第35話「揺れる戦局」
死神は大木の幹を深く蹴り込み、空へと跳ね上がった。
宙に浮いたその瞬間、脚部は輪郭を失い、濃密な黒煙へと崩れ落ちる。実体を失った下半身を引きずるように、死神は一直線に軌道を描き、獲物へと迫った。
セリアは即座に間合いを見切り、攻撃圏の外にある別の幹へと身を退く。
一方、リッタは逃げない。地面を踏み締め、身体の軸を定め、正面から迎え撃つ構えを取った。
だが、その判断は一瞬で覆される。
迫り来る死神の速度は、先ほどセリアと対峙していた時の比ではなかった。視界に捉えたはずの姿が、次の瞬間には距離を詰めている。追えない。理解した瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
――想定を誤った。
ここまでの隔たりがあるとは、誰も予測していなかった。
死を意識した刹那。
世界の流れが、唐突に歪んだ。
黒煙の揺らぎが、鎌の軌道が、空気そのものが、異様なほど緩慢に映る。まるで時間が粘性を帯び、引き伸ばされたかのようだった。
リッタは即座に理由を悟り、視線を横へ走らせる。
そこには、攻撃圏外に立つセリアの姿があった。両腕を掲げ、その前方には白く輝く魔法陣が静かに展開されている。揺らぎのない光が、空間を支配していた。
援護を理解した瞬間、身体の奥で凍りついていた感覚が解ける。
リッタは即座に回避へ移ろうと身体を切り返す。その一瞬、振り返る視界の端で、セリアの口元がわずかに吊り上がるのが見えた。
次の瞬間、死神の速度は明確に“対処可能な域”へと落ちる。
振り下ろされる大鎌を、リッタは上半身を捻ることで紙一重にやり過ごした。刃が空を裂き、風圧が頬を掠める。
だが、それで終わらせない。
回避の反動を逃さず、地を踏み抜き、腰を回し、力を一点へ集約する。
放たれた拳は一直線に伸び、死神の左頬を正確に捉えた。
鈍い衝撃音が響き、死神の口から血が噴き出す。
身体は為す術なく吹き飛ばされ、近くにあった大木へと叩きつけられた。幹が悲鳴を上げ、樹皮が砕け散る。
黒煙が乱れ、空中に散り、そこに――確かな一撃の結果だけが残された。
拳を打ち抜いた瞬間の衝撃が、まだ腕に残っていた。
確かに強力な一撃だった。だが、それ以上にリッタ自身を驚かせたのは、その力の“感触”だった。
こんな力を、自分は持っていただろうか。
違和感に導かれるように、リッタは手甲へと視線を落とす。拳を握り、ゆっくりと開き、もう一度確かめる。その動きに合わせ、身体の奥から力が湧き上がる感覚がはっきりと伝わってきた。
そこで、理解した。
この手甲は、持ち主の力を単に補助するものではない。内にある力そのものを、何倍にも引き上げる――そういう性質を持つ装備なのだと。
思考がそこへ辿り着いた、その直後。
足元の幹がわずかに揺れ、気配が近づいてくるのを感じ取る。
「やったわね、リッタ!」
声の方へ顔を上げると、セリアがこちらへ歩み寄ってきていた。
リッタは一度、手甲に目を落としたまま小さく息を吐き、それから顔を上げる。
「うん。これならなんとかなりそう」
言葉にして初めて、現実味が追いついてくる。
そして、ふと先ほどの違和感を思い出し、視線をセリアへ向けたまま続けた。
「死神が遅く見えたのはセリアが何かしてくれたの?」
問いかけに、セリアは首を横に振る。
「いいえ、リッタに身体強化魔法をかけただけよ」
その一言で、すべてが繋がった。
時間が遅くなったわけではない。死神が鈍ったわけでもない。
自身の身体能力が引き上げられたことで、相対的に相手の動きが遅く見えていたのだ。
「なるほど、だからか......」
納得の息とともに言葉を零し、リッタはもう一度、手甲へと視線を落とす。
そこに宿る力を確かめるように、指先を軽く動かしてから、再び顔を上げた。
セリアと目が合う。
言葉は交わさない。
だが、互いの理解はすでに十分だった。
二人は静かに、同時に頷いた。
突如として、空気が切り裂かれるような殺気が走った。
二人の視線が、反射的に一点へと集まる。
死神はゆっくりと顔を上げ、吐血で汚れた口元を手の甲で拭った。指先に残る赤黒い痕を一瞥すると、確かめるように目を細め――次の瞬間、不気味に口角を吊り上げる。
言葉はない。
だが、それだけで十分だった。
――来る。
そう確信させるには、あまりにも明確な合図だった。
直後、死神は再び大木を蹴り上げる。
まるで第二ラウンドの開始を告げるかのように、空気を裂いて迫り来た。
連続する斬撃が、鋭く、間断なく振るわれる。
セリアは即座に距離を取り、別の幹へと身を移す。だが、その判断が完了するより早く、死神の鎌はすでにリッタへと向けられていた。
セリアの視界では、斬撃は速すぎた。
軌道を捉える前に、次の一撃が重なっている。
だが、リッタは違った。
