第九話 氷の公爵、魔物を一撃で砕く
そして、口からこぼれ落ちたのは、たった一言。
雪が地面に落ちる音より静かで、しかし耳の奥で深く響く、重い響き。
「消えろ」
その言葉と共に、カインの足元から急速に青白い霜が広がり始めた。
霜は地面を這い、ロックサーペントの巨体へ瞬時に到達する。
サーペントは一瞬にして全身を凍結させられ、動きを完全に止められた。
岩石のように硬いはずの表皮が、氷によって内部から破壊されていく。
ひび割れが走り、次の瞬間には、音もなく崩れる。
カインはさらに、感情を乗せないまま魔法を上塗りした。
凍り付いたサーペントの周囲の空気がねじ曲がり、次の瞬間、その巨体は無数の氷の結晶となって粉々に砕け散った。
残されたのは凍てついた地面と、わずかな魔物の残滓だけ。
戦闘は、始まってすらいなかった。
一方的な力の誇示。
リリアーナは、カインの圧倒的な強さを、前世のゲームプレイでは決して感じることのできなかった生々しいリアリティで体験した。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。恐怖ではない。――理解が追いつかない時の、人間の反応だ。
カインは魔物を一掃した後も、氷のような表情を崩さないまま、ゆっくりとリリアーナの馬車へ近づいてきた。
護衛たちはあまりの出来事に呆然と立ち尽くし、声をかけることさえできない。
膝が笑っている者までいる。彼らが怯えた相手は魔物ではなく、今、目の前の男なのだ。
リリアーナは静かに馬車の扉を開き、降り立った。
地味なローブ姿だが、その立ち姿は公爵令嬢としての気品を失っていない。
足元の地面は凍って滑る。けれど、重心を落として一歩で止めた。
足元の氷がわずかに割れ、靴底が滑った。
ほんの一瞬、体が傾く。――転ぶほどではない。けれど、この場で転べば、護衛たちの士気は確実に折れる。
その『一瞬』を、カインは見逃さなかった。
近づいた気配すら感じさせず、黒い手袋の手が、リリアーナの肘を支える。
指先は冷たい。けれど、凍える冷たさではない。
氷が触れたのではなく、鋭い金属に触れたような、理性の冷たさ。
「……足元に気をつけろ」
短い忠告。叱責ではなく、当然の確認のように。
支えは一拍で離れたのに、肘の感覚だけが妙に残った。
「カイン様」
待ち合わせの相手に挨拶するかのように、落ち着いた声で彼の名を呼ぶ。
自分でも、可笑しいほど冷静だと思った。
護衛隊長がようやく我に返り、恐る恐るカインへ頭を下げようとしたが、声が出ない。
凍った地面に膝をつく気配だけがして、すぐに止まる。
カインは一瞥も与えず、必要なことだけを終える男だ。
その態度が、リリアーナにはありがたかった。
余計な『心配』や『哀れみ』は、今の彼女にとってコストでしかない。
カインの青い瞳が、初めてリリアーナに焦点を合わせた。
そこには、社交の場での儀礼的な感情も、飾りの優しさもない。
あるのは冷徹な観察者の視線――値踏みのようでいて、どこか真剣だ。
「リリアーナ・ヴァイスハイト。貴女の要請の通り、迎えに来た」
声もまた冷たい。
機械が機能を確認するような淡々とした口調。
この冷たさこそが、彼が『氷の公爵』と呼ばれる所以だった。
リリアーナは、彼が「迎えに来た」と言ったことに内心で安堵した。
彼女が送った極秘のメモは、単なる取引の誘いではなく、救助信号として受け止められている。少なくとも、今は。
「お手数をおかけしました、カイン様。この度の救助、心より感謝申し上げます」
一礼して、すぐに顔を上げる。
彼の目を見つめた。
媚びは要らない。情に訴えるのも、たぶん逆効果。彼との関係は、感情ではなくロジックで再構築する。
「私は、貴女の感謝を求めているのではない」
カインは冷淡に言った。
