「君の料理は庶民臭い」と婚約破棄されましたが、その料理で王子の不眠を治したら溺愛されました
「君の料理は、庶民臭いんだよ」
多くの客人が出席する夜会で、ジェラルド侯爵子息は婚約者であるマリアンヌ伯爵令嬢にそう吐き捨てた。
「私の料理が、ご不快でしたか?」
「不快というより、恥ずかしいんだ。貴族の令嬢でありながら厨房に入り浸り、茶会の話題も香辛料だの鍋の火加減だの。侯爵家の妻にふさわしくない」
周囲の令嬢たちが扇を口元へ寄せる。
「伯爵令嬢が厨房に?」
「まあ、使用人みたい」
「ランベール侯爵家に嫁ぐ方でしょう?」
非難されるが、マリアンヌは伯爵令嬢に相応しい身嗜みは弁えている。
爪は短く整え、香油や化粧も忘れていない。それでも、ジェラルドはマリアンヌを庶民臭いと馬鹿にする。
(前世では庶民だったのですから、仕方ないではありませんか)
マリアンヌには、前世の記憶がある。
日本という国で生まれ、小さな定食屋を営んでいた。
高価な食材など使えなくても、出汁を取り、火加減を見て、季節の野菜を無駄なく使えば、人は十分に満たされる。その思いで、彼女は何年も料理を作り続けてきた。
だからこそ、貴族の皿に乗る料理だけが上等だとは思えなかった。
腹を空かせた人が匙を持つ。
疲れた人が一口飲んで、肩の力を抜く。
マリアンヌにとって料理とは、そういうものだった。
「それで、ジェラルド様は何をお望みなのですか」
「君との婚約を、今日限りで破棄する」
「本気で言っているのですか?」
「でなければ、ここで宣言はしない」
ジェラルドの声は、客人の貴族たちにも聞こえる大きさだった。
婚約者にだけ告げるための声ではない。
「それで、私と婚約破棄した後は、リリアナ様と結ばれるのですか?」
マリアンヌは彼の隣に立つ子爵令嬢リリアナを見据える。彼女は淡い桃色のドレスの裾を指でつまみ、目を伏せていた。
「納得してくださいね。あなたは侯爵家に嫁ぐ方としては、品位に欠けたのですから」
扇の陰から、堪えきれない笑いが漏れる。そんな彼女に同調するようにジェラルドも続ける。
「リリアナの言う通りだ。君には分からないだろうが、侯爵家には体面がある。食事など料理人に任せればいい。君がすべきことは、社交界で美しく振る舞うことだった」
「そうですか……」
「そうだ。だから僕は、リリアナを選ぶ」
リリアナは顔を上げる。その頬にはすでに勝ち誇った色が差していた。
周囲から拍手が起きるわけもない。
けれど誰も止めない。その沈黙が、侯爵家の力を物語っていた。
マリアンヌは、ジェラルドの顔を見た。
かつて彼が仕事で夜更かしした後、マリアンヌのスープを飲んで笑った。
『温かいな。君のスープを飲むと、体の奥からほどける気がする』
その言葉を覚えていたのは、自分だけだったのだろうか。
問いかけようとして、マリアンヌは唇を閉じた。
ここで思い出を差し出しても、彼らはそれを笑いの種にするだけだ。
「承知いたしました」
「ずいぶん素直だな」
「ジェラルド様のお考えは、よく分かりましたので」
「なら、この場で誓ってもらおう。今後、僕に近づかないと」
「誓いましょう。その代わり、あなたも同じですよ」
「構わないよ。君に二度と話しかけないと誓うよ」
「今の言葉、お忘れなきように」
ジェラルドは苦し紛れの言葉だと鼻で笑い、リリアナも扇の奥で口角を上げる。
マリアンヌはそれ以上何も言わず、踵を返した。
夜会場の扉へ向かう彼女の背に、嘲りの声が届く。けれど足は止まらない。扉が開いた瞬間、廊下から入った夜気が、濃い香水と酒の匂いを薄めていくのだった。
●
翌朝、実家の屋敷へと帰ってきたマリアンヌは、さっそく厨房に立っていた。
「お嬢様は本当に料理が好きですね」
料理番のマーサが、腰に手を当てて言った。白い前掛けを締めた恰幅のいい体格の女性で、マリアンヌとは長年の付き合いだった。
「昨夜は何も食べずに戻ったから、お腹が空いてしまって……」
「婚約破棄された翌朝に、鶏を煮込む令嬢なんて聞いたことありませんよ」
