第25話「蒼海より顕れる大いなる鯨」
二つの力が、今――
正面から、衝突する。
耳を裂くような風音とともに、凄まじい爆風が周囲を飲み込む。
衝撃に煽られ、セリアは思わず両腕で顔を庇った。足元が浮きかけるのを必死に踏みとどめ、吹き飛ばされまいと耐える。
その様子を見たクラウスは、即座に動いた。
「セリア様」
片腕を伸ばし、庇うように彼女の前へ立つ。
同時に、もう片方の手を前へ掲げ――先ほど魔法講義の際、アリシアが生徒たちに示してみせた水属性の防御魔法、《水帳結界》を展開した。
薄い水膜が弧を描き、クラウスとセリアを包み込む。
直後、激しく叩きつけていた暴風が、嘘のようにその勢いを失った。
突然訪れた静寂に、セリアは息を呑み、ゆっくりと体勢を立て直す。
互いの強烈な風魔法は、なおも正面からぶつかり合っていた。
しかし、その拮抗は長くは続かなかった。
先に異変が現れたのは、セリアの視界に映る相手――リッタの方だった。
アリシアが変わらず、安定した出力で魔法を維持し続けているのに対し、リッタは風魔法を放つ拳へ、何度も不安げな視線を走らせている。
「長くは持たないか……」
リッタがそう呟いた瞬間、拳から放たれていた風魔法の威力が、目に見えて弱まり始めた。
アリシアも、はっとその異変に気づく。
呼吸を整えるように、魔力の流れを制御し、合わせるように次第に出力を落としていった。
やがて――
互いに魔法の発動を止める。
拮抗していた風が霧散し、空中に踏みとどまっていたリッタの身体が、静かに地へと降下する。
着地の衝撃は抑えられていたが、その動きには、確かな疲労が滲んでいた。
リッタは荒い呼吸を繰り返しながら、しきりに両手の手甲へと視線を落とす。
指先を動かし、確かめるように、何度も。
一方のアリシアは、目の前で起きた状況をまだ完全には飲み込めずにいた。
言葉が喉まで上がりながらも、それを形にすることができない。
クラウスは張り詰めていた水帳結界を解除する。
だが、セリアも、そしてクラウス自身も、今はただ事の成り行きを見守ることしかできなかった。
沈黙を破ったのは、リッタだった。
自身の手を見つめたまま、ぽつりと口にする。
「僕のこれは、長期戦向かないんだよね」
そう言うと、ぎゅっと手を握り直し、ゆっくりと顔を上げる。
視線は、まっすぐにアリシアを捉えていた。
「だから次で終わらせる。アリシアも遠慮しないで全力で来て」
その呼びかけが、「君」ではなく、名前へと変わった瞬間だった。
それを受け、アリシアは一瞬だけ目を瞬かせる。
そして、ほんの少し――口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「そうね。お互い本気でぶつかって、それで終わりにしましょう。リッタ」
今度はアリシアもまた、彼女を名前で呼んだ。
リッタはふっと笑い、
「うん。そうしよう」
と短く応じると、再び腰を落とし、体勢を立て直した。
それに呼応するように、アリシアもまた空中へと氷華を生成し、構え直す。
冷気を纏う剣が、静かにその存在を主張していた。
――なんとも言えない静寂。
音のない、張りつめた空気だけが、その場を支配する。
その異様な沈黙に、セリアは思わず息を飲んだ。
次の瞬間。
静寂を断ち切るかのように、リッタは拳を強く握る。
その手の甲の上に――
手のひらサイズの、赤い魔法陣が、ふっと浮かび上がった。
「——限界解放」
リッタが、静かにそう告げる。
その一言と同時に、
魔法陣の赤が、一段階、二段階と濃くなっていく。
まるで心臓の鼓動に合わせるかのように、
それに引き寄せられた熱が、手甲そのものを赤熱させていった。
アリシアは、その光景から目を逸らさない。
そこにいるのが、もはや一切の手加減を捨てたリッタであることを、はっきりと理解していた。
迎え撃つ覚悟を決め、
剣を握る手に、ぐっと力を込める。
リッタは、まっすぐにアリシアを見据え、顔を上げた。
「いくよ」
その一言を合図に――
次の瞬間、地面が爆ぜる。
踏み込んだ足が土を抉り、リッタの身体は弾丸のように射出された。
セリアの目には、その動きすら捉えきれない。ただ、空気が引き裂かれた感覚だけが残る。
アリシアもまた、即座に反応した。
眼差しが研ぎ澄まされると同時に、彼女も踏み込む。
刹那。
空中で、手甲と氷華が激突した。
鋭く、高い金属音が弾ける。
連続して打ち合わされる刃と拳が、火花のような衝撃を散らした。
だが、今回はそれだけでは終わらない。
激しい金属音に混じり、淡く赤い光が飛び散った。
火の粉にも似たその光は、リッタの手甲から迸ったものだった。
次の瞬間――
「ガキン!」
一段と重い衝突音が響く。
その反動で、リッタの身体が大きく弾き飛ばされた。
元いた位置付近まで吹き戻され、地面を削るように足を滑らせる。
「——っ!」
ざざざ、と音を立てながらも、どうにか体勢を立て直し、着地する。
その光景に、セリアは息を呑み、反射的に視線を上へ向けた。
アリシアは――まだ、空中にいた。
彼女の手に、氷華はない。
既にその姿は消え去り、左手は自然に下ろされている。
代わりに、右手を前へ掲げ――
青く澄んだ魔力が集束し、空中に魔法陣が展開されていた。
セリアの視線が、弾き飛ばされたリッタへと移る。
