第29話「黒い噂」
少しの沈黙が流れた。
三人は湯に身を委ねたまま、それぞれの思考に沈んでいたが――やがて、セリアが静かに口を開く。
「これからどうするの......?」
その問いに、アリシアはすぐには答えず、湯気の向こうで視線を彷徨わせてから、ゆっくりと口を開いた。
「そうね......でもクラウスが言うには、王女様を攫った犯人はこの森の奥に逃げた可能性が高いって話だったけれど......」
話を聞いていたリッタが、どこか居心地の悪そうな様子で肩をすくめる。
「奥か、やだなあ」
その一言に、セリアが間髪入れず問い返した。
「どうして?」
一拍。
リッタは視線を泳がせ、声を落とす。
「だって奥に行くと、あれと遭遇するかもしれないじゃん......」
意味が分からないというように、アリシアは小さく首を傾げた。
「あれ......?」
次の瞬間、セリアの表情が強張る。
何かに思い当たったのか、空気がぴんと張り詰めた。
「たしかに、それはまずいわね......」
その声音には、はっきりとした怯えが滲んでいた。
それを感じ取ったアリシアは、思わず身を乗り出す。
「えっ......まさか、幽霊......とか?」
リッタがぷかぷかと湯の中を漂いながら、気の抜けた調子で答えた。
「それなら幽霊の方がましだね」
その言葉に、アリシアの視線は自然とリッタへ向く。
だが、すぐに空気が変わった。
セリアが、声を落とし、含みを持たせた調子で語り始めたのだ。
「1年ほど前ね。この噂が王都に流れ始めたのは......」
アリシアは、すっと視線をセリアへ移す。
湯気の向こうで、その表情がわずかに影を帯びたのが分かった。
セリアは一度言葉を切り、意図的に間を置く。
そして、低く名を告げた。
「黒の死神」
思わず、アリシアが聞き返す。
「黒の死神......?」
セリアは、短く、しかし確かに頷いた。
次の瞬間、今度はリッタが急に語り出す。
先ほどまでの軽さは、そこにはない。
「アルシェリア大森林の奥へ足を踏み入れると、それは突然現れる。大鎌を引きずる金属音と共に。逃げるものも見たものも、等しく死を味わうことになるだろう。」
その言葉が終わる頃には、アリシアの顔から血の気が引いていた。
恐怖に強ばり、表情が凍りついたまま動かない。
彼女はそっと、縋るようにセリアへ視線を向ける。
それを受け取るように、セリアが静かに口を開いた。
「とても怖い噂よ......。背後から鎌を引きずる金属音が聞こえたらもう終わり。気づいた瞬間に首は跳ねられて、次に見るのは自分の胴体」
アリシアは、恐怖に喉を締めつけられ、言葉を失った。
詰まった息を、かすかに飲み込むことしかできなかった。
しかし、アリシアは胸の奥に込み上げる恐怖を押し殺し、かすれる声を振り絞った。
「一体......何者なの?」
セリアは静かに首を振る。
「わからない......誰も見たことがないの。見た人は皆殺されてしまうから」
淡々とした口調が、かえって現実味を帯びていた。
そしてセリアは、そのまま言葉を続ける。
「この噂が広まって以来、もう森林の奥へ踏み込もうとする者は一人もいなくなったわ。......デーモンスレイヤーの方々でさえ、奥へは踏み込もうとしない。......まさに未開の森」
その言葉を最後に、沈黙が落ちた。
やがて、リッタがおもむろに立ち上がり、湯から上がる。
「のぼせた」
それだけを残し、彼女は更衣室へと向かっていった。
続いてアリシアとセリアも湯を出る。
三人は言葉を交わすことなく部屋へ戻り、そのまま眠りについた。
アリシアも恐怖の余韻に囚われたまま、
それ以上「黒の死神」について言及することはなかった。
深夜、宿の外では森が静かに息づいていた。
風に揺れる枝葉の音に紛れて、金属が擦れるような錯覚が、
ほんの一瞬だけ、闇の中を走る。
それが夢か現かを確かめる者はいない。
ただ一つ確かなのは――
アルシェリア大森林の奥には、今もなお、
「黒の死神」が潜んでいるという噂だけだった。
明けましておめでとうございます。
いよいよ次回で第30話となりました。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
次回は少し濃いめの回になる予定ですので、よければお付き合いください。
今年も引き続き投稿していきますので、よろしくお願いします。