マーサは呆れながらも、玉葱を刻む。
「旦那様と奥様には、私の方から早馬を出しておきました」
「二人とも、怒るでしょうね」
「お嬢様を傷物にされたわけですから、侯爵家に乗り込みかねません」
「ふふ、あの二人ならやりそうですね」
「笑いごとじゃありません。お嬢様を馬鹿にしたのですよ。私だって侯爵家には怒っています」
マーサの包丁が、玉葱を力強く刻んでいく。
マリアンヌは大鍋の灰汁をすくい、澄んだ黄金色になりつつある出汁を見つめた。
「さすが、お嬢様。美味しそうなスープに仕上がりましたね」
「健康にも良いんですよ。薬草に私の魔力も混ぜていますから」
マリアンヌは癒しの魔力を持っていた。
その魔力を薬草に吸い込ませて、料理に混ぜる。すると乱れた体の内側を整え、眠りや食欲を取り戻す助けとすることができた。
「お嬢様、侯爵家の坊ちゃんは見る目がありませんね」
「……急にどうしたのですか?」
「だってそうでしょう。お嬢様の料理なら多くの人を救えるのに……それを庶民臭いと馬鹿にするなんて……」
「ありがとう、マーサ」
マリアンヌは少しだけ口元を緩める。
すると、厨房の扉が勢いよく開いた。
「マリアンヌ様はいらっしゃるか!」
入ってきたのは、王宮近衛の制服を着た若い騎士だった。
マーサは包丁を置かないままに騎士を睨んだが、マリアンヌが手を挙げる。
「私がマリアンヌです。王宮の騎士様が、何のご用でしょうか?」
「アレクシス殿下が危険な状態で……三日ほど一睡もなさっておりません」
「殿下が……」
「医師も魔術師も原因を特定できず、薬も効かないのです。お手上げの状態でしたが、王宮の侍女長セシリア様が、マリアンヌ伯爵令嬢なら救えるかもしれないと、お名前を申し上げました」
マリアンヌは、数年前の冬を思い出す。
伯爵家へ視察に訪れていた侍女長セシリアが、旅の疲れから高熱を出したことがある。薬を飲んでも吐き戻し、水さえ満足に受けつけない状態だった。
その時、マリアンヌは夜通し厨房に立った。
米を崩れるほど柔らかく煮て、苦みの強い薬草は効能だけを移す。胃が拒まないよう塩も油も控えた。
翌朝、セシリアはようやく椀を半分空にした。
『このご恩は、決して忘れません』
別れ際、青ざめた顔のまま頭を下げたセシリアの声を、マリアンヌは今でも覚えている。
あの時のことを、セシリアも覚えてくれていたのだ。
「マリアンヌ様。どうか、王宮へお越しください。そして殿下をお救いください」
「分かりました。私に任せてください」
婚約破棄の痛みが消えたわけではない。けれど、自分の力を必要としている人がいる。その事実だけで彼女は前を向くのだった。
●
王宮の厨房は、伯爵家とは比べものにならないほど広かった。
壁一面に銅鍋が並び、白い石の作業台がいくつも置かれている。料理人たちは緊張した顔で動き回り、食材を運び込んでいた。
マリアンヌは袖を留め直し、用意された食材へ目を走らせる。
「鶏の骨、豆、玉葱……薬草もありますね」
「王宮にあるものは、すべて使っていただいて構いません」
料理長らしき男が硬い声で答える。
その顔には、伯爵令嬢が厨房に立つことへの戸惑いと、アレクシスの容体への焦りが同居していた。
「殿下のお顔を拝見してから、味を決めます。先に症状を伺わせてください」
マリアンヌはそう告げ、侍女の案内に従って厨房奥の控え室へ向かった。
その部屋に、王太子アレクシスはいた。
金糸の入った上着を羽織っているが、襟元は少し乱れ、目の下には濃い影が落ちている。椅子に腰かけたまま、彼は現れたマリアンヌに視線を向けた。
「君が噂の伯爵令嬢か……呼びつける形になってすまないな」
「いえ、お構いなく。それで症状は?」
「ひどいものさ。眠りたくても眠れない。薬も効かない。横になっても、目だけが冴える」
「お薬は何を?」
「眠り薬を二種類。魔力安定剤も飲んだ。どれも胃が重くなっただけだ」
「お食事は?」
「昨日の昼から、ほとんど口にしていない」
「なるほど」
