いわけである。よくこれが通ったものだと感心するが、なかなか風流でウマい言い訳であることも確かである。他に贈り物や賄賂なんかもばら撒いたのかもしれない。とにかく、政宗はこれによってなんとか虎口を脱し、お家存続の危機を乗り越えた。
そして、ほどなくしてライバルの蒲生氏郷も、40歳くらいなのに病気で急死してしまう。政宗からすれば、目の上のタンコブが消えたと同じだ。
話は変わるが、これも豊臣家滅亡を早めた要因だろう。蒲生氏郷は特に知勇兼備の名将で知られ、旧蘆名に領土を与えられたのも、東北ににらみを利かせつつ、家康を北から監視する役目もあったのだ。この後の蒲生家は、すぐに転封、領地大幅削減の憂き目に会うが、それも仕方ないことだった。蒲生領は重要な役割を背負っており、氏郷に実力があるから任せたのであって、実力がないなら任せられない。任せられないけど、その後に来たのはやっぱり無能だったのを考えると、蒲生氏郷があまりに早死にしたのは惜しかった。堀秀正も早死にしたが、ここら辺の頼れる次世代武将の早死には確実に豊臣家の弱体化につながっただろう。
まあ、そんなこんなで文禄・慶長の役である。
ここに大河ドラマ(独眼竜だけでない)の最大の不満がある。
とにかく、朝鮮役になると流して終わらせようとする姿勢である。
400年前の歴史で、何があったのか、事実を語ることすら許されない、これが表現の自由、思想・信条の自由のある国で行われることだろうか。
何も秀吉を美化しようというわけでもなんでもない。ただ単に韓国からのクレームを恐れてのことだろう。
他国、特に中国、韓国が絡むと、事実の描写すら遠慮するという偏向っぷりにはもはや辟易である。これが歴史ドラマで行われることなのだろうか。この自由の侵害こそ、憲法違反にして歴史への冒涜である。
まあ、とにかく不満はこれくらいにして、伊達家の動きである。伊達家は朝鮮役に一応参加したものの、規模も少なく(数百人程度)、参加したのもちょろっとだけなので、ほとんど関わってないに等しい。
ただ、朝鮮役というのは侵略であると同時に、兵士からすればのし上がるチャンスでもある。当然、政宗も小規模とはいえ準備には時間と金をかけた。金の鎧も作って、デザインも家臣を集めて考えた。そうやって目立つことで、戦場での活躍をアピールしようとしたのだ。
ただ、最終的に伊達家にとって朝鮮役はあっけなく終わった。大した成果もなく、かといって損害もなく、そのまま引き上げた……のなら良かったのだが、なぜか政宗が朝鮮製の陶磁器を手にして「こんな立派な陶磁器を作る国を攻めても、うまくいくまい」と急に露骨な朝鮮フォローをしだす。もう止めろ……そこまで言うなら、儒教国で職人がどれだけ地位が低かったかも描写すると、より中立的になっていいんじゃないかな。
あまりにムカつくが、これ以上言ってもしょうがないので止めておこう。
とにかく、朝鮮役(文禄の役)が終わると次は秀吉の死である。
秀吉の死にざまは凄まじく哀れである。生前はあれほど諸大名に偉そうにしていたのに、いざ死ぬとなると秀頼の世話を病床から頼むという有様である。ここで大半の人が思ったはずだ。果たして天下を取ることがすなわち幸せなのかと。そうでないことを、ここでは示したかったのだと思う。少し先走るが、結局伊達家は田舎の外様大名で終わってしまう。政宗の天下統一の夢は、結局かなうことのない夢だった。
しかし、だからこそ、その生きざまに視聴者が自分を重ねてしまうのではないだろうか。人生で勝者になれる人間など限られている。大半は敗者なのだ。いや、負けても人生は続くわけで、生きていかなくてはならない。そこで妥協してそこそこの地位を手に入れるために、また頑張るのだ。
では、勝てば幸せで、負けた者、妥協したものは不幸で幸せにはなれないのだろうか。これが、このドラマのテーマになっているような気がしてならない。
話を続けると、この直後に関が原の合戦が起こる。ここでも、政宗は田舎大名として地方の争いに参加するだけで、中央の決戦には全く参加できなかった。ただし、上杉勢を釘付けにする活躍で家康から100万石の書状を貰うが、またしても横着して一揆を扇動したため、それを咎められて2万石の加増にとどまった。伊達と一緒に戦った最上家は、一気に倍以上になり、伊達と並ぶ石高を得たというのに……
またしてもガックリとした政宗。これ以降、もはやいくさの時代ではなくなり、政宗は文の武将として、その素質、才能を開花させてゆく。風流の才能があったのだ。
