第十三話 使用人たちの誤解が、想像以上に深い
空気が、止まった。
カインがピクリと反応する。
列の使用人たちが、息を呑む。
リチャード執事は、涙を浮かべたまま信じられない顔でリリアーナを見る。
「リリアーナ様……ご存知でいらしたのですね!」
――しまった。
口が先に動いた。
分析癖が、状況より前に出た。
リチャードは堰を切ったように語り始めた。
「旦那様は、リリアーナ様が殿下とご婚約されて以来、誰とも親密になることなく、ただひたすらお仕事と研究に没頭され……まるで氷像のような生活を送っておられました。わたくしどもは、このまま感情を凍らせたまま公爵家を継がれるのではないかと……」
メイドの一人が、袖で涙を拭いながら小声で付け加える。
「旦那様が、他の方に優しく触れる姿など……一度も、拝見したことがございませんでしたのに……」
リリアーナは、完全に戸惑った。
彼女の頭の中では、カインとの関係は利害一致の契約結婚というドライな図式で完成していた。
だが彼らの目には、リリアーナは違う物語の主人公だ。
『長年主が想い続けた女性』
『王子の手から奪い返してきた運命の相手』
『氷像を溶かす唯一の存在』
カインは、取り乱すことなく、むしろ不機嫌そうに眉をひそめた。
「リチャード。不用意な発言は控えろ。この婚姻は、政治的均衡を保つための措置だ。感情的な憶測は慎むべきだ」
冷たく一蹴。
――なのに、使用人たちの顔はむしろ確信へ変わっていく。
否定が、否定として機能していない。
彼らは、長年カインの凍結を見てきたからだ。
リリアーナを庇う行動それ自体が、彼らにとっては動かしようのない証拠なのだ。
リリアーナはカインの横顔を盗み見た。
表情は硬い。
だが、瞳の奥に、微かな焦燥が浮かんでいる。
(……ああ、そうか。彼は、自分の感情を論理の外側に置いている。だから、それを他人に言語化されるのを嫌う。まして、私に知られるのが困るのね)
彼の弱点が見えた。
理性と論理を絶対視するがゆえに、感情という非合理が制御外へ出ることを恐れている。
そして、社畜だったリリアーナは知っている。
人間関係で最も強い武器は、感情だ。
同時に、最も強い防壁にもなる。
――ここは、戦略を切り替えるべきだ。
カインとの中身は契約のまま維持する。
しかし周囲には、純粋な愛の婚姻に見せる。
それが彼の立場を安定させ、結果として自分の地位を盤石にする。
リリアーナはリチャード執事に向き直り、公爵令嬢として訓練された優雅さで微笑んだ。
「リチャード執事。ご心配をおかけしました。わたくしはこの度、カイン様の元で静養させていただくことになりました」
そして、ほんの少しだけ言葉を濁す。
妻でも婚姻でもない。まだ、手続きは詰めていない。
けれど、物語としては十分だ。
「カイン様は、口では冷たいことをおっしゃいますが……」
リリアーナは自然な動作で、カインの背にそっと触れた。
――その瞬間、彼の身体が一瞬だけ硬直する。
触れた指先から、強い魔力の密度が伝わってきて、内心だけで小さく驚いた。
(反射で反応するほど、触れられることに慣れていないわ)
リリアーナは表情を崩さないまま、続ける。
「……彼の心の奥底に、どれほどの優しさがあるか、わたくしは幼い頃から知っています。これからは彼を支え、共にこの辺境で穏やかな生活を送れるよう努めます」
献身的な妻の完成形。
使用人たちの涙腺が、完全に崩壊した。
「リリアーナ様……なんと、なんと慈悲深く献身的なお方……!」
リチャード執事が嗚咽を漏らす。
列のあちこちからすすり泣きが上がり、空気が一気に味方へ傾く。
リリアーナは内心で冷や汗を拭った。
(よし。これで彼らは私の盾になる。カイン様の溺愛を既成事実として補強し、同時に私を善良な妻として守る。噂は鎖にもなるけど、鎖は防壁にもなる)
その背後で、カインは黙っていた。
だが、背中に触れた指先の場所へ、熱とも冷気ともつかない圧が集まるのを感じる。
怒りではない。
むしろ――抗いがたい、感情の奔流。
カインが、リリアーナにしか聞こえないほど低い声で囁いた。
冷たいのに、妙に熱を帯びている。
「リリアーナ。貴女は私のお心残りを、己の生存のために利用した。その戦略、評価する」
息が、わずかに詰まる。
評価、という単語が、妙に刺さった。
カインはさらに耳元へ顔を寄せる。
「だが、覚えておけ。貴女が作り上げたその『愛の物語』は、真実でなければならない」
――真実。
その言い方が、脅しではなく宣告に聞こえる。
「私の要求は一つだ。貴女は、私以外の誰にも、その微笑みを向けるな。……これは、契約の追加条項だ」
追加条項。
言葉は完全にビジネスなのに、内容が完全に非合理。
リリアーナは喉の奥で息を飲み込み、即座に対応モードへ切り替えた。
(理不尽。だけど、対価が明確なら処理できる。私は元社畜OL。理不尽な要件変更くらい、何度も経験してるわ)
リリアーナは顔を上げ、毅然とした声で答えた。
周囲の使用人にも聞こえる温度で。
「承知いたしました、カイン様。それが、契約の対価というものですね」
そして、内心で付け足す。
――ただし、条文化は必須。曖昧な追加条項は、後から必ず揉める。
カインは満足したように、ほんの僅かに瞳を細めた。
それが笑みかどうかは、まだ判断できない。
リリアーナは、涙目で感極まる使用人たちに見守られながら、カインの私的な研究棟へ通じる回廊を進む。
石の廊下は冷たいのに、背中に添えられた手が、逃げ道を塞ぐみたいに確かだった。
雪に閉ざされた辺境の地で。
氷の公爵と、元・悪役令嬢。
利害一致の契約結婚――のはずが、いつの間にか愛の物語が外堀を埋め、追加条項が増えていく。
奇妙で冷徹な『溺愛』の共同生活が、今、静かに幕を開けたのだ。
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