中編
「そうか、君は巫女の一人と幼馴染みなのか」
「ええ、兄のように面倒をみたものです。ですが今は立場は逆転したようなもので」
「巫女の勤めはそれなりに大変だからな」
にこやかに若い料理長に受け答えするオルディアス卿の手には、小さなナイフと芋。上質なシャツの袖をまくり上げて、器用に皮を剥いている。
最初は萎縮していたくせにすっかり打ち解けて話し相手になっているのは、ソーニャの幼馴染みでもある料理長のハンザ。神殿のある町で暮らしてきたせいもあり、仕入れなどに顔が利くことで料理長に収まった人物だ。
下町育ちではあるが神殿の中で揉まれて、好青年に育っている。調理場に出入りしている者のほとんどは、ハンザがソーニャを追って神殿勤めを希望したことを知っている。いや、態度で感づいていると言ったほうが正解か。
一方でソーニャは巫女仕事を15歳からしているせいか、今でも夢見る乙女。ハンザの気持ちになど気づくわけも無く……。だが幼馴染みへの気安さから、今でも何かにつけてハンザに甘えるそぶりをしているのだから始末に負えない。
ハンザとて昨昼の挨拶では食堂に来ていたので、ソーニャの目がオルディアス卿へ向いていたことは気づいているだろうに。
「ソーニャは俺から見ても、頑張っていると思います」
ハンザの人が良すぎるのが、二人の関係が幼馴染みから一向に進まない理由なのだ。さっさとソーニャに告白して巫女下がりを願えば、現金なソーニャのことだ、悩みはしてもあるべき場所に収まりそうなものなのに。
本当に馬鹿がつくほどお人良しだ、オルディアス卿に惚れた娘を売り込んでどうするのか。
私は呆れつつ、剥き終わった芋を篭に放り投げた。
その隣に山盛りとなっている篭は、聖堂騎士オルディアスが剥いた芋だ。器用にも喋りながら慣れた私よりも早いので、少しばかり面白くない。
騎士とはいえ神殿を守る儀式が主、この帝国において直接的な戦闘を担う人間ではない。加えて貴族のお坊ちゃんが、下働きの手伝いを買って出ないでもらえるだろうか……。
「そんなに驚くほどのことではない。訓練で野外宿営もあるからな」
まるで心を読んだかのように私に向かってそう言った。
「君は存外に分かりやすい」
顔に出ていただろうかと水に濡れた指で頬をさする。
「汚れてしまう」
びくっと身体を反らしたけれど、伸びてきた手にあった綺麗なハンカチが、私の頬を拭っていた。
ハンカチが汚れるではないか。
「ハンカチは、汚れを受けるためにあるんだよ、カルディナ」
またこの男は、人の心を読んだように微笑む。
どれほどの巫女をこうして籠絡してきたのかと、警戒の笛が頭の中に鳴り響く。
するとオルディアスは声を上げて笑い出した。
「こういう軽薄な男は嫌いか?」
好みとは正反対だな……いや、変なことを聞くな。
「その黒髪は、他の巫女のように下ろしたりしないのか?」
長い髪が食事に紛れるではないか。そんな飯を出した時に叱られる身にもなってみろというのだ、黒髪はこの神殿では私しかいないのだ。
「ああ、今は無理だろうけれど」
爽やかに笑うな。そしてそう思っているなら言うな。
この男に口は災いの元だと教えてやりたいものだ。かつての私のように、政敵によって背中から槍を受けてみれば身に染みるはず。
いや、死んで学ぶのは愚か者のすることだ。
眉を顰めて呆れているはずの私を見る目が、急に甘くとろけるような色を纏いはじめた。私はぎょっとして思わず身を引く。
居心地がわるいというか……中身が正反対なのに、容姿が友に似ている。だからなおさら気持ちが悪いのだ。
剥く芋もなくなったことだし、私はさっさと逃げることにして篭を持ち上げようとしたのだが、それを奪い取られてしまう。
「これから唄と祈りの時間なのだろう? これは俺が運んでおこう」
確かに朝餉の前は巫女の仕事がある。だが私は『声なし』だから、出番はない。
首を横に振ると、調理場の奥に戻っていたハンザが助け船を出してくれた。
「旦那、その子はもう免除されてるんですよ。満期まであと三ヶ月を切ってるから」
それを聞くと、何故かオルディアスは目を見開き、まじまじと私を見下ろす。
「神殿を、出るつもりなのか? それとも中央神殿行きを希望している?」
は? この男は本当に大丈夫なのか。
中央神殿とは、帝都にある総本山、ナバロン神殿の別称だ。そこに行って巫女を続けられるのは唄える巫女しかない。そんんことは子供でも知っていることだ。
「仕事先は、見つけてあるのか?」
私は頷くか首を振るか、二択しかない返事すらもしようがない。
今後のことはまだ決まっていないが、神官長にどこかの神殿の裏方を紹介してもらう手筈にはなっている。
「そうか……分かった。すまない、用事を思い出した」
おいまて、今のやり取りで何を勝手に納得した?
