第32話「堕ちる剣聖」
アリシアは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「さぁ? どうでしょうね」
挑発とも取れるその言葉を受けても、死神は表情ひとつ変えず、ただじっと彼女を見つめている。
やがて、低く、静かな声で呟いた。
「いいよ。どうせすぐ分かる」
その瞬間だった。
死神は頭上へと高々と大鎌を振り上げる。
刃は再び黒いもやを纏い、濃密な闇を引き連れたまま、アリシアとの中間あたり――地面へと叩きつけられた。
大鎌は鈍い音を立てて地面にめり込み、深々と突き刺さる。
それを起点に、闇が脈打つように円状へと広がり、地面を、空気を、光さえも飲み込んでいく。
気づけば二人の足元一帯は、底の見えない黒い闇へと変貌していた。
死神は次に、ゆっくりと手を上へ振り上げ、告げる。
「――黒泥万手」
直後、闇に覆われた地面が蠢いた。
ぬらり、と。
粘ついた音を立てながら、無数の黒い手が地中から湧き上がる。
それらは意思を持つかのように、ただ一人――アリシアへと向かって、一斉に伸びてきた。
アリシアが、はっとしたように視線を落とした、その刹那。
死神は一切の間を与えず、次の攻撃を畳み掛けた。
伸ばした手を、アリシアへとかざす。
すると空間が歪むように、アリシアの周囲――宙にいくつもの黒い穴が次々と出現した。
足元からは黒い手が伸び上がり、視界の端から端まで、周囲は黒い穴に覆われていく。
まるで、闇そのものに包囲されたかのようだった。
アリシアは即座に周囲を見渡す。
だが、次の瞬間。
穴の奥から、鋭利な黒い棘のようなものが突き出し、一斉にアリシアへと殺到した。
――死神の猛攻が、ここから本格的に始まった。
アリシアは迷いなく剣を振るう。
迫り来る棘を切り落とし、切っては捨てる。
同時に、下から伸びる黒い手にも刃を走らせ、次々と斬り払っていく。
一つ一つの攻撃は、致命的な威力を持たない。
だが――数が、あまりにも多すぎた。
アリシアは体勢を立て直そうと、宙を蹴り、あちこちへと飛行して距離を取ろうとする。
しかし、どこへ逃げても地面一帯は闇に覆われ、黒い穴は常に、正確に、彼女の周囲へと出現し続けた。
逃げ場は、ない。
それでもアリシアは止まらない。
飛び回りながら、無数の斬撃を放つ。
氷華が閃き、闇を裂き、棘と手を次々と切り刻んでいった。
厄介なのは、黒い棘が「一つの穴から一つ」現れるわけではない、という点だった。
棘はすべて、例外なくアリシアへと向かってくる。
だが、切り損ねたもの、あるいは回避された棘は、そのまま消えることはない。
それらは闇へと引き戻され、別の黒い穴へと吸い込まれていく。
そして――次の瞬間。
どの穴から再び姿を現すのか、その兆しは一切ない。
戻った穴とは無関係に、完全にランダムな別の穴から、再び棘が飛び出してくるのだ。
穴から穴へ。
しかし、次に出現する穴は、決して予測できない。
その性質が、アリシアの感覚を確実に狂わせていく。
切っても、次の棘が現れる。
避けても、それは闇を巡り、再び襲いかかってくる。
棘も、下から伸びる黒い手も、その数は――無数としか言いようがなかった。
アリシアは、すべての攻撃を切るか、あるいは避けることで凌ぎ続けている。
息をつく暇もないほどに畳み掛けられる猛攻。
その一撃一撃は致命的ではないが、問題は別にあった。
――一切、食らうことは許されない。
――触れることすら、許されない。
闇魔法は、極めて特殊な性質を持つ。
すでに闇に堕ちた存在でもない限り、触れた瞬間、侵食は始まる。
黒は、触れた部位から瞬く間に広がり、
肉を、魔力を、意思を蝕み――やがて、その存在を闇へと引きずり落とすのだ。
闇に落ちたものは、破壊衝動と殺意衝動に蝕まれる。
理性は削ぎ落とされ、残るのは――ただ暴れるためだけの衝動。
やがて自我を失い、意思なき存在へと成り果ててしまう。
そして侵食されるのは、人間だけではない。
武器も、同様だ。
一般的な武器であれば、闇に触れた箇所から、まるで錆が広がるかのように侵食され、
黒く濁った鉄屑となって、脆く朽ち果ててしまう。
だからこそ、闇魔法は他の魔法とは本質的に異なる。
一撃一撃の威力や精度ではない。
求められるのは、ただ――量。
触れさえすれば、それで終わりなのだから。
アリシアは、そのことを痛いほど理解していた。
だから止まらない。
立ち止まることなく、息つく間もなく、無数の攻撃を捌き続ける。
だが――徐々に、疲労が表に出始めていた。
呼吸は荒くなり、胸が上下するたびに肺が悲鳴を上げる。
剣の軌道はわずかに鈍り、動きのキレも確実に失われていく。
それでも振るう。
それでも避ける。
はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら、
アリシアは思わず、言葉を漏らした。
「なんて量なの……」
しかし、猛撃は止まらない。
無数に迫り来る攻撃に対し、アリシアは驚異的なまでに持ちこたえていた。
だが――その集中が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
回避の最中、僅かに。
ほんの掠める程度に、黒い棘が彼女の身体に触れてしまった。
その瞬間。
死神は、はっきりと分かるほどに、嬉しそうに口角を吊り上げた。
アリシアは、はっとして右腹部へと視線を落とす。
確かに、触れていた。
衣服がわずかに裂け、その隙間から、黒が滲み出すように広がっていく。
侵食は確実で、容赦がない。
アリシアの顔から血の気が引き、焦りを隠せないまま、表情が強張っていった。
やがて、死神の攻撃が、ふっと止む。
闇に侵食された身体は力を失い、
アリシアはそのまま、重力に引かれるように地面へと落ちていった。
――だが、地面を覆っていた闇は、すでに消えている。
支えを失ったアリシアは、空中から、そのまま落下していく。
死神は、落ちていく彼女を一瞥すると、
背後へと逃げた二人を追うため、身体の向きを変えた。
その時だった。
何かが、上がってくる。
微かながら、確かな気配。
死神は瞬時に異変を察し、素早く振り返る。
視界に映ったのは、白い光の玉のようなものが、静かに上空へと昇っていく光景だった。
死神は、それを見て理解した。
――アリシアが、最後に何か攻撃を仕掛けてきた。
――だが、外したのだ、と。
ほんの少しだけ、口角を上げ、嗤う。
そして死神は、落ちていくアリシアをそのまま背に、
何事もなかったかのように、その場を後にした。
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戦いはまたまだヒートアップしていきますので
次回もお楽しみいただければ幸いです。




