第一章 完璧な夫のもうひとつの顔 ─ 浮気調査のリアル
「夫は完璧なんです」
当探偵事務所を訪れた女性は、そう切り出した。
30代後半。都内在住の共働き夫婦で、6歳になる娘がいるという。
彼女の口から語られる夫は、誰もが羨む理想そのものだった。
残業は時々で、平日のほとんどは定時で仕事を切り上げ、保育園に娘を迎えに行ってくれる。休日は家族でレジャーへ。
誕生日や記念日も欠かさず祝ってくれ、家事も積極的に分担。
家計も安定していて、何ひとつ不満はないように思えた。
「でも……」と、彼女の声がわずかに震えた。
「最近、急に残業が増えたんです。それとスマホを手放さなくなったんです。トイレやお風呂にも持ち込むようになって……パスコードも変えられていて。」
決定的な証拠はない。
けれど、そういうときこそ、真実が潜んでいる。
違和感とは、経験や知識を超えて本能が感じ取る“兆し”だ。
私たちは依頼を受け、調査に入った。
【調査開始──浮かび上がる“違和感の正体”】
対象者である夫は、IT系企業に勤務。
服装は清潔感があり、言動も落ち着いていた。
3日間は、特に目立った行動もなく、娘を迎えに行って、真っ直ぐ帰宅していた。
しかし、4日目の午後、変化が訪れた。
いつもなら通るはずの帰宅ルートを外れ、タクシーに乗って繁華街へ移動。
周囲を見回した後、夫はマンションの中へと姿を消した。
数時間後、夫はそのマンションから20代後半と見られる女性と一緒に現れた。
二人は近くのコンビニに入り、イートインで並んで座った。
彼女がスマホの画面を見せ、夫が頷いて笑う。
そして、何のためらいもなく肩を寄せ合う二人。
その光景を、私たちは静かにレンズに収めた。
温かくも不穏な、その“裏の顔”を。
【真実の告知──感情が沈黙に変わる瞬間】
後日、調査報告書を依頼者に手渡した。
彼女はページを一枚ずつ、ゆっくりとめくりながら、表情を崩さなかった。
時折、目頭を押さえるしぐさを見せながらも、最後まで涙はこぼさなかった。
「やっぱり、そうなんですね……」
そうつぶやいた彼女の声は、小さく震えていた。
そして、静かに言った。
「夫は家族一緒の時間をとても楽しそうに過ごしていました。でもこの写真の夫も、とても楽しそう……こんな顔があったんですね……」
私は答えられなかった。
探偵にできるのは、“事実”を届けることまでだ。
その意味を考えるのは、いつも依頼者の側なのだ。
【表と裏──どちらが「本当の顔」なのか?】
その後も、夫は女性との関係を続けていた。
依頼者は弁護士に相談し、離婚を前提とした話し合いを進めていった。
「娘のためにも、できるだけ穏便に終わらせたいと思っています」
そう語る彼女の表情には、怒りよりも深い疲れと諦めがにじんでいた。
優しく穏やかな夫、家族を大切にする父親。
それらが“演技”だったわけではないだろう。
けれどその時間と並行して、別の“裏の人生”も確かに存在していた。
真実を知ったとき、人は選ばなければならない。
知らなかったふりをして共に生きるか、
それとも、知ったうえで手放すかを。
【章のまとめ】
人間は、誰もが“表”と“裏”を抱えて生きている。
探偵はその裏側を照らし出す存在だが、そこに映るのは決して単なる悪人ではない。
時に、それは孤独の果てに生まれた逃避であり、壊れそうな心が見せるもうひとつの顔だ。
表だけを見ていては、人の本質には辿り着けない。
裏だけを見ていても、やはりそれは不完全だ。
探偵という仕事は、感情を交えずに事実だけを見つめる。
冷静に、静かに、しかし確実に。
そして、最後に胸に残るのはいつも――人間の、どうしようもない切なさだ。