これは秀吉時代から発揮されていたが、本格的に発揮されたのはここらへんくらいからか。もはや戦乱は終わった。秀吉の海外進出失敗によって、海外への領土獲得の可能性もなくなった。そうなると、武士の仕事はなくなるわけだ。
また、1603年には家康は征夷大将軍に任命され、本格的に幕藩体制を固める政策を推し進める。もはや武士に必要なのは槍働きではなく、文官として領国経営の手腕と、風流の道だった。
領国経営はいいとして、なぜ風流なのだろうか。これも少し先走るが、江戸城で政宗が福島正則に、いきなり相撲を挑むシーンがある。史実では相手が正則ではなかったと思うが、これは実際にあった話だ。もちろん、この頃には年を取っていたので、相撲で負けてしまう。
なぜ、こんなバカなことをしたのか。これも一種のアピールである。「もう天下に興味ありません、ただの耄碌した老いぼれですよ」というのを示したかったのだろう。
加藤清正も、芸者を呼んで歌舞伎をやらせたりと、「もう戦争する気はありません」アピールをしていたし、前田家もバカ殿アピールをしていたという話が残っている。
要するに、風流に金を使うことは文化の奨励もあるが、「もう戦争する気はない。だからこんなことに金を使っている」というアピールという側面もあった。
ここら辺になると、完全に戦国時代は終わっている。少なくとも、後世の視聴者からすればそうなのだが、当時の人間にはそんな簡単に意識を切り替えることはできない。
戦国の残り香と、江戸時代という新しい時代のせめぎ合いの中、その中でどうやって生きていけばいいのか、そういう話になっていく。
大河ドラマは他に『毛利元就』を見たが(ていうかそれしか見てないけど)、毛利元就は戦国時代に生まれて、戦国時代に死んだ。だから元就は一貫して戦国大名であればよかった。
ところが、伊達政宗は違う。戦国時代の最後の方に生まれ、関が原の時点でせいぜい30半ばくらいである。一番武将としてイケイケの時期に、それまでの「領土は切り取り放題」から「将軍を立てて、平和の領国経営をしてゆく」という180度違った身のこなしが求められるのだ。
政宗自身は、それを理解しながらも、まだ天下への夢も秘かに持ち続けていた。
それは二点のエピソードに要約されるだろう。
まずは寺を作るふりをして、実は軍事施設にもなりうる要塞を作ったということだ。実際に寺として現代まで残っているが、いざという時は籠って戦えるような地形に建てられている。この頃は一国一城令によって、本城以外に城を作ってはならない。
政宗は表面上、寺という外観を装うことで、脱法行為を行ったのだ。ただ、その寺は幸いにも要塞として使われることはなく、寺のままで現代まで至る。
もう一つは、遠洋航海船である。幕府は、キリスト教を禁止して、なるべく貿易だけ行おうとした。だが、なかなかうまくいかない。幕府は遠洋航海船を作ろうとするが、失敗してしまう。そこで名乗り出たのが政宗である。
もちろん、幕府に媚を売るだけが目的ではない。一番の目的は、海外と秘かに手を結び、隙あらば海外勢を招き入れて幕府を攻め滅ぼす、というものだ。もちろん、貿易利権を秘かに手に入れ、自分たちだけ儲けたい、という野望もある。つまり、まだ天下取りとか少しだけ考えていたのである。
ローマに支倉常長が使節として送られたのは有名だが、これも後に目論見は外れることになる。結局、遠洋航海は幕府によってすべて禁止、となったからだ。外洋航海船をつくることも禁止。これから江戸時代、技術の大幅な停滞が始まるが、平和というのは得てしてそういうものかもしれない。近代企業による、資本主義体制が出てくるまでは。
そんなこんなで、平和になっても何だかんだで大変な事態が次々と降りかかってくる。特に印象的だったのは、娘婿の松平忠輝だろうか。
忠輝は家康の6男である。松平という名前から分かる通り、主家ではなく、分家を継ぐことになった。それでも外様の大藩くらいの領国は与えられている。その6男と政宗の娘が結婚したのだ。婚約自体は二人が幼少のとき、関が原以前になされていたが、その婚約が実行されたのだった。世の中には「政略結婚だから可愛そう(しかも女だけ)」という見方が大半を占めるが、政宗の場合も、この忠輝とイロハ姫の結婚も、夫婦仲は悪くないし、むしろ幸せな方だと言えるだろう。「○○という境遇だから可愛そう」というのは、全く人間の力を無視した暴言だろう。確かにあまりにもどうしようもないこともあるが、大抵のことなら人間は苦境を乗り越える力が備わっているのであり、だからこそその人生は輝くのである。仮に政略結婚は本人の意思を無視しているからダメだとして、じゃあ今の自由恋愛はそんなにいいことなのだろうか? そんなことは今の少子高齢化を見れば、必ずしもそうでないことは明らかだ。
