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病室の天井

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/02/03

 私は白い海。

 石膏ボードとクロスで構成された、果てしない白銀の世界。

 四隅には、監視カメラのような火災報知器と、生命維持装置の電子音を吸い込む吸音材が配置されている。

 私は病室の天井。

 人々が人生の最期に、最も長く見つめ続ける風景だ。


 私の表面には、いくつかのシミがある。

 雨漏りの跡ではない。

 コーラの飛沫でもない。

 それは経年劣化と、湿気と、人々の吐息が凝結して生まれた、抽象画のような模様だ。

 人間たちは、この無意味な模様に意味を見出そうとする。


 「あのシミ、ウサギに見えるな」

 入院三日目の少年が言った。

 彼は骨肉腫だった。

 右足を切断する前の夜、彼は一睡もせずに私を見上げていた。

 ウサギ。

 そうか、そう見えるか。

 なら私はウサギになろう。

 君が痛みに耐え、恐怖に震える夜、私は月で餅をつくウサギとなって、君の孤独を紛らわせよう。

 彼は手術室へ運ばれていき、軽くなって帰ってきた。

 彼は泣かなかった。

 ただ、じっと私を見つめ、ウサギのシミを目で追っていた。

 私は動かない。

 けれど、私の存在が彼にとっての錨になれたなら、私は汚れた壁紙であることに誇りを持とう。


 「地図みたいだね」

 七十歳の老婦人が言った。

 彼女は末期癌だった。

 モルヒネで意識が混濁する中、彼女は私の隅にある黄色い変色を指差した。

 「あそこが北海道で……ここが、私たちが新婚旅行で行ったハワイ」

 彼女の夫は、ベッドの脇で頷く。

 「そうだね。楽しかったね」

 彼女の視界の中で、私は世界地図に変貌していた。

 私の白い平面は、彼女の記憶を映写するスクリーンだ。

 彼女は私の中に、かつての美しい海や、風や、愛する人の笑顔を見ている。

 私は何も映していない。

 ただ白く、そこに在るだけだ。

 だが、人間という生き物は、空白に物語を書き込む天才だ。


 夜。

 病棟が寝静まる時間。

 心電図モニターの電子音だけが、規則正しく響く。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 それは命のメトロノーム。

 私はその音を聞きながら、彼らの呼吸を見守る。

 浅い呼吸。苦しげな呼吸。安らかな呼吸。

 全ての息が、私の表面に微かな湿気を与え、やがて乾燥していく。


 人が死ぬ時。

 彼らの瞳孔が開く。

 その瞳に最後に映るのが、私だ。

 家族の顔を見ながら逝く者もいるが、多くの者は、意識が遠のく中、ぼんやりと輝く蛍光灯と、その周りの白い余白を見つめて旅立つ。

 その瞬間、彼らの魂が身体から抜け出し、私を透過して空へと昇っていくような感覚を覚える。

 私は門だ。

 現世と来世を隔てる、薄い皮膜。

 彼らがこの白い色の中に、光や、天国や、無を見ていることを願う。


 ある朝。

 ベッドが空になった。

 リネンが交換され、枕が叩かれ、新しいシーツが敷かれる。

 消毒用エタノールの匂い。

 死の匂いが拭い去られ、清潔な「空室」が出来上がる。

 私は変わらない。

 ウサギのシミも、地図のシミも、そのまま残っている。

 

 次の患者が入ってくる。

 中年男性。交通事故。

 「いてて……なんだよ、このボロい天井」

 彼は顔をしかめる。

 「掃除してねえのかよ」

 彼は不機嫌そうだ。

 いいんだ。文句を言えるうちは、生きている証拠だ。

 君もいつか気づくだろう。

 この退屈で、汚れた天井が、君の世界の全てになる夜が来ることを。


 私は逃げない。

 動かない。

 ただ、君たちの上で、静かに覆い被さっている。

 君が泣きたい時、君の視線の逃げ場として。

 君が人生を振り返る時、その背景として。

 私はここにいる。

 病室の天井。

 君の最後の友。


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