第十話 幼馴染の公爵から、突然の求婚
カインの魔導馬車は、公爵家の馬車とは比べ物にならないほど静かで快適だった。
黒曜石めいた車体は夜の闇を吸い込み、外の冷気や泥の跳ね返りを、まるで最初から存在しなかったかのように遮断している。
走っているはずなのに、耳に入るのはかすかな魔導機関の低い唸りだけ。
床には柔らかな毛皮が幾重にも敷かれ、小さな魔導ランプの淡い光が、リリアーナとカインの間に長い影を落としていた。
リリアーナは、向かいの席に背筋を伸ばして座る。
膝の上に置いたポーチの感触を確かめるように、指先が一度だけ縁をなぞった。
――ここに入っている羊皮紙が、私の命綱。
対面の男はフードを深く被ったまま、沈黙を保っている。
銀色の髪がランプの光を受けてわずかに揺れたが、表情は相変わらず読めない。
氷のようだ、と形容するには生温い。もっと鋭い。刃物の光に近い。
馬車は外界の悪路とは無関係に、まるで滑るように森を疾走していく。
揺れが少ないぶん、沈黙が目立つ。
その沈黙は、リリアーナにとって一種の圧力だった。
(助けてもらった、で終わる相手じゃない)
カインが求めているのは、慰めでも、涙でもない。
彼が欲しているのは『なぜ』だ。
公爵令嬢が命を懸けてまで辺境へ向かう、その理由。しかも古代魔法文献という、あまりにも具体的な要求を添えて。
リリアーナは息を整え、口を開いた。
「カイン様。まず、わたくしの独断先行をお許しください。貴方様を巻き込むことになると承知で、あの暗号めいたメモを送りました」
「謝罪は不要だ」
低い声が静寂を切り裂いた。
それだけで、空気の密度が変わる。
「貴女が、感情的な悲鳴ではなく、古代魔法文献の情報を要求してきた時点で理解した。これは、公爵令嬢の座を失った者による生存を賭けた戦略だ。私が知りたいのは、その全貌」
リリアーナは内心で息を吐いた。
話が早い。――やはり、彼こそが最高のパートナーだ。
彼女はポーチから羊皮紙の巻物を取り出し、膝ではなくテーブルに置いた。
指先で結び紐を解く。ほどけた瞬間、乾いた古い紙の匂いが立つ。
巻物を広げ、ランプの光の下に並べる。
「わたくしの目的は、アウロラ領に隠された古代遺跡です。貴方様が長年研究されている、失われた魔導技術に関するもの」
カインの青い瞳が、初めて明確に揺れた。
感情と呼んでいいのか分からないが、少なくとも『反応』だった。
「アウロラ領の遺跡。ヴァイスハイト家が数百年前から領有しているが、伝説扱いされていた。貴女が、その存在を確信している根拠は?」
「王妃教育の一環として、公爵家が秘匿してきた古代地理学と、ロゼリア王家初期の文書を読み解きました。その中に『不毛』の原因が、太古の魔導技術による『封印』であるという仮説を補強する記述が複数あります」
少しだけ、言葉を区切る。
説明しすぎれば嘘くさくなる。けれど、曖昧にすれば彼は切り捨てる。
「貴方様からいただいた文献リストの記述と照合すれば、確度は極めて高い。そう判断しています」
前世のゲーム知識は、ここでは『王妃教育の成果』に置き換える。
口に出せない情報は、別の器に注ぎ替える。社畜の処世術だ。
「封印を解ければ、遺跡には……この国の魔導技術を一気に数百年進化させる力があるはずです。これが、わたくしが辺境へ向かう第一の目的」
カインは微動だにせず聞いている。
集中している、というより、計算しているのだろう。
彼の周囲の魔力粒子が引き寄せられているように見えるのは、きっと気のせいではない。
「古代技術の独占。それが貴女の生存戦略か。王子の断罪から逃れ、力を得て、いずれ復讐を果たすつもりか?」
