ワンダと巨像
きっかけは、たまたまニコニコ動画でアンチャーテッド2をやっているの見ていたことからだった。見ていたら、ものすごく面白そうだったので「これは買いだろう」と思って近くのゲームショップへ行った。そこに見事に置いてあったのだが、「最近ゲーム買ってないし、何かほかのないかな~」と思って探して発見したのが「ワンダと巨像」と「ICO」(どちらもPS3版。PS2版未プレイ)。
「ICO」にはまた別の機会に言及するとして、ここでは「ワンダと巨像」について述べたい。とはいえ、まだ3体目の巨像を倒しただけなのでその範囲内で、ということになるが。
まず思ったのはシンプルである、ということ。グラフィックはPS2当時なら最高クラスだったろう。今でも十分に(デジタルリマスターしてあるとはいえ)そのまま通用するレベルにあると思う。そしてコーマック・マッカーシー作品(その他ハードボイルド小説)を彷彿とさせるようで、心理描写の類がほとんど、というか一切ない。登場人物は主人公とその愛馬アグロと主人公の死んだ(?)恋人(?)くらい。その内死んだ恋人なんてそこらへんの石と同じようなものだから、実質登場人物は主人公とその愛馬だけ、ということになる。
だからこそ、この二人は徹底的に作りこまれている。
主人公はちょっと高いところから飛び降りただけでよろけるし、坂道のちょっとした段差につまずいたりする。アグロの筋肉の挙動も、いちいち素晴らしい。馬の描写に関しては「レッド・デッド・リデンプション」が一番だと思っていたが、すでにPS2でそれ以上の表現が達成されていたことに驚いた。アグロがちょっと高いところから飛び降りるときの動きは、本物としか思えず、鳥肌がたった。走っているときの筋肉の動きも、滑らかで矛盾がない。こういう動物の動きを徹底して再現することで、ただのリアリティを超えて作品全体を、空想の世界なのに「本物だ」と思わせることに見事成功している。
そしてこのことが先ほどからお気づきの通り、アグロをただの馬ではなく自分の大切な友人とまで自然に思わせる。もちろん、この二人の過去などいっさい語られてなどいない。もしかしたら、そこらへんにいた馬を慣らしただけかもしれない。まあ、オープニングから判断するに、二人はこの巨像が蠢く大地に来る前に、すでに相当の時をともに過ごしてきたような感じではあったが。とにかく、アグロは巨像を倒すためには欠かせない足であり、立派な登場人物の一人でもある。どれだけ乗り回しても文句一つ言わず忠実に主人の言うとおりに動いてくれるアグロ。操作性の関係でちょっと動かしづらいときがあるけど、それすら「リアルを重視してあえてそうしたんじゃないか?」と思わせるくらい。
音楽も同じようにシシンプル。巨像と戦う時にはそれっぽいBGMが流れるが、フィールド移動時にはただ風の音だけ。寂寞たる世界をそのままゴロリ、とプレイヤーの前に投げ出している。自分の足で探索するとなると絶望的なこの広い世界で、頼りになるのは文字通りどこの馬の骨かも分からないアグロだけ。
巨像の表現も素晴らしい。これも文字通り「蟻と象」の戦力差。巨像からすれば主人公、いや、視点を動かして天に向かって聳え立つ巨像を眺め、「これどうやって倒すんだよー!」とか思って途方に暮れている、主人公に完全に没入しちゃったプレイヤーなんてそれこそ地面を這いずりまわる虫ケラに過ぎない。
そこから、なんとか巨像の弱点を見つけて巨像の体を何とかよじ登っていき、暴れまわる巨像に必死にしがみつきながら巨像の弱点に剣を突き刺す。このよじ登る時の主人公の動作。振り落とされまいと必死にしがみつくさま。主人公だけでない。巨像の方も必死だ。一見無生物のように見える巨像も、額の弱点を突くと黒い血のようなものを吹き出し、哀れを誘う咆哮をあげて身悶えする。よくSF映画であるように、アンドロイドだからこそ人間的な言動が何かを訴えかけてくるように、おそらく無生物であろう巨像の生物的動作から、「死にたくない」という言葉が聞こえるよう。
だから、最後の一撃は切ない。
倒した時にはBGMも悲壮感のあるものに替わる。地面に倒れた巨像を眺めるとき、そこにあるのは達成感というより「終わった」という感慨と、「成すべきことをなした」というより「本当にこれでよかったのか?」というモヤモヤした感情。