急に深刻な顔をして、野菜篭を調理場の机に置くと、オルディアスは足早に調理場を後にしてしまう。
いったい何だというのか。本当に訳がわからない奴だ。あの美麗な容姿で中身に問題があるとしたら、さぞ大変だろうと僅かに同情すら覚える。
だがまあとりあえず、去ってくれたのは幸いだと思いながら、私も足早に裏庭に向かったのだった。
巫女たちが唄を歌うのは、神殿の祭壇前。礼拝のための広いドームの奥からは、唄が空と大地に届くよう中庭へと通じる。そこで並んで歌う若い巫女たちの声が、ドームにも反響する。
神聖な唄を女神に届けることは、神殿にとって最も大事な役目だ。祈りとともに女神へと唄は届けられ、地域の土地は生気を取り戻し、豊かさを人々に与えてくれる。
私はというと、礼拝堂の裏手にあるうっそうとした森のなかで、声のない唄を歌う。
ここに神殿が造られたのは、とりわけ多くの人たちがかつて亡くなった地でもあったからだ。三百年前、戦乱のなかこの辺境では貧しさが増し、多くの者たちが命を落とした。その遺体を埋めることも焼くことも叶わず、神殿のそばにある森の奥に放置されたという。
たくさんの悲しみ、怒り、憤りと恨み。その想いが森を変容させてしまった。
今から二つ前の人生で、この地を一度訪れたことがあった。
もう力を使い果たして死が近づいていた頃だった。この地に行き着いた時には、森の穢れが村人を誘い込んで襲うことがあると聞かされた。その時にも幼児が行方不明になっていて、村が騒然としていた。子供を探してこの森に入り、穢れを払おうとしたが、力及ばず清めきれなかった。
そこで私は命を落としたが、少なくとも子供は救うことができたのだから、悪くない人生だった。
「ここに居たのですか、カルディナ」
森の奥の小さな泉の前に立つ私が振り返ると、呼びかけたのはセテ神官長だった。
彼がここに来たということは、唄が終わったということかと悟る。だが清めきれてない森に入るのはよくない。戻ろうと神殿の方を指差すのだが。
「……ずいぶん、日差しが入るようになった」
何人たりとも足を踏み入れることが禁じられている森だ。この森の瘴気から町を守ることが、ここのウルクマ神殿のもう一つの役目。
それを我が身をもって知るのは、かつての幼児だったセテ神官長自身だ。
私はすっかり白髪になってしまった彼に、時の流れの速さを感じる。
「あと、三ヶ月で全てが終わるというのは……」
私は彼に微笑みながらしっかりと頷いて見せる。
だがそれと同時に、油断はしてはならないと手で示す。穢れは人の想いでできている。浄化の間際こそが、もっとも足掻くのだ。
再びあの時の幼児……セテ神官長のように、穢れに心を写し取られて襲われる者が現れないようにせねばならない。それは彼にも伝えてある。
「ええ、分かっているのですが……」
心配事があるようだ。
その時、泉からピチャンと水音がした。そしてどこかから咆哮のような声がこだまする。
「戻りましょう、カルディナ」
神官長に向けて頷く。
私たちはとりあえず森から出るために、足早にその場を離れた。
垣根の奥に隠された扉を抜けて、神殿の裏庭へと出たところで、神官長の背中が私を庇うように止まった。
「そこでいったい何をされていたのか、セテ神官長」
厨房で聞いたばかりだったはずの声が、低く固く、そして威圧的だった。
骨格が似ていると声もとは聞いたことがあるが、これではまるで……。
かつての友の名を思い出し、いいやと否定する。
「しかもカルディナを連れて……危険なことをさせているのではあるまいな」
聞き捨てならない言葉に、私は顔を上げて前に出た。
だが目の前に立つ騎士は、厳しい目をセテ神官長に向けている。
「カルディナを我々の目から隠そうとする理由はなんだ。我らが例の巫女を捜していることを承知の上での行動か?」
例の巫女?
何の話をしているのかと神官長を振り返ると、彼は渋い表情を浮かべながら、気圧されるように膝をついた。
「……お許しください、決して女神に背く意図があってのことでは」
悠然と立つ聖堂騎士オルディアスは、ただ神官長を見下ろしている。
にこやかな笑顔を消したその姿は、今度こそ友、アンプローシウスの姿と重なった。
いいや、そんなはずはない。
彼は五百年、魂は浄化という名の責め苦に耐え続けると女神は告げたのだから。
「ならばどういうつもりだった? 『声なし巫女』の顕現は、報告の義務を課されていたはずだ」
私は驚き、神官長を再び顧みる。
「やはり知らされてなかったのだな、カルディナ」
どういうこと?