迫る刃を、まるで流れを読むかのように捌き、身体を滑らせるようにかわしていく。そして、そのたびに、一撃一撃が確かな重みを伴って死神へと叩き込まれた。
攻防が続くにつれ、足元の幹が悲鳴を上げ始める。
衝撃の余波が蓄積し、やがて耐えきれず、崩れ落ちた。
足場を失い、二人の身体が落下する。
その高さに合わせるように、死神は下半身を煙へと変え、宙を漂う。互いの高度が揃った瞬間、空中での攻防が始まった。
だが、リッタは悟る。
空中に留まれる時間には、限界がある。
次の瞬間、リッタは宙を強く蹴り上げ、近くの大木へと足を掛ける。衝撃を殺さず、そのまま反動を利用し、再び空中へと跳び出した。
死神は煙となった下半身によって自由に宙を漂い、逃がすまいと追撃を重ねる。
空と森の境界で、二人は激しくぶつかり合い、刃と拳を交錯させ続けた。
一本、また一本。
無数にそびえる木々を足場に、リッタは跳び回る。
それを追うように死神も軌道を変え、接近しては打ち合い、弾かれては距離を取る。
衝突と離脱を繰り返しながら、戦場は縦横無尽に広がっていった。
それでもなお、死神の攻撃はリッタに届かない。
振るわれる刃のすべてを見切り、かわし、その隙に何発も拳を叩き込まれる。顔へ、腹へ。重く、確実に、逃げ場のない位置へと。
一方的だった。
攻められているのは、明らかに死神の方だった。
その光景を見据える中で、セリアはリッタの異変に気づく。
拳を包む手甲が、赤く、脈打つように輝いていた。
――次は、さらに強い一撃が来る。
そう察した瞬間、セリアは思考を巡らせる。今、自分にできることは何か。直接の攻撃ではない。だが、決定打を通すための“隙”なら――。
答えはすぐに出た。
セリアは空中を漂う死神へと狙いを定め、淡い水色の魔法陣を展開する。光は過剰に広がらず、精密に制御されていた。
そして、短く詠唱を告げる。
「――凍てつく冷風」
次の瞬間、規模を抑えた吹雪のような冷風が放たれる。
鋭く、冷たく、一直線に――死神を捉えた。
風は鎌を持つ腕を包み込み、瞬く間に氷が這う。
関節が凍りつき、刃の軌道が乱れる。
予期せぬ拘束に、死神は明らかな動揺を見せた。
その隙を、リッタは見逃さない。
熱を帯びた拳が、高く掲げられる。
そして、重力ごと叩きつけるように――上から、地面へ向けて、腹部へと振り下ろされた。
衝撃が、空気を震わせる。
死神は再び激しく吐血し、そのまま地面へと叩き落とされた。
ドゴォン!と鈍く重い音が響き、土煙が大きく舞い上がる。
リッタもまた、近くの大木を足場にして地上へと降り立つ。
セリアは幹から跳び降り、着地寸前で風魔法を発動させる。衝撃は完全に相殺され、軽やかに、音もなく地へと降りた。
二人は距離を保ったまま、土煙の中心を見据える。
やがて、それはゆっくりと薄れていく。
そこに現れたのは、大きく凹んだ地面。
そして、その中央に横たわる死神の姿だった。
腹部の衣服は焼け焦げ、露わになった部分には青黒い痣のような損傷が刻まれている。顔には吐血した血が飛び散り、身体は無惨に地へと伏していた。
二人の脳裏に、一瞬だけ安堵がよぎった。
勝った――そう錯覚するには、十分すぎる沈黙だった。
だが、その静寂を破るように、低く、湿った音が響く。
ゴホッ。
死神は咳き込みながら、ゆっくりと身体を起こした。
倒れ伏していたはずの影が、何事もなかったかのように、むくりと立ち上がる。
腹部へと視線を落とし、自らの傷を確かめる。
そして、静かに顔を上げ、二人を見据えた。
「僕に傷を付けたのは、あの剣士以来だよ......」
呟くような声だった。
だが、その言葉は異様な重みを帯びていた。
二人は思わず、死神の腹へと視線を向ける。
そこには、青く腫れ上がった肌の中心に、大きく、斜めに抉られたような横傷が刻まれていた。
時間が経っても塞がる気配のない、生々しい痕。まるで、過去の一撃が今なお存在を主張しているかのようだった。
死神は、その傷を前にしたまま、淡々と続ける。
「けど、君たちの攻撃は、ぬるいんだよ。こんな痛みじゃすぐに回復できる」
言葉が終わると同時に、腹部の青い腫れが――消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように、一瞬で。
だが。
深く抉られた横傷だけは、そのまま残っている。
「攻撃を与えるっていうのは、こういうのを言うんだよ」
死神は腹の傷を指でなぞりながら、そう言った。
その仕草は、誇示でも威嚇でもない。ただ事実を語るだけの、あまりにも静かな動作だった。
勝利の予感は、完全に霧散した。
代わりに、胸の奥に沈み込むような理解だけが残った。
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