先生と隊長
「すまないね、急に呼び出す形になって」
赤髪の女性はそう告げると、口にしていたスキットルを机の上に置く。
豪奢な室内と豪奢な家財道具。
その全てはキスレチン共和国が彼女のために用意したものではあるが、当の本人はいつもと何ら変わりはない。
国家元首に不似合いの安酒と、そして機能性を優先した生地の少ない服。
だからこそ青年はどこか嬉しく思う。
彼女が今も彼女であることに。
「いえ、ナーニャ先生にはお世話になりましたから。お呼び頂ければ駆けつけるのは当然です」
「はは、先生……か。皮肉だね、フェルム。よりにもよってあたいがその名で呼ばれるとは」
思わぬ言葉を耳にし、ナーニャは苦笑を浮かべながら軽く肩をすくめる。
それに対して、フェルムはすぐに首を左右に振った。
「僕にとって、先生は先生です。間違いなくあの人と同じように……」
ラインドルが誇りし当代一の魔石研究者、フェルム・リナ・ファンデル。
もはや誰しもが彼を敬い、その教えを請わんとする立場となったフェルムであるが、それでも決して頭の上がらぬ存在はいる。
父の跡を継ぎ祖国であるラインドルの大学長となった女性。
目の前の赤髪の美女。
……そして彼女をフェルムに紹介した存在。
そう、自らの師と仰ぐ僅か三名の存在は、名声を得た今の彼においても、依然として特別な意味を持ち続けていた。
「しかしよろしいのですか? 僕などをお呼びになられて。慣例なら連日他国の要人方と会談されるものと思いますが……」
「はん、どこかの誰かが馬鹿をやらかしたからね。西方会議のスケジュールは既にぐちゃぐちゃさ。今更予定の一つや二つ無視しても大差ないさ」
「本当に相変わらずですね、ナーニャ先生」
あの頃と変わらぬ赤髪の女性の物言いに、苦笑を浮かべつつフェルムはどこか懐かしく、そして同時に嬉しくなる。
だがそんな彼の反応に気づいたナーニャは、敢えて少しばかり皮肉げに口元を歪めてみせた。
「まあすべての力を失った国の、ただの後始末をしているだけの人間に過ぎないからね、あたいは。今更他国とやりあおうなんて思ってもいないと、わりかし自由にできるものさ。こうして適当に酒を飲める程度にね」
「でもあなたがいなければ、フィラメント公国はきっと今頃――」
「それ以上は言いっこなしだよ、フェルム」
照れ隠しかスキットルを口元に寄せ、ナーニャはフェルムを目線で制する。そしてそのまま彼女は、話題を転じさせるかのようにフェルムへと本題を切り出した。
「ともかくあんたを呼び出したのは他でもない。あの男を探してくれないかい?」
「先生を……ですか?」
目の前の女性が口にした言葉の意味。
それを確信を持って自らの解釈に置き換えたフェルムは、彼女とはまた異なる感情を含んだ先生という名称を口にする。
それに対しナーニャは、迷うことなく首を縦に振ってみせた。
「ああ、あたいなりにもツテがないわけじゃないんだけど、あの男のことになると、どいつもこいつも信頼できないからね」
赤髪や銀髪の両名に、女癖の悪い金髪など、様々な人物の顔が脳裏に浮かびはする。
いずれもがそれぞれの立場において極めて優れた才覚を示し、威厳と権威を持って確固たる地位を築き上げた者たち。
しかしそれらのどいつもこいつも、あの男のことに関してだけは威厳など何処へやら、まったく甘さが抜け切らないというのがナーニャの評であった。
一方、フェルムは目の前の女性も同類ではないかと感じつつ、同じく頭の痛い存在が脳裏に浮かび、同意見だとばかりに思わず小さくため息を吐き出した。
「……わかります。うちの陛下も、あの人の事だけは特別扱いですから」
「へぇ、なるほどね。で、それに対して思うところがあるかい?」
「正直に言うと、むしろもう少し大事に扱ってもバチは当たらないと思います……いや、やはり僕も、先生のことになると些か甘くなるのかもしれませんが」
ナーニャに対するものとは異なる、どこか懐かしさと敬意を込めた先生という呼称。