リッタは、荒い呼吸の合間に、また小さく笑った。
そして、独り言にも近いほどの小さな声量で、ぽつりと呟く。
「それでこそ……白き英雄」
その言葉を受けることなく、
アリシアは魔法方陣を展開したまま、静かに詠唱へと入った。
「蒼き深淵に満ちる記憶、
世界を支えし静なる循環よ――
その理を借り、
世界を衡る重みとなりて
ここに顕れよ。」
詠唱が紡がれ始めた瞬間、
空間に集束した魔力が、深く蒼い水へと姿を変える。
水は渦を巻き、蠢きながら、次第にその規模を拡大していった。
まるで海そのものが、この場に呼び出されつつあるかのように。
やがてアリシアは、前へ掲げていた右手を、静かに横へと向ける。
それに呼応し、魔法を生成していた方陣もまた、軌道を変えるように横へとずれた。
「蒼海より顕れる大いなる鯨
《セレスティアル・オーシャン》」
アリシアが魔法名を告げると同時に、
渦を巻いていた蒼い水は、その形を変え始める。
水流は輪郭を持ち、質量を帯び、
やがて――巨大な鯨の姿を象った。
圧倒的な存在感。
そこにあるのは、もはや単なる魔法ではなく、
神話の一頁が具現化したかのような光景だった。
アリシアは、その大魔法を前に、短く言葉を添える。
「この大魔法が、今の私の限界」
その言葉が示すのは、誇示ではない。
到達点を自覚した者だけが口にできる、静かな事実だった。
圧倒的で、なおかつ神々しい魔法を目の当たりにし、
セリアは思わず息を吐く。
「すごい……アリシア様。なんて神秘的な魔法なの……」
驚嘆は、叫びではなく、静かな感嘆として零れ落ちた。
アリシアの魔法によって生み出された巨大な鯨は、
深く蒼い、膨大な水をもってその身を形作っていた。
太陽の光を受け、無数の水粒がきらめく。
その巨体は、空に浮かびながらも確かな質量を感じさせ、
悠然とした存在感で空間そのものを支配していた。
それを地上から見上げるセリアの目には、
まるで神の遣いが顕現したかのように映る。
神々しく、そして神秘的。
言葉を失うほどの光景だった。
アリシアは、その大いなる魔法を背に、にこっと小さく微笑む。
「いくよ」
そう一言告げると、
彼女は右手を高く掲げ――そして、ためらいなく、大きく振り下ろした。
「ピィィィィ……ォォン……!」
その瞬間、
甲高く、澄み切った鳴き声が、空へと解き放たれる。
それは深海に沈む重苦しい音ではない。
天を貫き、世界に自身の存在を知らしめる、孤高の声だった。
声を引き連れ、
光の軌跡を描きながら――
蒼き鯨は、一直線に、リッタへと突進する。
リッタは、地を踏み抜いた。
次の瞬間、鈍い破砕音とともに、足元の大地がひび割れる。
放射状に走った亀裂が土と石を跳ね上げ、衝撃で地面がわずかに沈み込んだ。
それほどまでの踏み込みだった。
その反動を逃がさぬまま、リッタは蹴り上げるように身体を前へ解き放つ。
そして、技名を告げた。
「穿空を砕く紅熱衝拳」
言葉と同時に、宙へ向かって連続で拳を叩き込む。
振るわれるたび、拳の前方で空気が強く圧縮され、
その圧は赤く灼けた蒸気をまとい、前方へと弾き出された。
一発ごとに生まれるのは、
拳大の衝撃。
そして、熱を帯びた空圧。
それらが間を置かずに撃ち出され、
残像のように重なり合いながら、
やがて波状の衝撃となって押し寄せる。
連続する熱衝が、
アリシアの放つ魔法――膨大な水量から成る蒼き鯨へと、次々に叩きつけられた。
衝突のたび、激しい蒸気が噴き上がる。
水と熱が拮抗し、白い霧が空を覆っていった。
だが――
それも、長くは続かなかった。
リッタの放つ拳の威力が、次第に落ちていく。
それはセリアの目にも、はっきりと分かるほどだった。
まるで巨大な水鯨が、拳そのものを飲み込んでいくかのように。
抗い続ける衝撃を、
圧倒的な質量と魔力の差で受け止め、押し潰していく。
そこにあったのは、
覆しようのない――力の隔たりだった。
今にも熱で暴発しそうな手甲を見下ろし、
リッタは、くっ、と短く息を漏らした。
「ここまでか……」
そう呟くと、なおも数発、惰性のように拳を放つ。
だが、その動きは次第に精彩を失っていった。
力の差を悟ったのだろう。
やがてリッタは、諦めるように攻撃の手を止め、腕を下ろす。
空中に留まり、ただ立つ。
抗うことも、逃げることもできない。
ただ一身に、
アリシアの魔法を受け入れるしかなかった。
アリシアの放った水鯨は、そのままリッタを包み込む。
膨大な水圧が、逃げ場を与えぬまま、彼女の存在を飲み込んでいった。
飲まれる、その瞬間。
リッタは、何かを悟ったように、小さく口を開く。
「これが……英雄の力……」
その言葉とともに、
彼女はほんのわずか、満足そうに笑った。
そして――
蒼き水鯨の深部へと、静かに、飲み込まれていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
本作の更新は、引き続き行っていく予定です。
また、少し毛色の違う新しい物語も、静かに書き始めました。
どちらも、一日二日おきのペースで更新していく予定ですので、
よろしければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。
今後とも、よろしくお願いします。