マリアンヌはアレクシスの顔色を確認する。
疲労は濃い。だが、熱があるわけではない。肌の乾きと目の奥の張りからして、眠れない焦りで体が強張っている状態だ。
「殿下。今から厨房でスープを作ります」
「スープでどうにかなるのか?」
「薬で症状を押さえつけるだけが治療ではありませんから」
「なら、任せる」
マリアンヌは一礼し、厨房へ戻った。
そこから先は、誰も口を挟めなかった。
「鶏の骨は一度湯に通して、灰汁はしっかり取ります。豆は潰しすぎないで。玉葱は焦がさず、甘みだけを出します」
マリアンヌは鍋の前に立ち、食材を投入しながら湯の色を見て火を調整する。
前世の定食屋でも、疲れきった客に最初から濃い味は出さなかった。
胃が受け入れる味から始める方が、結局はよく食べてもらえる。高価な食材で飾るより、匙を持つ手が止まらないことの方が大切だった。
「塩はそれだけですか?」
料理長が思わず尋ねた。
「眠れない方に強い塩分は向きません」
「しかし、王太子殿下にお出しするには、少々味が薄いのでは」
「殿下は昨日の昼から何も召し上がっていません。今は舌を驚かせるべきではありません」
料理長は口を閉じた。
その代わり、鍋から立ちのぼる香りを確かめ、わずかに目を細める。
「薬草がまだ入っていないようですね」
「最後に投入しますから」
スープの色が白濁してきたタイミングで、魔力を込めた薬草を落とす。癒しの力がスープ全体に満ちていき、輝きを放つようになった。
「殿下の元へと運びます」
鍋から器にスープを移し、マリアンヌは再び控え室へと向う。
扉が開くと、スープの香りが部屋に広がった。
張り詰めていたアレクシスの肩から力が抜ける。
「美味しそうな匂いがするな」
「味も効能も保障します」
「それは楽しみだ」
器を受け取り、スープを飲もうとする。それを見た料理長が声をかける。
「殿下、毒見は?」
「好きにさせてくれ」
「ですが殿下、念のために……」
「私が頼んでマリアンヌに来てもらったのだ。だからこそ、礼を失するような真似はしたくない」
アレクシスの言葉に、料理長は引き下がる。控え室にいる全員が、彼の動きを見守る中、スープに口を付けた。
「塩の味が薄いが……今の私にはピッタリな味だ」
「よかったです」
アレクシスは嬉しそうにスープへとさらに手を伸ばす。満足そうにすべてを平らげると、その目がマリアンヌへと移った。
「君のスープは凄いな。張りつめていた体が、ようやく眠りを受け入れようとしている」
「本当ですか!」
「ああ、だが眠る前にお礼を言わせてくれ。君は私の命の恩人だ」
「大げさですよ」
「いいや、眠れない夜を何日も越えた者にとって、眠れるというのは救いだ。決して、過大な表現ではない」
「殿下……」
「マリアンヌ、明日も頼めるか?」
「もちろんです」
「では頼んだぞ……っ……」
それだけ言い残して、アレクシスは目を瞑る。子供のような寝顔で、念願の夢の世界へと旅立つのだった。
●
それから三日、マリアンヌは王宮へ通った。
朝は胃を起こすための薄いスープ。昼は薬草を練り込んだパン。夜は眠りを妨げない、鶏と根菜の煮込み。
体のことを考えた料理のおかげで、王太子アレクシスは、少しずつ眠れるようになった。
「マリアンヌ様。殿下がお呼びです」
「昼食は先ほどお出ししましたが、足りなかったのでしょうか?」
「いいえ。大切な話があるとのことで……」
「話ですか……」
侍女に案内されたのは、アレクシスの執務室だった。
扉の前には近衛騎士が二人立ち、中から紙をめくる音が聞こえる。
「失礼します」
声をかけてから中へ入ると、アレクシスは机の向こうにいた。
顔色はまだ万全ではないが、初日に比べれば目に力がある。机の上には封の切られた手紙と調査書が積まれていた。
「マリアンヌ、君は侯爵家に婚約破棄されたそうだな……」
「どうしてそれを?」
「王家の情報網を舐めてもらっては困るな」
冗談めかした口調だったが、アレクシスの目は笑っていなかった。
