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『貨幣論』、『二十一世紀の資本主義論』:新書(岩井克人)

 久々に真面目な本でも読んでみようかと思ってアマゾンでポチッたのがこれ。経済学部出身なので、一応経済の勉強でもしておこうと思って買った。どうせ積読するだろ――そう思っていたのだが、特に『資本主義論』の方は面白くて一気読みしてしまった。経済の仕組みや貨幣価値の無根拠性など、目から鱗の話が多かった。“二十一世紀”と題されているが、ほとんどは20世紀末に書かれた論文をまとめたもの。今読んでも通ずるものが多く、しっかりした見識に基づいて書かれた本だと思う。

 全ていいことばかり書いてあるのだが、印象に残ったものを3つほど紹介。

 一つ目は先ほど言った「貨幣の無根拠性」。お金の価値を無条件に信じている人は世の中多いが、実際のところ「じゃあその価値の根拠は?」というと「貨幣は貨幣として流通しているから価値がある」という自己循環論法でしかない、というもの。本書はこの価値観から経済全体を見渡している。昔は金本位制など、金属価値と連結していたが、今の管理通貨体制に移行してからは、完全に「お金はただの紙切れ」でしかなくなった。詳しいことは『資本主義論』と、もっと詳しく知りたければ『貨幣論』を読むのがお勧め。

 貨幣の本質を解き明かした上で、これからの資本主義の行方を占っているので説得力がある。結局のところ、恐慌は資本主義の本質的危機ではなく、本当の危機は貨幣の価値が暴落するハイパーインフレーション(特に基軸通貨ドルの)という結論は、覚えておくだけで胡散臭い「資本主義終末論」や「グローバル経済崩壊論」に対する防御力となる。むろん、歴史というのは常に新しい事態が発生しているので、どのようなことが起こるかは分からない。ただ、経済状況が多少変わったところで、資本主義は形態を変えてその経済環境に適応するだろう。そう、貨幣というものがある限り。

この「貨幣の無根拠性」というもの、人気のある長期連載作品に例えてみると意外と当てはまる。もちろん、なぜある作品の人気が出るかと言えば「面白い」という根拠があるからだが、やがて長期連載になってくると段々と先延ばしばかりで面白くなくなってくる。しかし、実際に世間の評価や部数というのは、知名度のない面白い作品より、多少面白さに陰りがあっても知名度抜群の作品の方が得やすい。要するにブランドを確立した、というような状況だ。例えばである。ある本が100万部売れたとしよう。そして「100万部売れた、大ヒット作!」と宣伝していればどうだろうか? 人間、人気のない作品はそれだけで胡散臭く感じて敬遠してしまうことが多いが、「今売れてます!」みたいな宣伝を見れば、「じゃあ、ちょっと買ってみるか」とならないだろうか。実際そこになんら面白い根拠など見出していないのにも関わらずだ。そうやって人気が人気を呼んだ結果、さらに人気という数字だけは膨らんでいく。実際にそこに根拠があるかどうかに関わらず。

 二つ目は法人のお話。これも非常に参考になった。まず自分が、法人とはなんぞや? ということが全く理解できてなかったことが驚いた。それでも経済学部出身かよ、とセルフ突っ込みをしながら驚いてしまった。

 法人とは、法律上、人格を認められた企業のことである。この何でもない定義から、ドンドン話が広がって、最終的に日本人と欧米人の根本的な考えの差にまで考察が及んでいくのが面白い。

 そう、法人とは会社というモノ、物質であると同時に、人としての側面も持っているのだ。この二面性のうち、人間性を重要視したのが日本、モノとしての性質を重視したのが欧米ということだ。 

よく欧米では企業を売り買いすることをする。日本でもライブドア事件のときのように、一部では欧米的価値観もあるが、結局この事件の結末から見るにどちらの価値観が日本では支配的か、分かるというものだ。欧米人は、いくら企業が法律上人格を持っていようと、所詮はモノだと考える。モノなので、人間に所有される所有物にすぎないというわけだ。だから、自分の所有するものをいくら売り買いしようが問題ない(もちろん、法律によって色んな規制はあるだろうが基本的には)。ところが、日本では企業というものに法人格というのを認めている。法律上の人格を大幅に認めているわけだ。そして先ほどからモノと書いているが、これは漢字に直すと「者」でもあり、「物」でもある。ひょっとしたら、日本人には「者」と「物」の区別にそれほど関心はないのかもしれない。

 欧米のモノと人との峻厳たる区別は、キリスト教的な考え方もあるのだろう。もしかしたら、それ以前の根本的な差かもしれない。モノと人との区別とは話が少しずれるが、英語は特に所有格にうるさい言語だと言うことに最近気づいた。例えば日本語だと「私は友達を見捨てたりはしない」となるところが、英語だと「私は私の友達を見捨てたりはしない」となる感じだ。イチイチ「私の」などと入れなくても、普通は友達というのは自分から見て友達を指すのだから、当然のこととして省く。ここら辺は、動乱激しい大陸の人間と、平和な時期が長い(特に外敵の危険にはほとんどさらされなかった)日本人との根本的な差なのかもしれない。動乱が激しいということは、それだけ自分の所有権を主張しないと他人にかっさらわれるわけで、大変なことだったのだろう。ただ、同じ動乱激しい中国大陸だが、中国語の所有格がどうなっているのかも気になるところ。しかし中国語の知識が無いので、それは置いておく。