製作者によると、「動物を殺すときの罪悪感を演出した」そうだ。
「ワンダと巨像」は、決して万人に受けるようなエンターテイメント作品ではない。特にあの広大なフィールド探索なんて、完全にプレイヤーを突き放しているとしか思えない。それでも敢えていうなれば芸術作品の一種、だろうか。むろん、だからと言って今度はゲームとして成立していないかというと、しっかりと成立している。
万人にうけないが、万人にプレイしてもらいたい、そんなゲームだ。
※ちょっと補足(というかメモ。特に「ワンダと巨像」には関係ありません)
感情描写を徹底して排することで主人公に感情移入させるのはゲームでは常套手段。特にドラクエなんて主人公は一言も喋らないし、ファミコン、スーファミ時代は当時のグラフィックのせいもあって顔の表情なんかも一切描かれていない。そこを想像して埋める、というのが必要であったわけだ。グラフィックが進歩してからはそういうこともなくなった。「ドラッグオンドラグーン」ではカイムが敢えて喋らない、無表情とすることで、プレイヤーの分身としての地位を与えられた。それでも脇役たちは思いっきり歪んだ笑顔で感情表現してたけどね。何が言いたいのか今一瞬忘れかけたけど、ようするに「ゲームにおける感情表現」を、もっとゲーム製作者は考えて欲しい、と思っているわけです。やっぱり、ゲームは映画とも小説とも漫画とも違うので、ゲームに応じた感情表現、というのかな、そこらへんを目指して欲しいです。例えば初代デッドスペース。あえてアイザックの素顔をほとんどさらさず、呻き声や叫び声以外喋らず。その代わり「死の宇宙船」を探索する恐怖はものすごかった。2になってアイザックは喋り、顔も見せるようになった。面白かった。でもそれは「上質のアクション映画」のような面白さだった。初代のような恐怖は、2にはなかった。ゲーム自体はそんなに大きな変化はなく、根本的には同じものだから、この差は感情表現の違い、それから生まれたものだと思っている。ゲームにおける感情表現、ここらへんが最近ぞんざいに扱われているような気がしてならない。「ゲームにおけるストーリーとは何か」という問いに対して、ここらへんがひとつの解決策を提示してくれるような気がする。
今回のレビューをして思ったことだが、グラフィックの話をしているのにいつの間にかストーリーの話やゲーム性の話になったりする。
以前新聞か何かで「ゲームはエンターテイメントだから芸術性の類は必要ない、まずエンターテイメントが第一だ」という内容の記事を見かけたことがある。エンターテイメント性と芸術性、確かに二つはあるだろうが、この二つは本来別個のものではなくつながっているものだと思う。例えば人体でいうと、腕の筋肉が肩から首や胸や背中につながっているように。部分部分を切り離して理論的に考えることも大事だと思うが、ゲームという「生き物」を感覚や感性で「生きたまま」表現する、それが表現できる人や環境というのが急激に損なわれていると思う。
この「ワンダと巨像」も6年以上前の作品だが、それが今だに通用する、というのはこのゲームがすごいというのもあるのだろうけど、ゲーム業界自体が停滞していたという証拠でもないかと思ったりする。最近洋ゲーに押されがちどころかいつの間にか遥か彼方の洋ゲーの背中を追いかけるようになった感のある和ゲーだが、もう一回頑張って欲しい、と思いながら結局中古作品買います。
よく分からなくなってきたのでここで終わり。
※※現在(2012年2月5日時点)13体目の巨像撃破で、さらに感想の追加。
巨像に飛び移るまでにいろんな戦略を立てて、ていう部分はいいのだが、巨像によってはある一定時間で強制的に振り落とされてしまう。これも何らかの対策を立てればそれをしのいでさらにしがみついてられる、というような仕様にしたほうが良かったかもしれない。
というのも、飛びつく、剣を刺す、振り落とされる、また飛びつく……の繰り返しになって、シンプルであるが故に単調になってしまうからだ。
ちなみにアンチャーテッド2は押入れの奥でホコリかぶって寝てます。