第三話 帰りの馬車で、人生の再設計を始めます
王立学園の卒業記念舞踏会場を後にしたリリアーナは、公爵家専用の馬車へ乗り込んだ。
きらびやかな会場の喧騒は、分厚い扉が閉まる音ひとつで遠ざかる。外の世界が切り離され、馬車の中には深い静寂だけが残った。
隣に座る侍女長エルネスタは、涙をこらえながら震える声でリリアーナを案じている。
けれどリリアーナは、そっと手を上げて制した。
「心配いりません、エルネスタ。わたくしは、もう大丈夫です」
大丈夫。
その言葉は、数時間前の――絶望の淵にいたリリアーナ・ヴァイスハイト公爵令嬢には、決して口にできなかったはずだ。
馬車がゴトゴトと石畳を揺らしながら進む。
リリアーナは静かに目を閉じた。断罪の瞬間、閃光のように駆け巡った記憶が、いまは確固たる知識として脳内に定着している。
――この世界は、前世の自分が熱狂していた乙女ゲーム、『光と闇のアリア』の世界。
リリアーナは前髪の下、左のこめかみをそっと指で押さえた。
あの痛みの名残が、まだわずかに残っている。じん、と鈍く。
記憶が蘇った正確な瞬間は、ヘンリー王子が三つ目の罪状――『セレナを退学させようと画策した』という、まったくの虚偽を叫んだ時だった。
その直前、頭部に鋭い痛みが走ったのだ。
(ああ、そうだ。あれだ)
前日の夜。舞踏会直前、徹夜で準備をしていた彼女は、公爵邸の図書室の奥にある滅多に使われない古い梯子で資料を取ろうとしていた。
疲労困憊。足元がふらつき、ほんの少しバランスを崩す。
その拍子に、高所の棚から落ちてきた硬い装丁の歴史書が――見事に頭を直撃した。
その時は激しい頭痛と吐き気に襲われた。
けれど、公爵令嬢としての職務。迫る断罪の運命。
「弱った」などと言う余裕はなく、誰にも怪我を告げずに過ごしてしまった。
その物理的な衝撃が、前世の記憶の蓋を無理やりこじ開けたのだろう。
まさか「悪役令嬢が頭を打って記憶を取り戻す」という、ありきたりな導入が――自分の人生で現実になるとは。
リリアーナは自嘲気味に口元を歪ませた。
だが、その微笑みに絶望の色はない。
あるのは、状況を俯瞰する冷徹な分析者の視線だけだった。
前世の記憶が、リリアーナというキャラクターの感情的な回路を、瞬時に塞いでいる。
公爵令嬢としてヘンリー王子に抱いていた深い愛情も、裏切られた痛みも――いまは遥か遠い過去の出来事のように感じられた。
胸の奥で、痛むはずの場所が、妙に静かだ。凍ったみたいに。
魂が、二つの視点を持つに至ったのだ。
一つは、ヘンリー王子を愛し、その責務を果たそうとしていたリリアーナ。
もう一つは、この世界を『光と闇のアリア』というゲームとして認識し、自分の未来のバッドエンドを知る――日本の女子高生。
彼女は脳内に定着した『ゲームデータ』を頼りに、状況を解析し始めた。
断罪イベントは完了。
彼女は『悪役令嬢』としての役割を終えた。
そして、この後に待つ強制ルートは、国外追放、あるいは修道院への幽閉。
どちらも、徹底的に社会から抹殺するための手段だ。
ゲームの結末を知る者として、リリアーナは理解している。
これは単なる罰ではない。
(私の排除は、公爵家の勢力を削ぎ、ヴァイスハイト家の莫大な財産を王家、あるいはヘンリー王子が支配する派閥の手に渡すための政治的な工作――)
言葉にしてしまえば、あまりにも露骨で。
それでも、だからこそ現実味がある。
リリアーナは、公爵令嬢としての知識と、ゲームプレイヤーとしての情報解析能力を融合させた。
感情は邪魔だ。
目的は、生き残ること。――そして可能であれば、この世界のルールを変えること。
彼女は目を開け、馬車の揺れに合わせて、息を整えた。
泣いてはいない。泣く暇もない。
「エルネスタ。馬車を、公爵邸ではなく、わたくしの離宮へ向かわせてください」
「離宮へ?公爵様は今夜、王宮で会議を終えられ次第、必ず邸へお戻りになります。すぐにでもリリアーナ様にお会いになりたいと――」
「だからこそです。父上は今、きっと憤激の極みにいらっしゃるでしょう。わたくしが憔悴した姿を見せれば、父上の怒りを煽り……無謀な行動に走る可能性があります」
口調は静か。だが、迷いがない。
リリアーナの計画は、公爵家の権力と、王家に対する父の怒りを最大限に利用することだった。
「わたくしは、公爵令嬢としての品位を守り、自ら身を引く姿勢を見せる必要があります」
言い切って、彼女は続ける。
「父上には、この一連の騒動が、王子の軽率な私情によるものであり、公爵家がどれほどの名誉毀損を受けたか――冷静に王宮に訴え出ていただく。そのための材料を、わたくしが用意します」
エルネスタの喉が、小さく鳴った。
驚き。困惑。けれど、そのどれにも勝るのは――主の変化への畏れだった。
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