「では、理由もご存じですね」
「君が侯爵家にふさわしくない、という話だったな」
「庶民臭い料理を作る私は、貴族令嬢として品位に欠けるそうです」
「ずいぶん粗末な理由だな」
「殿下……」
「少なくとも、私にはそう聞こえる。君の料理で眠れた身としてはな」
アレクシスは口元をわずかに緩め、机の上に置かれた書類束へ手を伸ばす。
厚手の紙には、ランベール侯爵家の紋章が押されている。封蝋はすでに割られ、何枚ものレシピが几帳面に並べられていた。
「実は君を呼び出したのは、その侯爵家に関することで相談したかったからだ」
「相談ですか?」
「ああ、私の不眠症を解消するためのレシピが提出されたのだ。提出者の名前はジェラルド・ランベールとなっている」
「あの人は料理なんて……」
「その料理のレシピがこれだ。確認してみるといい」
マリアンヌは書類を受け取ると、目を通していく。
それは婚約していた頃、高熱で苦しめられていたジェラルドを救うために調合した薬膳スープのレシピだった。
「心当たりがある顔だな」
「私の考えたスープです……当時、どうやって作ったのかを訊ねられ、レシピを伝えましたから。ただ……」
「どうかしたのか?」
「食材の量が違います」
マリアンヌは紙の端を指で押さえる。
「オリジナルは眠りを助ける配合でした。ですが、このレシピは薬草が多すぎます。香りが前に出すぎると、疲れた体には逆に負担になってしまいます」
「そんなものを私に飲ませるつもりだったのか……」
アレクシスが眉間に皺を寄せる。その表情には明らかな怒りがあった。そのまま封の切られた別の書類を取り上げる。
「それと、もう一つ伝えておくことがある。侯爵家から次の王宮の昼餐会に、リリアナ・ベレス子爵令嬢を招いてほしいという願いが届いた」
「リリアナ様をですか……」
「ああ、しかも、彼女を称えるように功績が添えられていたのだが……侯爵家の品位を損なう縁談を見抜いたと記されている」
マリアンヌの脳裏に、リリアナが浮かべていた嘲笑がよぎる。彼女は婚約破棄を踏み台にして、王宮の社交への足場を手に入れようとしていた。
「私の名は書かれていないのですね」
「ああ。だが、誰のことを指しているかは明らかだ。人を傷つけたことを、ずいぶん綺麗な言葉に包んだものだな」
「リリアナ様らしいです」
「怒らないのか?」
「怒っています」
マリアンヌはそこで、拳を握り直した。
「でも、それ以上に許せないのは、私の料理が間違った方法で人に振る舞われることです」
「君ならそう言うと思った。だからこそ、頼みがある。次の王宮主催の昼餐会では、ランベール家のレシピから品を出す予定で進んでいたそうだ。だが逆効果になるものを出すわけにはいかない」
アレクシスは椅子の背に身を預けた。顔色は戻りつつあるが、目元にはまだ疲れが残っている。それでも、机越しに向けられる視線は揺らがなかった。
「代わりに君の品を出したい」
「私の料理を、ですか?」
「もちろん無理にとは言わない。だが私は君の料理を望んでいる」
その瞳に込められた期待をマリアンヌは正面から受け止める。
「私にやらせてください」
「そうこなくてはな」
アレクシスは口元を緩める。その笑顔を見て、マリアンヌは引き受けて良かったと微笑むのだった。
●
王宮主催の昼餐会の日、王宮の大広間には白いクロスをかけた長卓が並んでいた。
銀器が光を返し、花瓶には淡い紫の花が活けられている。貴族たちは華やかな装いで席につき、楽団の音に合わせて挨拶を交わしていた。
その一角に、ジェラルドとリリアナの姿もある。
ジェラルドは濃い緑の礼服をまとい、胸元の飾り紐を何度も直していた。隣のリリアナは淡い桃色のドレスに身を包み、扇の陰から周囲を見回している。
「王宮主催の昼餐会に招かれるなんて、さすがジェラルド様ですわ」
「王太子殿下は不眠でお悩みだそうだからな。私の料理が役に立てるならとレシピを送ったのだ。あれが効いたのだろうな」