「復讐?……いいえ」
即答した。
そこに迷いはない。
「ヘンリー殿下は、わたくしにとって、もはや取るに足らない存在です。わたくしが求めているのは、安寧の地と、誰にも縛られない自由。そして、何よりも――」
一拍置く。
声を少しだけ落とす。
説得のためではなく、これは核心だからだ。
「王国の未来に対する、リスクヘッジです」
「リスクヘッジ?」
彼の表情がわずかに硬直した。
その微かな変化を見逃さない。
「はい。王妃教育を通して、王子の能力と、王国が抱える潜在的な脅威を理解しています。ヘンリー殿下の治世は、セレナ様への感情論と視野の狭さで、確実に揺らぐ」
リリアーナは淡々と言い切った。
「そして、この世界の数年後、遥か東方から魔族による大規模な侵攻が始まります。……ゲームの、いえ、歴史の予測です」
予測と置けば、彼は問いを挟める。問いを挟める人間は、取り引きができる。
リリアーナは、魔族侵攻の時期、侵攻ルート、最初に落ちる都市の名――口にできる範囲だけを選んで提示した。
天気予報みたいに、数字と地名を淡々と並べる。感情は挟まない。
「王子の『真実の愛』宣言は、公爵家を王室から引き剥がし、防御機構を弱体化させました。このままでは、侵攻時に王国は崩壊します」
彼女は羊皮紙に指を置く。
「わたくしがアウロラで古代技術を研究し、それを独占すること。これは王家のためではありません。この世界そのものが滅びないための、裏側からの緊急対策です」
言い終えた途端、馬車の中に深い沈黙が落ちた。
ランプの火が小さく揺れる音さえ、聞こえそうだ。
カインは、じっとリリアーナを見つめている。
真偽と、意図と、利益――すべてを秤にかける目。
やがて、カインが口を開いた。
驚きはない。反発もない。
ただ評価だけが、冷たく落ちてくる。
「貴女は、私が知っていたリリアーナ・ヴァイスハイトではない。義務と形式に縛られ、私が提供した知的な刺激を常に拒絶していた貴女とは……まるで別人だ」
「頭を打って、少しばかり物の見方が変わりました」
苦笑いで返す。
それが最も無害な答えだ。
「貴女の戦略は合理的だ。辺境へ逃れ、力を蓄え、王室の監視を逃れながら、この世界の命運に関わる技術を独占する。だが、一つ欠点がある」
「欠点、ですか?」
心臓が、少しだけ強く鳴った。
洞察が鋭い。想定外を刺されるのは、嫌いだ。
「名誉ある『静養』という名目で辺境へ向かおうとも、王室――特にヘンリー王子は、貴女が公爵家の力を借りて復権することを恐れる。監視は続く。そして、貴女が危険な力を得た瞬間、王子はそれを反逆と見なす。その時、公爵家全体が標的になる」
冷や汗が背中を伝いかける。
けれど、表情は崩さない。
(そう。あの王子は、被害妄想が強い。自分の選択が間違っていたと示されることを、何より恐れる)
カインは身を乗り出す。
冷たい視線が、リリアーナの瞳を射抜いた。
「貴女は、ヴァイスハイト公爵家の庇護の下にいる限り安全ではない。巨大な盾は、同時に大きな的だ」
「では、どうすれば?」
これは、お願いではない。
解決策の提示を求める、交渉の一手。
カインは、そこで初めて決意の色を滲ませた。
氷の表面に、細い亀裂が走るみたいに。
「私と、契約を締結する」
「契約?古代技術の共有、ということですか?」
「それも含まれる。だが最も重要なのは、貴女の『地位』の変更だ」
言葉が重い。
落ちる前に、もう理解してしまう。
「リリアーナ・ヴァイスハイト。私と、結婚してもらいたい」
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