今では彼自身が先生と呼ばれる立場となったものの、彼がその呼称を向ける人物の背中は未だに見えてはいない。
するとそんな彼に向かい、ナーニャはどこかおかしそうに軽く笑い声を上げる。
「はは、やはりあんたは相変わらずだね。基本的にあの男は適当に尻を叩いてあげる位がいいのさ」
「ともかく依頼は承りました。いや、ちょうど良かったです。我が国の陛下からも同じことを頼まれていたところでしたから」
「なるほど、あの坊やも……いや、もう坊やとは言えないか。ともかく、あんたんとこの王様も、苦労してるね」
かつて何度か肩を並べ戦場をともにしたこともある少年。
今や彼女と彼は、そんなことなど決して想像され得ぬ立場となってしまった。
だがそれでも彼女が認める数少ない戦友のことを知り、ナーニャの機嫌はわずかに上向く。
一方、苦労という言葉を耳にしたフェルムは、正直な感想をナーニャへと返した。
「うちはまだマシですよ。フィラメント同様に魔石の産地ではありますから」
「帝国は危うく立ち行かなくなるところだったからね。もっとも隊長がうまく差配したから、どうにか国が回っているけどさ」
「また隊長って言ってますよ、先生」
彼女にとって、あの人がそれ以外の呼称を向けるべき人物では無いことはフェルムにもわかっていた。
だがそれでも、目の前の女性がどこか無理をしているかのように感じられて、フェルムは思わずそう指摘せずにはいられない。
しかし完全に開き直った赤髪の女性は、どこか懐かしむような視線を宙に向けながら、スキットルを片手に誰に聞かせるともなく呟いた。
「いいのさ。あたいにとって、所詮あいつはカーリンで出会ったただの昼行灯の隊長さ……そう、唯一このあたいが自らの上官と認めるね」
***
「クシュン!」
開け放たれた窓からわずかばかりの冷気が入り込み、馬車の中で安らかな吐息を立てていた男は思わずくしゃみをする。
途端、そんな彼に向かい侮蔑の視線を向けながら、黒髪の少女は冷たく警告を口にした。
「何、風邪でもひいたの。だとしたら感染さないでね」
「いや、風邪なんて引いたつもりはないんだけどね……誰かに噂でもされたかな」
緩やかに意識を覚醒した黒髪の男は、軽く頭を掻きながらそうつぶやく。
しかし黒髪の少女は、そんな彼に向かい容赦ない言葉を続けた。
「だとしたらろくでもない事を言われたのでしょうね。まぁ事実だからあきらめなさい」
「ひどいなぁ。こう見えても私は、この世界の管理者なんだよ。この上なくまっとうに生きているんだから、もう少しみんな大事にしてくれても良いと思うんだけどね」
やや不満げな口調でもう一度眠り直そうとする黒髪の壮年。
だがそんな彼のスネを、黒髪の少女は迷うことなく蹴り飛ばした。
「無理ね。あの赤髪に頼まれたから、もう少しだけ付き合ってあげるけど、もう着くのだから起きていなさい。時間は有限なのよ」
「いつつ……クレハみたいな無茶を言わないでくれよ。今日は朝方まで起きてたんだから」
「飲んだくれていただけでしょ。まったく、あの銀髪に聞いていた通りね。こんなのに遅れをとったなんて、私の末代までの恥よ」
本心から吐き捨てるように、少女はそう言い放つ。
一方、黒髪の壮年は困ったようにどこか言い訳じみた言葉を紡ぎ出した。
「はは、それは申し訳ない。もし私なら私が末代だろうから、恥は全部自分で背負えるからいいけどさ。なかなかままならないものだね」
「ふん、くだらないこと言ってないで、いつでも出れるように準備をしなさい。もうすぐ港に着くわ。陸路では行きたくは無いんでしょ?」
そう言い捨てると、無駄に散らかした馬車の中へと彼女は視線を向ける。
それに対し黒髪の男は苦笑を浮かべると、ばらまいたままの書物をまとめながら、ゆっくりと自らの本心をその口にした。
「まあ陸路だと色々と厄介な状況だからね。越える国境は一つがいい。少なくとも、あんな宗教都市……トルメニアへと向かうのならね」