これで王宮との結びつきはさらに強くなる。そう自慢するように胸を張っていると、侍従の一人が扉の前で声を張った。
「王太子殿下、ご入場です」
全員が立ち上がる。
アレクシスは、濃紺の礼服をまとって大広間へ入った。数日前まで眠れずにいたとは思えない足取りで、来賓へうなずく。
「殿下、お元気そうだ」
「噂では、ずいぶんお悪かったとか」
「王宮の医師が優秀なのでしょう」
客人の貴族たちが囁く声が広がる中、アレクシスは席に着く前に、広間を見渡した。
「本日の昼餐会に集まってくれたことに感謝する。今日は、王宮の革新的な料理を振る舞おうと思う。どうか楽しんでいってもらいたい」
貴族たちが拍手を鳴らす。そんな中、最初の料理が運ばれてくると、大広間のざわめきが少しだけ薄れた。
白い器に注がれていたのは、鶏と豆の澄んだスープだった。金箔も、珍しい香辛料もない。けれど湯気の中には、鶏の出汁と薬草の香りがほどよく重なっている。
リリアナが器を覗き込み、扇の陰で唇を曲げた。
「王宮主催の昼餐会にしては、ずいぶん質素ですわね」
「薬膳料理とは、そういうものだ」
ジェラルドは当然のように匙を取った。
自分が王宮へ送ったレシピから作られたものだと思っているのだろう。得意げに一口飲み、次の瞬間、言葉を止めた。
「……」
「ジェラルド様?」
リリアナが横から覗き込む。
ジェラルドは返事をしない。もう一口、確かめるように口へ運ぶ。器の中を見下ろす顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「お口に合いませんの?」
「いや……悪くない」
頭の片隅にマリアンヌの顔が浮かんだのか、ジェラルドの言葉は続かない。一方で、周囲の反応はもっと素直だった。
「優しい味ですね」
「それに飲むとリラックスできるわ」
「こんなに美味しいスープは長らく食べていない」
器を置く者はいなかった。
次に運ばれてきたのは、薬草を練り込んだ小さなパンだ。表面は香ばしく、添えられた白豆のペーストには、細かく刻んだ香草が混ぜてある。
「これも美味しいぞ」
「苦味を想像していたけれど、甘味が強いわ」
「素材の味が活きているわね」
リリアナは周囲の声に耳を傾けながら黙ってパンを割る。ひと口食べた後、自然と頬が緩んでしまっていた。
それからも料理が続々と運び込まれ、そのすべてに称賛が贈られる。
アレクシスは、客人たちの皿が空いていくのを見届けてから、杯を置いた。
「皆の口に合ったようだな」
客人たちが頷くのを確認してから、アレクシスはジェラルドへ視線を向けた。
「ジェラルド。君にも聞こう。料理はどうだった?」
大広間の視線が、一斉にジェラルドへ集まる。
「とても美味でした。さすがは王家の料理人。腕が違いますね」
「そうか。君は、この料理を美味いと認めるわけだな」
「もちろんです」
「すると、おかしなことがある。君はこの料理を庶民臭いと馬鹿にしていたはずだ」
「……は?」
ジェラルドは唇を開いたまま、言葉を出せずにいると、アレクシスは続ける。
「この料理を作った者を紹介しよう。君もよく知る人物だ」
その言葉をきっかけにして、広間の扉が開く。
白い料理服に身を包んだマリアンヌが現れた。髪はまとめられ、袖はきちんと留められている。宝石で飾った令嬢の姿ではない。火の前に立ってきた者の装いだった。
ジェラルドの顔から血の気が引いていく。
「本日の料理は、私が用意したものです」
大広間にざわめきが広がる。
「マリアンヌ伯爵令嬢が?」
「確か、数日前に料理を理由に婚約破棄されたという……」
「あの料理を作った令嬢なのか」
客人たちの戸惑いが広がる中、アレクシスは付け加える。
「私は三日眠れなかった。医師の薬も、魔術師の術も効かなかった。その私が眠れたのは、彼女のスープを飲んだからだ。そんな彼女の料理を、ジェラルドは庶民臭いと笑ったんだ」
ジェラルドの喉が上下する。アレクシスは侍従から一枚の書類を受け取り、追い打ちをかける。