 この「人とモノの区別」という考えの差は、もちろん経済以外の創作物にも現れていると思う。『AI』という映画があったが、あれは日本ではそれほどウケなかった。海外ではどうかは知らないが、あの映画のテーマを「愛」だと思っていたが、「人とモノという区別」というテーマで見てみると非常に興味深い内容になっていることに気付かされる。あのアンドロイドは、もちろん息子の代わりのモノに過ぎない。最初は人ならざる物が人になろうとする、ある意味で微笑ましい光景が描かれる。しかしそれも結局、所詮モノはモノでしかない、という、当然の事実を強調するに終わるのだが、それでも観客はあのアンドロイドを人間とみなして感情移入していくはずだ。ところが、本物の息子が帰ってきたことによってその微笑ましい日常に終止符が打たれる。実際、これ以降の映画の展開は凄まじく胸を締め付けるもので、映画史上最大の悲劇でと言っても過言ではない。これが邦画だったら、息子とアンドロイドは家族仲良く過ごしました、愛は地球を救う! で感動のフィナーレ(笑)を迎えるのだろうが、そこはキューブリック原作もあって、ちゃんと考えられている。ラストの解釈など、人によっていくらでもできるだろうが、残念ながら今までのAI批評でそこまで踏み込んで批評している試しを見たことがない。よくあるのが「意味が分からない」、「ラストは蛇足だった」、「雰囲気だけ楽しめた」などだ。一般人がそういうのは勝手だが、映画批評をしている人間までもがこのような感想しか言わないのだから、いい映画というのが浸透しないのもうなずけるというものだ。最終的にAIでは、作り物のロボットこそが、人類の代わりとして繁栄する(あるいは生き残るというか)という結末を迎えているのも、人とモノという視点から見ると興味深い。ローマ帝国が滅んでも、ローマが残した遺跡は2000年後も残っているような、そんな哀愁を感じさせる。

 経済学の話からだいぶ逸れたので、また元に戻そう。とにかく、法人の「人」と「モノ」の二面性というのは、意外と根深い話であるというのが例を挙げて説明されているので、経済学徒には是非おすすめする。

 3つ目は、ネットの話。今となっては常識の話が多いが、それでも先ほどの貨幣の無根拠性がここでも強調されており、それと合わさって先見性が素晴らしい。これほど未来を予知した論文というのも珍しいものだ。世の中の新書がいかに下らない内容を、その場限りの話題性だけで書き散らしているかが分かる。あ、そうそう、このコーナーも「その場限りの思ったことを書き散らしているだけ」だが、元々そういうコーナーであるので問題ない、大丈夫だ(免罪符)。

ここでは資本主義の究極形態、「差異こそが利潤を生む」という命題に行きつく、というより、貨幣の悪鋳の歴史をなぞりながら、再確認されてゆく。これも歴史としても、経済学としても面白い。特に「電子マネーが貨幣として使われるかも」という予測、実は部分的にだが実現している。南米の一部地域では、地域通貨より電子マネーの方が一般的に流通しているそうだ。


 最後に、もう一つだけ気になった点を追加で。この中で、エッセイ的に憲法改正についても述べているのだが、その改正案自体は非常に論理、常識に立脚した上で、改正内容も妥当なものだと思った。むしろ常識的過ぎる内容である。十分、選択肢の一つになると思うのだが、なぜか朝日がこれを掲載拒否した、ということだ。結局のところ、また書き直したうえで掲載することが決まったのだが、朝日は昔から言論の弾圧を行ってきたということを再確認できた。おそらく、岩井氏が憲法改正賛成派な上に、軍隊の所持(もちろん、自衛のためという条件付きだが)を認める内容だったのが気に喰わなかったのだろう。

 こういうのもネット社会であるからこそ知れ渡っていたが、そうでなければ誰も知らないままだっただろう。

 おそらく、これからネットの存在はもっと社会を変えてゆくだろう。言論や表現の規制というのも、逆にネットでの自由があるからこそ、今の時代に言われ始めたのかもしれないとすら思う。

最近行われたが、選挙制度もそうだ。選挙活動自体もネットが主戦場になる時代は来ると思う。今では街頭で演説をニコ生で中継とか、そんなお茶濁しレベルだが、もっとネット上で党首討論が開かれ、それをいつでも誰でも見れるようになれば、国民も「どの政党や候補者が何を主張しているのか分からない」といった事態も防げるようになるのではと思う。


中々筋の通った論文だが、エッセイ的な豆知識なども所々に挿入されており、いろんな話題を読めるのもいい。20世紀末に書かれた本だが、十分21世紀を予見する本。

著者の代表的一作だそうだが、それが納得のいく、力作だった。


続いて『貨幣論』だが、これは『21世紀の資本主義』の前に書かれたもの。貨幣の無根拠性を、マルクス経済学を丁寧にひも解くことによって導き出している。こちらは『21世紀』とは違って、余計な話題は一切なし、純粋に経済学の話が淡々と進んで行く。『21世紀』を読んで、気になった方は読んでみると面白いかもしれない。「マルクス経済学を丁寧にひも解く」というが、別にマルクス経済学を褒め称えているわけではなく、マルクスの純粋な批判を元に、先の貨幣の無根拠性を解き明かしていくものなので、そこらへんは安心して欲しい。

ただ、前半部分があまりにも退屈過ぎるので、そこを越えられるかどうかが、この本の評価を分けることになりそうだ。

『貨幣論』はあくまで一般向けというより、少しは経済学をかじってないと難しいと思うので、先に『21世紀』を読んで興味が湧けば、こっちも読むとより理解が深まると思う。


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