淡々としているのに、拒絶ではない。むしろ、続きを促すような圧。
「貴女からの連絡は、通常では考えられない内容だった。公爵令嬢の地位を捨ててまで、辺境の不毛の地へ向かい、古代魔法の知識を求める」
一拍、目だけがわずかに細くなる。
「その動機を――貴女の安全を確保した後、全て説明してもらう」
「もちろん、承知しています。それが、わたくしが貴方様に資料を要求した際の取引条件です」
リリアーナは即座に同意した。
言葉を交わすたび、空気が研ぎ澄まされていく。
彼に必要なのは感情ではなく、明確な目的と、それに見合う利益。
そして彼女に必要なのは、彼の力と、彼の知識だ。
「……貴女の、この状況での落ち着きようは、驚くべきだ」
カインは、初めて興味を覚えたようにリリアーナを観察した。
彼は、彼女が王子からの断罪を受け、絶望に打ちひしがれていると予想していたのだろう。
だが目の前のリリアーナは、まるで新しい事業を始める前の、有能なビジネスパーソンのようだ。
「わたくしにとって、この辺境への隠遁は悲劇ではありません」
言葉を途切れさせず、真っすぐ届ける。
「長年縛られていた王妃の義務から解放され、新たな探求を始めるための、最高のスタート地点です」
嘘偽りなく答えた。これは、彼を説得するための、最も効果的な真実でもある。
カインは微かに目を細めた。
口元が、わずかに――本当にわずかに緩んだように見えた。
それは嘲笑なのか、期待なのか。判断がつかない。
ただ、胸の奥で何かが軽く鳴った気がした。冷たい音なのに、嫌ではない。
「そうか。ならば、その『探求』とやらを、私に見せてもらうとしよう」
カインは辺境の森の奥を指差した。
指先の動きひとつで、霧が道を譲る。まるで森が、彼に従っている。
「ここからアウロラ領の中心までは、馬車での移動は危険だ。私の魔導馬車に乗り換える。護衛たちには、王都へ戻るルートを指示しておく」
言い切ってから、視線を護衛たちへ一瞬だけ投げた。
彼の言葉に、護衛たちが息を呑むのが分かった。
戻る――つまりここから先は、リリアーナの公爵家の護衛ではなく、アルテミス家の領域に入るということだ。
線が引かれた。明確に。
霧の奥から現れたそれは、馬車というより、黒い箱だった。
車輪の縁には淡い魔法陣が刻まれ、音もなく地面を滑るように停止する。
扉が開くと、内側は意外なほど温かい。
火の温度ではなく、魔力で空気そのものが整えられている感じ――乾いた、均一な暖かさだ。
「乗れ」
命令形は、優しさの代わり。
リリアーナは頷き、裾を押さえて一段目に足をかけた。
その瞬間、また氷が軋む。
今度は迷わず、彼が差し出した手を取った。
手袋越しでも分かる。硬い。熱が少ない。
なのに、支えは驚くほど確かで、揺らがない。
彼に触れた事実だけが、胸のどこかを静かに叩いた。
――ここから先は、ゲームのイベントじゃない。
彼の温度も、重さも、現実だ。
彼の魔導馬車。
アルテミス家が持つ最先端の魔導技術の結晶。
王室でさえ所有を許されない、最高機密の乗り物だ。
つまりこれは、保護であると同時に、管理でもある。
リリアーナはその両方を理解したうえで、口角だけをわずかに上げた。歓迎すべき制約だ。今の彼女には。
「感謝します、カイン様」
リリアーナは護衛たちに短く別れを告げ、カインが導く霧の奥へ足を踏み入れた。
魔物と、その圧倒的な支配者が跋扈する森の中。
彼女は、冷徹な『氷の公爵』との共同プロジェクトを開始するのだ。
胸を満たすのは恐怖よりも、未知の可能性に対する高揚感。
そして、その高揚の中に――ほんの少しだけ、危険な甘さが混じっていることを、彼女はまだ言語化しないまま歩き出した。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




