『猿の惑星ライジング』&『サボタージュ』(映画)
まずはライジングから。あの名作『猿の惑星』の最新リメイク作、いや、あくまで旧作の設定を元に大胆に作り直した映画と言えるだろう。その点で、ただのリメイクだった『新・猿の惑星』とは趣を異にしている。舞台も未来ではなく、滅びた現代、つまり終末モノの雰囲気となっている。
ネットの情報で、猿のリーダーであるシーザーがいいキャラだと聞いていたが、実際に見てみるとそこまで持ち上げる程の猿物なのか、疑問符が付く。確かに、人間に対しても恨みに走ることなく、共同体のことを第一に考えた判断をできるだけの深い知性を持っている。しかし、銃で撃たれた時に前ではなく後ろに倒れることは出来なかったのか。これだけで評価を☆2個くらい差し引きたくなる。たったこれだけのことをしなかっただけで、政権をライバルのコバに奪われ、しかもコバはシーザーの意志を無視して人間へと戦争を仕掛けてしまう。結果的に勝ったものの、人間も必死の抵抗を見せ、かなりの犠牲を払うことになった。
この映画には納得できない点が2点ある。
最初の猿の生活描写シーンで、猿の設定があやふやということだ。猿は簡単な手話で話していたのだが、やがて当然のように片言でも言葉を話すようになる。一体どっちなのか。
まあ、実際に人類の進化の過程でも言語の発明の過渡期にはそのようなことが行われたのかもしれない。
ただ、猿と人間との関係性は完全に設定の練り込み不足。最初にシーザーたちは「もう二年、人間を見ていない」と語っていたが、その直後に人間と出会う。これだけなら偶然で片付くが、実は人間のコロニーは割と近くにあった。距離の描写がそれほど克明にあるわけではないが、猿たちは尾行ですぐに人間のコロニーを発見したから、絶対に遠くではない。さらにその後も使者を送ったりと頻繁に行き来する。なのに人間の存在を全く察知してなかったというのもおかしい話だ。シーザーは本当に優秀な指導者なのか、そこでも疑問符が付く。この程度の範囲すら状況を把握していないとは、どういうことだろうか。
次はこの映画の本当にダメな点、それは武器庫の警備ガバガバ過ぎるということ。武器庫は大切なはずだが、なぜかコロニーから離れた場所に、警備も手薄なまま配備されていた。これだけで人間側の危機管理能力の無さが露呈しているが、さらに呆れたのは人間側の終末感の無さである。
映画の景色などは、ゲームの『ラスト・オブ・アス』や『アイ・アム・レジェンド』などを彷彿とさせるビジュアルだった。廃墟と化した街を自然が侵食している感じだ。ところが、肝心の人間は現代人より無防備で危機意識がない。特にラスアスのジョエルを思い出して欲しい。世界の終末から20年後が舞台なわけだが、ジョエルの抜け目のなさ、狡猾さ、暴力をふるう際の容赦のなさなど、挙動のどれを取っても「この男は20年間、極限状態を生き抜いてきた」と思わせるに十分だった。アイアム・レジェンドでも、終末を生きる男の悲しさや絶望、そして戦いの苛烈さは説得力があった。
一方、このお猿さんワールドでは、終末から10年が経過していると思われる。シーザーたちの「冬が10回」からそう推測できる。
10年である。
もう一度言おう、10年である。10年あれば新卒社員でもベテラン社員になる頃だ。それなのに、この世界に住む人間の緊張感のなさには呆れさせられる。武器庫の警備が二名という体制もさることながら、その二名は猿が近づいても、なかなか撃たない。猿がどういうものか分かっているなら、早く撃つべきだった。
もう一つ疑問だったのは、猿が銃を持つとなぜかリロードなしで撃ちまくれる、というトンデモ設定だ。渡した銃がバイオのクリア特典についてくる無限銃だったのだろうと無理矢理解釈するしかない。この武器を奪うとすぐに使える、という点にも納得がいかない。いくら現代兵器でも、一切の訓練無しでいきなり使いこなせるようにはならないだろう。
この武器管理体制も、武器がしばらく使われていなかったからだそうだが、終末世界でどうやってそんな平和に過ごしていたのか。普通はジョエルの住む世界のように、生き残った人間たちによる壮絶な覇権、資源獲得を巡る争いがあるはずで、猿以上に狡猾で残虐な人間を出さずに何が猿の惑星か。猿どもに本当の残虐性を教育するべきは人間である。人間としてのプライドすらないようなたるんだ終末世界では、説得力がない。
異生物と人間との戦いに最も説得力があったのは、小説だが貴志裕介氏の『新世界より』だろうか。ハリウッドはここで出てくるネズミのバケモノを猿に置き換えるだけで、今までより格段にリアルな人間とサルとの頭脳戦を描けるだろう。
ぶっちゃけこの映画と比べるなら、個人的には昔にリメイクされた『新・猿の惑星』の方が好みだ。別に猿と人間の戦いをみたいわけではない。『猿の惑星』という映画自体、猿が地球の支配者となった社会、という皮肉の効いた風刺のような、そういう設定が良かったのだ。旧作では、続編で地球破壊爆弾による、あの衝撃的なラストにつながる。もし今度リメイクするなら、一回、旧作の作品をもう一度よく見直して、その意図をくみ取って欲しい。『新・猿の惑星』すら、最後はジョークめいたラストで締めくくっている。こういうおふざけも入るからいい映画なのであって、中途半端にシリアスな猿ヒト合戦ならお断りだ。だったら『新世界より』でも読み直した方が面白い。
そしてシュワちゃん主演の『サボタージュ』である。何をサボタージュするのか、それは今もって分からないが、とにかくシュワちゃんが主演ということで借りて見た。最初こそ麻薬潜入捜査チームを率いるリーダーとして活躍していたが、チームの仲間が次々暗殺される段階になると段々怪しくなってくる。そして最後のシュワちゃんによるとんでもないちゃぶ台返し……筋肉で壊すのは車だけで十分ではなかろうか。ストーリーまで壊す必要は、僕はないと思います! それと、ハリウッド業界には「シュワちゃんを殺すべからず」という戒律でもあるのだろうか。
たまに道路に伐採されずに残っている木がある。大体はそういう木には「伐り倒そうとした計画者が次々と死んでいった」というような伝説がある。もしかしたらシュワちゃんにも同じような伝説があるのではないか。つまり、シュワちゃんを殺そうとした脚本家は、次々と死んでいくという伝説……これは私の推測でしかないが、あると仮定すると、ハリウッド映画のほとんどを矛盾なく説明できてしまう(大嘘)。やはり、一番怖いのは生身の人間なのだ。シュワちゃんが登場すれば、貞子もスクリーンに逆戻りするしかないのである(迫真)。
あと、シュワちゃんの筋トレシーンと、あと葉巻吸うシーンが妙にエロかったのを覚えている。もう筋肉アクションスター集めて筋トレ映画でも作ればいいんじゃないですかねぇ?(エクスぺンタボー!)