ただ、夫婦仲は良いものの、忠輝の気性に問題があった。
戦国時代が忘れられないのだ。
いつまでも気性が荒く、何かと幕府に反抗的な態度を取る。また、義父の政宗に天下取りをたきつける始末である。政宗のように実際に面従腹背で色んな手を探るような老練さはないし、何だかんだでアホである。これには6男ということで、あまり家康に可愛がられなかったという、家庭的な事情もあるっぽいけど、ドラマだとそこまで語られてない。
とにかく、この忠輝がイロハ姫と一緒にキリスト教に入信したり、船に乗って海外に行きたいなど、けっこうわがままを言うのだ。ただ、気のいい奴でもあるし、上司の子供だし、気性も政宗の気に入るところがあったので、何かと政宗も忠輝をかばいだてしていたが、やがてそれも限界が訪れる。そして忠輝は領土没収の上、どこかへ流される。むろん、イロハ姫も離縁である。
政宗も頭が痛いが、仕方なく一家の長として決断を下していく。このあたり、かつてのような死人こそ出なかったが、辛い決断であることは間違いないだろう。
そして家族と言えば、母親の東の方である。もう出家しているので芳春院だが、母親を引き取る話である。これも一筋縄ではいかない。あの気性は年老いても健在だった。
ただ、最上家が取りつぶしになって、寄る辺なくなり結局は政宗のところへ戻ることになる。政宗も最後に親を引き取れて、良かっただろう。
ちなみに、この最上家というのが悲惨な最期を遂げる。
最上義光が家臣の讒言を信じて、無実の息子を殺してしまうのだ。結局讒言は根も葉もない嘘だと分かったのだが、時すでにお寿司。家臣団もバラバラになり、最上義光も老いて死んでしまうと誰も家中をまとめられなくなり、やがてお家取りつぶしとなった。ライバルとして強烈な個性を放っていた最上家も、最後はあっけないものである。
これと並行して、戦国最後の総仕上げに最後の消化試合、大阪の陣開催である。
これもほとんど詳しく描かれることなく、何となくいつも通り終わった。豊臣もあっけないものである。方広寺の鐘にイチャモンつけられたり、色々大変である。
そんな中、家康にもついに最後の時が迫ってくる。ほぼ死ぬ直前くらいに花見に政宗も呼ばれる。そこで家康と話をして、急に「自分は天下人に到底かなわない。自分の野望ばかり優先してきた俺に、そんな器はない」と急に現実を受け入れだす。ドラマだからそういう瞬間を作りたかったのだろうが、実際はどうだろうか。徐々にではあれ、現実を受けれていったのは確かだと思うが、一方で万が一の備え(先ほどの要塞化可能な寺の建設など)は忘れない辺り、まだ戦国大名・政宗が残っていたと考えているのだが、どうだろうか。
この大阪の陣の前くらいから、今度は今までの自分を支えてくれた家臣たちの死に、政宗は直面する。白石小十郎、ムスカの中の人……やはり、一緒に生きた人間が死んでいくと、老いというか、時間の流れを感じるものである。
そしてそれから時間は流れ、ついに政宗にも最後の時が訪れる。60歳くらいのときからガンを発病、70くらいで死去する。その間、天下の副将軍として秀忠、家光を支える。外様とはいえ、副将軍を任せられるとは、出世したものである。この時くらいになると、昔
と違って「口うるさいジジイ」として若者を導く立場になっているのも感慨深い。
ここで、今までの最上家の悲運、豊臣家のあっけない滅亡が思い出される。天下には程遠かったが、仙台藩としての基礎を築き上げた。
そうそう、仙台だが、この都市は政宗の夢の残り香だった。天下統一ができないので、その情熱、無念さを日本一の町をつくることで埋め合わせようとしたのだ。当時の仙台は全くの田舎であった。政宗の遺産は今でも生き続けている。家康の江戸は東京として今でも繁栄しているが、規模こそ違えど仙台も同じだ。東北一の町として残っている。今の仙台を見て、政宗は何を思うのだろうか。
いち戦国大名としてだけではない、現代まで影響を与えたとして考えると、非常に感慨深い。さらに変化の激しい時代、身のこなしの変幻自在さは現代でも参考になる部分があるのではないか。何より豪胆で無理矢理な言い訳をゴリ押すかと思えば、風流な歌を詠んだり、多才多芸でもある。そして夢破れても、人生には生きる価値があるということを教えてくれた、まさに人生の名将ではなかろうか。
※ちなみに、この大河ドラマの欠点として、アクションが限りなくショボイという点がある。血のりも最初は出ない。ただ、それを補って余りある人間ドラマがあると思うので、アクションをそこまで重視しなければ大丈夫だと思う。