「それから、君が王宮に提出したレシピについても確認したい。不眠に効く薬膳料理として、ランベール家の名で送られてきたものだ」
「はい。あれは、私が……」
「君が考えたもので相違ないか?」
「それは……」
「答えられないなら私が言葉にしよう。君はマリアンヌの成果を自分のものにしようとしたんだ」
図星を突かれたジェラルドは言葉を失う。だがアレクシスの追撃は終わらなかった。
「さらに大きな問題がある。君が王宮に送ったレシピは、マリアンヌのオリジナルとは分量が違っていた。そのため飲めば症状が悪化していた可能性が高い」
「そ、そんな……私は、そこまで分かっていたわけでは……」
「自分で理解していないものを王族に飲ませようとしたのか!」
ジェラルドは息を呑んだ。
大広間の空気が一段冷える。
「結果として君は王太子である私を危険に晒した。この重罪を見過ごすことはできない」
その言葉に、広間が凍りつき、近衛騎士たちが動き出す。
「連れていけ」
「はっ」
二人の近衛騎士が無駄のない動きでジェラルドの両側に立つと腕を拘束した。彼は青ざめた顔で腕を振ろうとするが、振りほどくことはできなかった。
「お待ちください、殿下! 私は侯爵家の嫡男です! こんな扱いは……」
「王族を危険にさらした疑いの前に、家名は盾にならない」
アレクシスの声に、容赦はなかった。
「調べが済むまで、王宮内で身柄を預かる」
「殿下!」
騎士に腕を取られたジェラルドは周囲を見渡し、マリアンヌに縋るような目を向ける。
「マリアンヌ、頼む! 君からも何か言ってくれ!」
「お忘れですか? 私に二度と話しかけない。そう誓ったはずですよ」
「そ、それは……」
「どうぞ、ご自身の言葉を守ってください」
短い一言だったが、それだけで十分だった。
婚約者として過ごした時間も、かつて彼のために作ったスープも、夜会で踏みにじられた婚約も、そのすべてに終止符が打たれる。
ジェラルドは何かを言おうとしたが、声にならなかった。
近衛騎士に促され、彼はよろめきながら大広間を出ていく。
磨かれた床に、彼の足音だけが頼りなく響いた。
やがて重い扉が閉じると、大広間には息を詰めたような沈黙が残ったのだった。
●
数日後、マリアンヌは王宮の小さな客間に通されていた。
ジェラルドが連行された日から、王宮の中は表向き何事もなかったかのように動いている。
けれど、廊下を行き交う侍従たちの声は少し低く、すれ違う貴族たちはマリアンヌを見るたびに、何かを言いかけては口を閉じた。
窓辺の卓には、茶器と小さな焼き菓子が並んでいる。
焼き菓子は、マリアンヌが今朝作ったものだった。
甘さを控え、砕いた木の実と豆の粉を混ぜてある。病み上がりのアレクシスでも食べやすいよう、油は少なく、口の中でほぐれる固さにしていた。
「待たせたな」
扉が開き、アレクシスが入ってきた。
数日前よりも顔色は良い。目の下の影も薄くなり、歩く足取りに危うさはない。それを見ただけで、マリアンヌの肩から余計な力が抜けた。
「殿下。お加減はよろしいのですか?」
「まず体調を聞くのだな」
「料理をお出ししている以上、当然です」
「なら報告しよう。昨夜も眠れた。朝食も残していない」
「それは何よりです」
「ただ、私が薬より先に、君のスープを求めるせいで、医師が少し不満そうだった」
アレクシスは向かいの椅子に腰を下ろす。
マリアンヌが茶を注ぐと、湯気の向こうで、アレクシスの視線が焼き菓子へ移った。
「これは?」
「木の実と豆の焼き菓子です。甘さは控えめにしてあります」
「私のためにありがとう」
アレクシスが焼き菓子を一つ手に取る。それを眺めながら、表情を改めた。
「まず、伝えておくべきことがある」
「ジェラルド様の件ですか?」
「ああ」
アレクシスは机の上に一通の書類を置いた。
封は切られている。だが、そこに押された王宮の印を見ただけで、軽い内容ではないと分かった。
「調べは進んだ。ジェラルドは、君から聞いた薬膳スープのレシピを、ランベール侯爵家の名で王宮に提出したことを認めた」
「……そうですか」
