病室の天井
私は白い海。
石膏ボードとクロスで構成された、果てしない白銀の世界。
四隅には、監視カメラのような火災報知器と、生命維持装置の電子音を吸い込む吸音材が配置されている。
私は病室の天井。
人々が人生の最期に、最も長く見つめ続ける風景だ。
私の表面には、いくつかのシミがある。
雨漏りの跡ではない。
コーラの飛沫でもない。
それは経年劣化と、湿気と、人々の吐息が凝結して生まれた、抽象画のような模様だ。
人間たちは、この無意味な模様に意味を見出そうとする。
「あのシミ、ウサギに見えるな」
入院三日目の少年が言った。
彼は骨肉腫だった。
右足を切断する前の夜、彼は一睡もせずに私を見上げていた。
ウサギ。
そうか、そう見えるか。
なら私はウサギになろう。
君が痛みに耐え、恐怖に震える夜、私は月で餅をつくウサギとなって、君の孤独を紛らわせよう。
彼は手術室へ運ばれていき、軽くなって帰ってきた。
彼は泣かなかった。
ただ、じっと私を見つめ、ウサギのシミを目で追っていた。
私は動かない。
けれど、私の存在が彼にとっての錨になれたなら、私は汚れた壁紙であることに誇りを持とう。
「地図みたいだね」
七十歳の老婦人が言った。
彼女は末期癌だった。
モルヒネで意識が混濁する中、彼女は私の隅にある黄色い変色を指差した。
「あそこが北海道で……ここが、私たちが新婚旅行で行ったハワイ」
彼女の夫は、ベッドの脇で頷く。
「そうだね。楽しかったね」
彼女の視界の中で、私は世界地図に変貌していた。
私の白い平面は、彼女の記憶を映写するスクリーンだ。
彼女は私の中に、かつての美しい海や、風や、愛する人の笑顔を見ている。
私は何も映していない。
ただ白く、そこに在るだけだ。
だが、人間という生き物は、空白に物語を書き込む天才だ。
夜。
病棟が寝静まる時間。
心電図モニターの電子音だけが、規則正しく響く。
ピッ、ピッ、ピッ。
それは命のメトロノーム。
私はその音を聞きながら、彼らの呼吸を見守る。
浅い呼吸。苦しげな呼吸。安らかな呼吸。
全ての息が、私の表面に微かな湿気を与え、やがて乾燥していく。
人が死ぬ時。
彼らの瞳孔が開く。
その瞳に最後に映るのが、私だ。
家族の顔を見ながら逝く者もいるが、多くの者は、意識が遠のく中、ぼんやりと輝く蛍光灯と、その周りの白い余白を見つめて旅立つ。
その瞬間、彼らの魂が身体から抜け出し、私を透過して空へと昇っていくような感覚を覚える。
私は門だ。
現世と来世を隔てる、薄い皮膜。
彼らがこの白い色の中に、光や、天国や、無を見ていることを願う。
ある朝。
ベッドが空になった。
リネンが交換され、枕が叩かれ、新しいシーツが敷かれる。
消毒用エタノールの匂い。
死の匂いが拭い去られ、清潔な「空室」が出来上がる。
私は変わらない。
ウサギのシミも、地図のシミも、そのまま残っている。
次の患者が入ってくる。
中年男性。交通事故。
「いてて……なんだよ、このボロい天井」
彼は顔をしかめる。
「掃除してねえのかよ」
彼は不機嫌そうだ。
いいんだ。文句を言えるうちは、生きている証拠だ。
君もいつか気づくだろう。
この退屈で、汚れた天井が、君の世界の全てになる夜が来ることを。
私は逃げない。
動かない。
ただ、君たちの上で、静かに覆い被さっている。
君が泣きたい時、君の視線の逃げ場として。
君が人生を振り返る時、その背景として。
私はここにいる。
病室の天井。
君の最後の友。