混乱を見透かしたように、オルディアスが続けた。
「中央神殿では、喋れない巫女を長年捜している。生まれながらに声を発しない女性がどこからともなく現れ、穢れを浄化しているらしいと各地に言い伝えとして記録が残っている。その者は、決して同時期に存在しない。だから中央がそれを知ったのはここ最近のこと……最後の記録はヒューゴという村、その前はこの地」
私は内心、ドキリとする。
それは神官長も同じ。
「当時、この地には魔の森が存在していた。人の心の傷を読み、欲する者に姿を変え、または憎しみの対象となり、人をおびき寄せて命を奪う。その魔から唯一逃れて生き延びた子供がいた……セテ神官長、あなたのことだ」
「確かに、間違いはございません」
神官長が答える。
だが聖堂騎士は尚更語気を強めた。
「その時に犠牲者が出ていることを、忘れているとは言わせない。そのような場所にカルディナを伴い……同じ轍を踏むつもりだったのか?!」
そのような事に、私がさせるわけがない。
憮然としたのを見逃さなかったのか、オルディアスが私に顔を向ける。
「大丈夫だと笑いながら、きみは俺の腕からこぼれ落ちた」
……強い瞳の奥に、絶望が見えた気がした。
次の瞬間、再び近くでピチャンと水音が跳ねた。
はっとして森を振り返る。
まずい。
身構える間もなく、黒い澱みが周囲に立ち上がった。腐食したような酷い匂いとともに、濃い霧のような黒い何かが、小さな裏庭をあっという間に浸食してくる。暑いくらいだった太陽の日差しを遮り、本能的な忌避感が寒気となって私たちを襲う。
セテ、早く立って。
膝をついていた神官長を立たせると、周囲を警戒するオルディアスの元に駆け寄り、三人で身を寄せる。
「これが、森の魔物か?」
オルディアスの言葉に私は頷く。消される最後の足掻きに、強い想いを取り込もうと何かに反応したのだ。
恐らく……とオルディアスを見上げると、彼は何かが見えているかのように、黒い霧の一点を凝視していた。
駄目だ、しっかりしろ。心を曝け出してはいけない。
私は注意を澱みから逸らそうと、彼の腕を引っ張る。だが鍛えた騎士の腕は私の力ではびくともしない。
だから彼の視界に入ろうと、彼と黒い霧の間に両手を広げて立ちはだかった。
目を覚ませ、澱みに心を映しては駄目だ。そう強く思いながら。
「……ウルクマ」
彼の大きく開かれた瞳に、私が映る。
黒い髪を乱しながら、長く、黒い槍に貫かれるかつての私が。
……アンプローシウス。
「ウルクマ! 俺を置いてまた死ぬのか?」
森の穢れは、黒く澱み、水鏡のようになって人を惑わす。
心の中に抱える悲しみ、喪失感、罪の意識を映す。
セテは己が生まれる代償に失った、顔も知らない母を求めて森に迷い込み、喰われて死ぬところだった。
穢れの鏡は、人の心の傷を映すが、無いものを作り出すことは不可能。
絶望という名の思い出を目に映し、涙を流す男の伸ばされた手に引かれて、かき抱かれた。
そして悲鳴にも聞こえる咆哮を聞く。
……アンプローシウス、まさか本当にお前なのか。
私を抱きしめながら、獣のような咆哮をあげるオルディアスの腕を叩く。
アンプローシウス、私を見て。
哀しみに囚われた彼は、びくともしない。
ああ、もどかしい。
私は大きく息を吸う。
「あ……ぃぅ、す」
あの時も同じだった、彼の名を呼んであげたかったのに、私の穴があいた胸は動く力を失い、喉に空気を通すことはなかった。
アンプローシウス。
アンプローシウス、私は死んでいない、しっかりしろ馬鹿。
その呼びかけに、ようやく彼は目の前にいる私、カルディナを見た。
穢れの鏡との繋がりが切れたのを察して、にっと笑い、唄を歌う。
相変わらず声は出ないが、今はそれで充分だった。
巣から引き離された澱みは、吐息の唄が一節すぎる度に掠れ、漂い、霧散していく。次第に太陽の光が私たちに降り注ぎ、冷えた身体を温める。
そうして長い唄が終わる頃には、黒い穢れが枯らした葉を残して、跡形もなく消えていたのだった。
というか、いいかげん離せ、変態、阿呆。
「嫌だ」
分厚い腕で拘束されたままなので、もがきつつ悪態をついたのだが……おかしい。前から思っていたが、おかしい。
離せって。
「嫌だ」
言うことを聞かなかったら絶交する。
するとぱっと腕を開く。
そして私から目を逸らすオルディアス。
おかしいとは思っていた、さてはお前、私の心を読んでいるのか? いつから?
ぎっと睨みつけると、小さく呟いた。
「最初から」
は?
「女神が、餞別にくれた力だ」
はあああ?
叫びにも似た私のつぶやきに、耳を塞ぐ仕草をする彼の姿を見て、それが事実なのだと理解するしかなかった。