「ただし、私を害する意図はなかったと言っている。効果を強く見せるために薬草を増やしただけだと」
「殿下は、どうお考えですか?」
「故意でなかったとしても、責任は重い。王族の口に入るものを、理解せずに危険な分量で差し出した。しかも、他人の成果を自分のものとしてな」
アレクシスの声は荒くない。だからこそ、言葉が重く感じられる。
「当主から謝罪の書状が届いている。ジェラルドの廃嫡も検討しているようだ」
侯爵家を追い出されれば、貴族ではなくなり、ジェラルドは平民になる。彼自身が嫌っていた庶民になるのだ。きっとプライドの高い彼は後悔することになるだろう。
「リリアナ様は、どうなりましたか?」
「ジェラルドとの婚約は破棄したそうだ。だが新しい婚約は難しいだろうな。なにせ社交界は耳が早い。伯爵令嬢から婚約者を奪い、その婚約破棄を自分の功績として王宮へ差し出したのだからな」
しかもその伯爵令嬢が、アレクシスの恩人だ。王家と敵対したい愚か者以外は誰も声をかけないだろう。
「貴族の令嬢は家の繋がりを強化するのが役目だ。その義務を果たせないとなれば、彼女の実家であるベレス子爵家も見放すだろう。そうなれば悲惨な末路になる」
少なくとも、かつて彼女が望んでいたような華やかな縁談は難しい。
新たな相手が見つからなければ、ベレス子爵家の中での立場も悪くなる。社交の場に出しても家名を高められず、縁談もまとめられない娘を、いつまでも大切に扱うほど貴族家は甘くない。
やがて彼女は、華やかなドレスを失い、貴族の立場さえ失うだろう。それはきっと、リリアナが最も恐れていた末路だった。
「あの方たちのことは忘れるとしましょう」
「ああ。それでいい」
アレクシスは短く頷き、皿の上の焼き菓子をひと口食べた。
重い話の後だというのに、彼はきちんと味わっている。噛む間、眉間に寄っていた険しさが少しほどけた。
「うまい」
「今、その感想ですか」
「大事なことだ。重い話の後でも、これなら自然に食べられる。君の料理は、そういうところがいい」
「褒めてくださっているのですよね?」
「もちろんだ」
アレクシスは当然のように答えると、真剣な面持ちに変わる。
「マリアンヌ」
「はい」
「これからも、傍にいてくれないか」
ぶつけられた言葉に、マリアンヌは驚きで目を見開くが、アレクシスは逃げも隠れもせず、まっすぐこちらを見ていた。
「殿下、それは……」
先に釘を刺すように、アレクシスは手で制する。
「君の料理に救われた。だが、それだけではない。君と話していると、食事の時間が待ち遠しくなる。次は何を作ってくれるのか期待してしまう」
「それは、ただ食事を楽しみにしているだけではありませんか?」
「否定はしない」
アレクシスはわずかに口元を上げた。
「だが、それだけなら料理のみを求めればいい。けれど、私は一人の女性として君に傍にいてほしいと望んでいる」
「……直球ですね」
「それが私の強みだ」
「……本当に、私でよろしいのですか?」
「君がいい」
「庶民臭い料理を出しますよ」
「むしろ好物だ」
「貴族の妻には、ふさわしくないそうですよ」
「だが王族の私の隣にはふさわしい」
あまりにも迷いのない返事だった。
マリアンヌは胸元で手を重ねた。すぐに立派な妃になれるとは思えない。傷ついた言葉も、すべて忘れられたわけではない。
それでも、この人の隣でなら、もう自分を恥じなくていい。
「不束者ですが……よろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
アレクシスはそう言って、マリアンヌの手を優しく包み込む。
これから先、彼女はアレクシスの隣で料理を作り、同じ食卓を囲み、誰よりも近くで愛されていく。
庶民臭いと捨てられた伯爵令嬢は、王太子にとって、何よりも大切な人となり、幸せな日々を過ごしていくのだった。
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